張りぼてのシバ神③

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脅しに近いことだと考えているのが、二番目の女性問題である。数年前に私の片思いからトラブルが生じたことがあった。結局は二人が話し合って解決したのであるが、一時は団体が中に入って仲裁してくれようとしたらしい。らしいというのは、私自身は団体に中に入ってもらうと碌な事がないので、団体には仲裁などしてほしくなかった。それにこんなネタを掴まれたら、その後どういうことに使われるか想像できたからである。その時はペナルティだとかいって団体批判のサイトを消せと言ってきた。私はサイトの運営などしていないのでその旨を伝えて終わったが。仮にサイトを運営していたとしても何故団体批判のサイトを削除せねばならないのか。「ばらされたくなければサイトを削除せよ」ということなのだろう。完全な脅しである。案の定、今回もこの脅しを使ってきたということだろう。

私の問題をなぜ組織の問題として出入り禁止にするのか。その論理は破綻しているとしか思えない。代表の問題を追及するときにスタッフなどがよく使う言い訳は「彼も完全ではないから」という理屈である。確かにそうであろう。では何故、参加者に完璧を求めるのであろうか。自分達のことは棚に上げ、煩悩に振り回される人間は団体には参加できないということなのだろうか。そんな人間がひかりの輪に来るとは思えないんだがな。

念を押しておくが、女性問題に関して当人同士は全く問題にしておらず関係は今なお良好なのである。実話ナックルズにおいて上祐さんがスタッフに暴力を振るっていたことが明らかにされたし、私も暴力を振るわれたスタッフから直接話しを聞いたこともあるが、上祐さんがどんなにDV男であろうとそんなことを一度も問題にしたことはなかった。当人は告発しようとは考えていなかったからだ。それと今回はどう違うのか。末端の会員の問題は組織の問題で、トップの失敗は人間だからで済ますというのであれば本当に本末転倒。ご都合主義もここに極まれり。目糞、鼻糞を笑うとはこのことだな。

迷惑をかけられたと団体は言うかもしれない。開き直りの言葉に聞こえるだろうが反論させてもらう。生まれてから何一つ迷惑をかけずに生きてこられた人間はいるのだろうか。何かしら人は迷惑をかけながら生きていくものである。後は程度の問題であろう。団体が迷惑かけられたといって人を排除するのであれば、オウムを排除しようとしているこの社会と何が違うというのか。もし、事件後、破防法がかけられて社会から抹殺されていた方が良かったというのであれば、今からでも遅くない。社会に対して訴えていけばいいじゃないか。自分達も消えてもいいからアレフとともに破防法の適用、もしくは団体規制法再発防止処分をお願いしますと言ってみろ。それが言えたなら、迷惑かけた人間は存在してはならないという論理的一貫性も出てくるであろう。人を排除しようとすれば、かならずオウム問題がネックとなって自らの喉元にその論理は跳ね返ってくる。だから、オウムの反省から一元的な考え方にならざるを得なかったのである。一体、あれほどの経験から何を学んできたのか。

私の問題は私個人の問題であって団体の問題ではない。でも団体のトップの問題は団体の問題であって組織の問題である。なぜならトップの失敗は組織全体に影響を及ぼすからである。どれだけ恨みながら、あるいは冷めてしまって去っていった人たちを何人見てきたことか。組織のトップの判断の間違いがどれほどまでに人を傷つけてしまうか、その影響力は甚大である。オウム事件でそれを学んだのではなかったのか。とにかく教義から理解しようとしても組織運営上から理解しようとしても、私の排除の理由としては自己矛盾を含み支離滅裂である。

ひょっとしたら、かつてひかりの輪名古屋支部のスタッフの間で強姦未遂事件があったとかの話しを聞いたことがあるが、そのようなことを心配しての排除ということだろうか。将来事件を起こすかもしれないとして疑わしい人間は排除するという論理なのかもしれない。私のことをどんな人間だと思ってくれようと結構だが、そんな論理がまかり通るなら、オウムの後継団体であるひかりの輪は、とうの昔にこの社会から排除されても仕方ないという理屈にもなるはずだ。

いずれにせよ、私には特に女性問題を取り上げてきた意味が本当によく分からない。詳しい説明もしてくれないし。やっぱり脅しとしか思えないのが非常に残念である。

以上が私が出入り禁止となった経緯と理由、そして私の反論である。

たかだか、出入り禁止になったくらいでここまで大袈裟にするつもりはないんじゃないかと思う人も数多くいることだろう。でも、常にオウム問題を考えてきた私にとってはそうはいかない。こんな些細な問題をなおざりにしてきたから事件は起きたのである。

一旦、組織が暴走しはじめたら、もう止められない。自滅するしかない。それはオウムを生きてきた人間の共通した意見であろう。では、いつの時点であれば止めることが可能だったのか。それは団体の総括にも書かれていない事柄である。おそらくはこのような小さい現象の積み重ねを黙認してきて、ついには誰も麻原には逆らえない組織が出来上がってしまったのだろうと思う。

