お家へお帰りなさいまし。殺したのはあなたじゃないん
ですから

新潮文庫 ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟(下)』
220ページ


パーヴェル・フョードロヴィチ・スメルジャコフ

カラマーゾフ三兄弟の父フョードルが白痴の乞食女に生ませた
という私生児であり、カラマーゾフ家の住み込みのコックとし
て離れで暮らす、暗い性格の青年である。小説では完全にフョ
ードルの子であるとは断定できない存在として書かれている。

いつも隅の方から世間をうかがう、人見知りのはげしい少年に
なった。少年時代には、猫を縛り首にして、そのあと葬式をす
るのが大好きだった。
(上巻:234ページ)


という動物虐待の傾向をも持っていた。またスメルジャコフは
イワンの影響を強く受けていた。彼もまた無神論者であった。

わたしの考えでは、かりにそんな不慮の災難にあって、キリス
トの御名と自分の洗礼とを否定したとしても、ほかならぬその
ことによって、苦行のために自分の命を救い、長年それらの善
行で臆病をつぐなうためだとしたら、やはり何の罪もないだろ
うと思うんです。
(上巻:241ページ)


スメルジャコフは神を否定した瞬間からキリスト教徒としての
あらゆる権利を剥奪されるのであるから、キリスト教の教義に
よって裁かれることはあり得ないというのである。イワンはス
メルジャコフが自分の影響を受けていることを知りつつも、反
対に彼に嫌悪感を抱いている。

だが、最後にイワンを決定的に怒らせ、これほどの嫌悪を心に
植えつけたいちばん主要なものは、日を追うにつれてますます
強くスメルジャコフが示すようになった、一種特別ないやらし
い狎れなれしさだった。無礼な態度をあえてとるわけではなく、
むしろ反対にいつもきわめて丁寧な口をきくのだが、なぜかわ
からぬうちにスメルジャコフはどうやら何かの点でイワンと連
帯しているような気になったらしい按配で、話をするときはい
つも、まるで二人の間には、かつて双方から言いだして二人だ
けは知っているが、まわりにうごめく他の俗人どもには理解も
及ばぬ、何か秘密の取りきめでも存するかのような口調になる
のだった。
(中巻:14ページ)


このように思想的な連帯感(と言えるのかはわからないが)に
ついて無関心だったにはイワンの方であった。これがイワンの
欠点であり、限界であったのだ。

このイワンとスメルジャコフの関係についてはさらに深く考え
る必要があるように思える。二人は使用者と使用人の関係にあ
る。スメルジャコフはイワンの考え方に自分に一番近いものを
感じていながらも、イワンの欠点を熟知しており、彼を軽く見
ているところがある。

これは父フョードルの死後、つまり殺人事件発生後の会話である。

「あのときわたしの申しあげたかったことは、つまりそのため
にあんなことを口にしたわけですが、あなたが実のお父さまの
殺されるのをあらかじめ承知のうえで、見殺しになすったとい
うことでございますよ。その結果、世間の人たちがあなたのそ
んなお気持や、そのほかいろいろなことについて、けしからぬ
ことを推論しないようにと思いましてね。あのときお上に申し
立てないと約束したのはそのことだったんです」
(203ページ)


「わたしが今『そのほかいろいろなこと』と申しあげたのは、
たぶんあなた自身もあのときお父さまの死を望んでおられたは
ずだ、という意味でございますよ」
(203ページ)


この言葉の意味が示すように、イワンはスメルジャコフに見透
かされていたのである。イワンは父が兄ドミートリイの手によ
って殺されることを望んでいた。そのためにイワンはアリバイ
をつくるために家を離れるのである。「それでもことは起こる
はずだ」と妄想を抱いているのである。

たしかにドミートリイは父に対して殺意を持っていなかったと
は言えないだろう。あまりに周囲にそれを公言していたし、そ
の嫌疑が説得力を持つほど彼の行動は血の気が多すぎたのだ。
イワンはそれを利用しようとした。しかし、殺したのはスメル
ジャコフであって、ドミートリイではなかった。

「殺すなんてことは、あなたはご自分では絶対にできなかった
し、そんな気もありませんでしたが、だれかほかの人間が殺し
てくれたらと、それをあなたは望んでらしたんです」
(205ページ)


「あなたは残念ながらフョードル・カラマーゾフを殺すことは
できないんですよ」という言葉のように思える。それは私がこ
の作品を「誰がフョードル・カラマーゾフを殺し得たのか」と
いう視点で読んでいるせいだ。残念ながら力不足ですというこ
となのだ。

イワンの持ていたのは「すべては赦される」という思想とも呼
べない弱い発想であり、そんなごまかしでは「父殺し」などで
きるはずがないと、スメルジャコフは考えた。ではスメルジャ
コフはドミートリイのことをどう考えていたのだろうか。スメ
ルジャコフはドミートリイの「力」をどう考えていたのか。

