戦後のお米事情(埼玉県立文書館にて) | 総合診療医:誰もがわかりやすく医療を理解する事ができるブログ

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「否定の極論」記事に疲れたあなたへ贈る:「食事」「睡眠」「運動」・・これら「健康の三本柱」をねじ曲げずにポジティブに考えるブログです。

浦和にある埼玉県立文書館(もんじょかん)に行ってきた。
  
第二次世界大戦後のお米事情について学んできた。
  

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今では不自由なく食べられるお米だが、戦後の混乱期にかけては、非常に不足していた。
  
配給以外では、大量のヤミ米が流通、戦後の人々はそれを手に入れる事でやっと食事ができていた。
  

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ヤミ米の取り締まりが野放し状態だった当時、街のの食堂で必要とされた外食券がなくても、人々は自由に白米を食べる事ができた。
  
さらに、ヤミ米の取り締まりをしているはずの県立食堂(上の写真)ですら同じ状況であったため、取締り局は避難されていた。
  

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上の写真は、昭和27(1952)年6月11日、午前4時から大宮署員86名が動員。
  
2時間で東北本線3本、高崎線2本の取締りが行われ、米173俵が押収された時の模様。
  

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その後も、干ばつがあったり・・・
  
上の写真:昭和33年の5月に、雨らしい雨が降ったのは、浦和市(現;さいたま市浦和区)で2日間だけ。
  

文書館24

  
水害など度重なる災害が埼玉県などを襲った。
  
上の写真は:比企郡吉見村(現;吉見町)の様子。
台風で流された稲を拾うため、農民たちは船を出し、混ざり合った稲を拾って分配した。
  
人々は稲の栽培に多大な苦労を強いられた。
  

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食料不足の中でも、人々はお祭りの食事を楽しんでいた。
  
上の写真:昭和25年川口市の赤井氷川神社で、毎年行なわれるオビシャ祭の模様。
強飯式(ごうはんしき)という、一升(=お茶椀約23杯分)飯食い競争に興じている様子。
  

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それでも努力の甲斐あって、栽培が軌道に乗ると、収穫量は伸びて一時は30万トンに至った。
  
昭和41(1966)年以降は減反により、収穫量は減少へと転じたが、今でも毎年約17万トンのお米が、埼玉県内で生産されている。
  

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あらためて、戦後の米の歴史と人々を写真で見つめてみて・・・
  
現代社会、何と贅沢な事だろうか!!
世界には戦後の日本と同じ、あるいはそれ以下の食料事情の国も多い。
  
現代の我々は物に恵まれ・・・
それが当たり前になると・・・
物を大切にしないどころか・・・
平気で捨ててしまう。
  
  
何らかの健康方法を見つけて、それで健康を取り戻すと・・・
飲食物のマイナス面を探して否定したがる。
西洋医療を否定したがる・・・などなど。
  
これは私も所属するM社の一部の会員も例外ではない。
現在の日本人を、生きるのに必死だった戦後の日本人が知ったら、きっと悲しむことであろう。
  
米を大切にしない・・・
おまけに、日本の食料廃棄率は世界一!!
  
米を大切にしない日本人を、どうしたって好きになれない。
我々日本人が、子供の頃から我々の身体を作ってくれた米に、もっと感謝すべき・・・
あらためてそう思って帰ってきた。
  

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文書館4