事件の発端は、真島事件であった。修行中の事故を隠蔽したことから事件へと発展していった。なぜ、隠蔽したかといえば、救済計画が遅れるから。要は宗教法人が取れなくなるかもしれないという世俗的で組織防衛的な理由であった。自分たちの行動を正当化するために救済などという大義を前面に打ち出しただけのことである。この時点で誰かが異議を唱え、説得することができたなら、その後に起こる全ての事件は存在しなかったかもしれない。でも、できなかった。救済と言われると黙り込むしかなかったのであろう。この時ではすでに遅すぎたということだ。

麻原が最終解脱を名乗った時かもしれない。宗教法人を目指すと言った時かもしれない。色んな場面、場面が想定できるが、これだけは言える。その時には、後々に地下鉄でサリンを撒くような教団になるとは誰一人、麻原ですら考えていなかったであろうということである。

そんな馬鹿なと思っている、思える時に対策を打たねば遅すぎてしまう。それがオウム問題を20年考えてきた私の解答でもある。

ひかりの輪の連中は再び事件など起こすはずはないと一様に考えているであろう。しかしそれはオウムの信者もそうであったことを決して忘れてはならない。教団がそんなことするはずがないとほとんどの信者は考えていたのだから。少なくとも、オウムを反省した人間はそこをもっと重要視しても、し過ぎることはない。本当に反省したのであれば。二度と事件を繰り返さない、繰り返させないという基本理念の重みを考えてみる必要があるだろう。
 
今の団体で、事件当時オウムの犯行を知っていた人物は上祐さんのみ。他のスタッフはオウムがそんなことするはずがないと考えてきた人たちである。宗教的な解釈をするなら「業」は持っているということを十分に斟酌する必要もあろう。妄信することなしに。そんな簡単に「業」は乗り越えられるものではないのだから。上祐さんは教団存続のために自己保身のために嘘をついてきた。今はどうなのか?。スタッフはオウムがそんなことはしないと考えてきた。今はどうなのか?。
 
私を正当な理由もなく排除するということがどういうことなのかを事件を念頭に考えてほしい。こんな下らない理由でいちゃもんをつけヤクザまがいに排除する。そこに疑問を持つスタッフすらいない。それは坂本弁護士一家殺人事件を髣髴させる。もちろん規模は違うであろう。でも心の内は同じ原理が流れている。あとはどの辺なら良くてどの辺からはダメかという基準の問題でしかない。法律を破ったことはないとひかりの輪は言うかもしれないが、法律を守るなんてことは当たり前の話であって、事件の総括から生まれた結論が法律を守ることなんていうことなのであれば、智慧も慈悲も何一つ必要ないということである。小学生でも知っていることであろう。それを智慧の学び場という必要もない。法律の重要性を説き、法律を勉強した方がオウムの反省につながるってことになろう。
 
この世には善人もいれば悪人もいる。善人が悪人にもなるし、悪人が善人にもなりえる。それらの区別をつけることなく、慈悲の光で照らしていくのが、仏の姿であろう。それこそがひかりの輪で教えている一元の世界観でもある。それを前提にして考えうるのであれば、私の排除は事件の反省から生まれた思想すら、いざ団体防衛のためであれば、かなぐり捨てるということに他ならない。そう。それは坂本弁護士が教団の防衛のためには邪魔であるといってポアしたのと同じ思考パターンでしかないのである。一昨年、国を相手取って訴訟を起こしたが、その頃からより公安調査庁への不満を述べるようになってきた。公安調査庁に対する言動は智慧も慈悲もすっとんでいる。単なる敵としか見れていないのであろう。国家や社会に対する不満がより強くなってきた。ネットでも批判者にはかなり強引に反論しているのも目にする。そして、アクセス禁止、出入り禁止の対抗手段も取るようになってきている。些細なことではある。でもまるでオウムさながらの行為であり、善悪二元論そのものの行為であることは見逃してはいけない。こういう行為に危険性を感じ、たしなめる人間がいなくてはならない。自らの団体に対する危険性の認知能力がないというのであれば、事件への反省が全く為されていないといっていいだろう。かつてのオウム信者だった頃と同じなのだから。

こんなことの積み重ねが、暴走を許し、暴走を止められなくしていく。

規模が小さすぎるので何も出来はしないだろうが、本質はオウムと変わっていないことを考慮すると用心してもし過ぎることはないだろう。ひかりの輪は踏み越えてはいけない一線をすでに越えてしまっているかもしれない。

私はこのように排除される。前述したが自主解散することが一番ベターであろうと思うようになったし、これからはアンチひかりの輪の方で動いていくことだろう。内部からの自浄能力がないなら外圧をかけるしか手段は残っていないからだ。設立の頃から関わってきて、団体の将来に責任を有すると自覚して行動してきた私が取れる手段はもはや問題点を公にすることしかできない。それが私の責任の取り方である。