スメルジャコフはドミートリイには「力」があっても「扉を開
ける能力も冷静さ」も持っていないと考えた。フョードルが決
めていた扉を開けるサイン(グルーシェンカが来たというサイ
ン:ノックを5回)をスメルジャコフはドミートリイにこっそり
教える。しかしフョードルから信用されていたのはスメルジャ
コフのみであり、父は警戒心から最後までドミートリイに対し
て絶対に扉を開けることはなかったはずだ。だから、またドミ
ートリイにもフョードルを殺す能力はなかったのである。スメ
ルジャコフはドミートリイには殺人を完遂することができない
という確信があったから、みずから赴きそれを実行したのだ。
アリバイ工作までして。

では、フョードルを殺したのはスメルジャコフなのだろうか?

答えは否である。ドストエフスキーは、父殺しにスメルジャコ
フを利用しただけであり、殺したのはイワンである。

「でしたら言いますが、殺したのはあなたですよ」怒りをこめ
て、彼はささやいた。
(220ページ)


「よくまあ飽きないもんですね! 差し向かいでこうして坐っ
ていながら、なんでお互いに欺し合いをしたり、喜劇を演じた
りすることがあるんです? それとも相変わらずわたし一人に
罪をかぶせたいんですか。面と向ってまで? あなたが殺した
くせに。あなたが主犯じゃありませんか。わたしはただの共犯
者にすぎませんよ。わたしは忠僕リシャールで、あなたのお言
葉どおりに、あれを実行したまでです」
(221ページ)


つまりこういうことだ。イワンがスメルジャコフを唆して、遠
隔コントロールし、フョードルを殺したのである。これは、村
上春樹が『海辺のカフカ』の中で、「父殺し」の意思を持つカ
フカ少年に代わって、ナカタさんが無意識の中で殺害を実行し
たのと同じ設定である。スメルジャコフは無意識ではなかった。
しかし、

もしあなたが残れば、そのときは何事も起こらなかったでしょ
うよ。わたしだって、あなたが事件を望んでおられないと知れ
ば、何一つ企てなかったでしょうからね。
(229~230ページ)


というスメルジャコフの言葉からも明らかである。イワンがア
リバイのために家を空けることが、スメルジャコフにとっての
「指令」であり、スメルジャコフは殺意もお金に対する欲求も
ないにもかかわらず、単に「精神的な結びつき」において、
「父殺し」を実行したのである。

では、繰り返すようだが、フョードル・カラマーゾフを殺すこ
とができたのはイワンなのだろうか?


この答えも否である。イワンは残念ながら一人では何もできな
い存在として描かれた。それは、ドミートリイも、スメルジャ
コフも同じなのである。父を殺し遺産を奪いたいという殺意と
動機だけでは不十分だったのだ。それがロシアの歴史である。

ドミートリイの無実の罪を確定させたのは農民の意地であった。
これは、「父殺し」という罪を確定させ、完成させたのは結局
のところ農民(ナロード)であった、という実に逆説的な結論
の物語なのである。

力と知恵と連帯とが古いロシアを倒し得るのだ、とドストエフ
スキーは考えていたにちがいない。私はそう確信している。そ
して書かれなかった続編にこそ、そのすべてを兼ね備えた存在
としてアレクセイを登場させるつもりだったのだ。

エピローグで貧しい子どもたちに「カラマーゾフ万歳」と叫ば
せることのできるアリョーシャに、すでに連帯力を備えたアレ
クセイに、ドストエフスキーはロシアの未来を託したのである。

残念ながら、レーニンはアレクセイではなかった。またアレク
セイになることもできなかった。そしてレーニンの後を継いだ
スターリンの時代には、父フョードルが復活してしまうことに
なる。歴史は複雑である。

しかし、この作品はアレクセイのような存在こそが暴走するロ
シアを正しい方向に導くことができるという、「予言書」であ
る。いや、変なイメージを付与するのはもうやめよう。こんな
にスリリングで、示唆に富んだ小説は他に例がないと思われる。
スケールの大きさも他の追随を許さない。私は文学論者ではな
いので、この本がなぜ理屈抜きで面白いのか、また、これだけ
示唆に富んでいるのか説明できない。私がこの三回の記事で示
すことができたのは、せいぜい「私はこう読んだ」レベルの話
である。

「大審問官」のところだけでも読む価値がある本。いや、そん
なこと言わずに長い休みを利用してゆっくり読んで欲しい傑作
である。そして、この本はなるべく若いうちに読んだ方がいい
と思う。何となくである。それからもう一つ。村上春樹が好き
な人は、この作品はマストである!

カラマーゾフの兄弟〈下〉 (新潮文庫)/ドストエフスキー

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