今まで、団体に対して恨み辛みを抱いて、あるいは呆れきって辞めていった人を沢山見てきた。「アレフの方が良かった。。。」とアレフからひかりの輪に来た人のかなりの割合でこの言葉を聞いた。期待した分だけ幻滅が激しかったのかもしれない。だからこそ、そのような人達の思いを抱いて少しはまともな団体にしたかった。事件を起こし、人を悲しみのどん底に突き落とし、怒りの頂点に達しさせ、住民を不安にさせ、信者の期待を裏切っては憎しみの念を起こさせる。それを考えた時に、ひかりの輪は「本当の幸せ」を説きながら、人を不幸にしかしていないということに気づく。非常に残念であるし無念でもある。

残った人達はひかりの輪を少しでも愛する気持ちがあるのなら、同じ過ちを起こさせないようにしっかりと自分の頭で考え、監視し批判していってほしいと願わずにはおれない。そのためにはオウムの問題を他人事として捉えるのではなく徹底的に学んで欲しい。オウム問題は解決したわけではなく、間違いなくひかりの輪にも存在し続けているからだ。そして問題が生じた時に内部からの自浄能力を身につけることがひかりの輪が存続するための絶対条件であるという自覚を持ってほしい。具体的なことを言うと、意思決定のプロセスの透明化、そして手続きの適正化だろうな。基本理念すら訳も分からず勝手に変えてしまう。議事録も公開しない。こんな閉鎖的でグルイズム丸出しのカルト団体のままでは世間は認めてくれるはずはないよということだ。

訳の分からないものに対して人は恐怖を覚えたり不安を感じたりする。情報が少なく何をしているのか分からないから、勝手な想像して恐怖心を募らせていくということを理解すべきであろう。昨年、トルコで入国禁止になったが、その時にISとの繋がりを疑うような記事となっていた。何故そのような陰謀論のような推測が成り立つのかを考えてみたらいい。この時期にトルコに行く理由が分からないからである。上祐さんは陰謀論を全て心理作用の結果として切り捨ててしまうが、陰謀論が何故に跋扈するのかということには説明はない。肝心な情報が不足、あるいは情報を隠蔽しているからであろう。不足した情報を補うために合理的な解釈を人はしてしまうのだ。それを払拭するためにはどうすればいいのかを考えれば簡単に答えは出てくるはずである。都合の良い情報を垂れ流して都合の悪い情報を隠蔽するスピンコントロールではなく、都合の悪いような情報をいかに公開していくかが鍵だな。それをシステム化していく必要があるということだ。

そのような体制が出来上がるまでは、弱みは決して握らせないこと。自分でやましいと思うような個人情報は与えないことだ。脅しに使われ利用されるか、排除の理由にされてしまう。オウムの教義は捨て去ったが、オウムの手法は全く変わっていないのだから。オウムの最高幹部で男の中では一番弟子。麻原の手法まで知り尽くした人間が立ち上げた団体である。まず手始めに情報をコントロールしているということを前提に考えるべきだ。公安や報道、ネットに対しては情報の一元化をして都合の悪い情報流出阻止、または訴訟や削除要請などで恫喝して圧力をかけ訂正させる。公安協力者には「違法行為である」と脅して団体側の人間として再利用。疑わしい人間も理由をでっちあげてでも排除。後は問題意識の低い人間、行動力の無い人間だけを残してマインドコントロールしていく。簡単なことだ。情報をコントロールしながら心象操作し、横の繋がりを絶って情報交換させない。団体との関係はアメとムチを使い分けてコントロールしていく。高額のお布施や勧誘までし始めたらもうおしまい。自己正当化の心理が働き後戻りはできない。気が付けばどっぷり浸かって抜け出せなくなっているであろう。それくらいの危機意識は持っておいてほしいし、少なくともそんな団体と付き合っているという気持ちは決して忘れてはいけないと思う。

情報が歪められた中で正確な判断力を保つのは難しいとは思うが団体の語る言葉ではなく、行動や態度を見てみる癖はつけておいた方がいいだろう。唯一救いなのは、上祐さんにカリスマ性が全くないということだ。本性はすぐに見抜けることだろう。見抜いた後はどうするのか。そこからは自分の選択ということになる。先ほども述べたが、団体に残るのであれば、折角だからオウムのような団体にするのではなく、オウムの反省を活かした団体にしていって欲しい。ひかりの輪は上祐さん一人で出来上がるものではなく、色んな人々の思いが交錯して、縁起しながら出来上がるものなのだから。団体がどのような団体になるかは、関わる人々の思いの総和であるということだ。

別れの言葉をいう機会さえ奪われてしまったが、ひかりの輪のスタッフ並びに参加者の方々には長年、本当にお世話になった。この場を借りて感謝の意を表したい。

今後はアンチひかりの輪として活動していくことになろうかと思うが、団体組織の問題を追及するだけで、個人、個人の方々には何の恨みもないということだけは、ご了承いただきたい。

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