それも必ずみんながいっしょにひれ伏せるような対象を
探し出すことでもあるかるからだ。

新潮文庫 ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟(上)』
488ページ


keiさんからコメントいただいた通り、あと一週間で2010年
も終わる。このブログも7回で終わることになる。今日から
紹介する作品はわずか3作品である。これはわたしのBIG3で
ある。これら3作品は私にとって非常に重要な作品となった。
そしてこれらの重要性を超えることは今後あるのだろうか、
このBIG3が入れ替わることはあるのかと考えると、おそら
く可能性は低いだろうと、残念ながら感じる。

ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』

この作品ほど「現代文学の最高峰である」と評価する声が
大きいものもないだろう。評論家や作家だけでなく、多く
の学生にも読み続けられる作品。近年亀山新訳物がベスト
セラーになったが、このような高尚な作品がベストセラー
になるのだから、日本もまだ捨てたもんじゃない。

この作品をどのように紹介するのがふさわしいのか私は迷
ったのだが、結局そんなかっこよい紹介の仕方をする力量
もないので素直に紹介することにする。本当はものすごく
思い入れが深いのでカッコをつけて凝った紹介をしたいの
であるが、この巨星のような作品に一体何ができるという
のだろう。

この作品はドストエフスキー最後の作品となった。続編と
いうか、続きがあるという説が有力だが、中途半端な終わ
り方ではなく、「見事に完結した作品」である。この続編
をもみたいというのは多くの読者の偽らざる気持ちであろう。

『罪と罰』と同じように、いや、それ以上に現代小説のあ
らゆる要素を含んでいる。哲学、宗教学、倫理学、法学、
経済学の方面からアプローチできるし、「推理小説」「サ
スペンス小説」「法廷小説」「ミステリー」「恋愛小説」
「オカルト」・・・まさに人類の英知の集結点のようにも、
また出発点のようにも見える作品である。

ここまでべた褒めするとドン引きされてしまうかもしれな
いが、この作品は別である。これでも形容しきれていない
のだ。

さっきも書いたが格好つけられる作品ではないので素直に
書くと、私にとってのこの作品は、

「誰がフョードル・カラマーゾフを殺したのか」ではなく、

「誰がフョードル・カラマーゾフを殺し得たのか」である。

三兄弟の父、狡猾で好色な父フョードル・カラマーゾフは
誰かが葬らねばならない古いロシアの象徴であり、それを
熱血漢だが父譲りの好色でロマン派の色濃い、典型的な古
いロシア気質の長兄ドミートリイか、インテリゲンチャで
あり無神論。自由主義論者で思想家の側面を持つ「ロシア
の新世代」次男イワンか、それともロシア的良心の代表者
である三男アレクセイか。誰が古いロシアを滅ぼすのか? 
これがこの作品の見所である。(もちろん私的に)

ドミートリイ

情欲は虫けらに与えられたもの!

俺はね、この虫けらにほかならないのさ、これは特に俺の
ことをうたっているんだ。そして、俺たち、カラマーゾフ
家の人間はみな同じことさ。天使であるお前の内にも、こ
の虫けらが住みついて、血の中に嵐を巻き起こすんだよ。
これはまさに嵐だ、なぜって情欲は嵐だからな、いや嵐以
上だよ!
(202~203ページ)


理性には恥辱と映るものも、心には全くの美と映るんだか
らな。ソドムに美があるだろうか? 本当を言うと、大多
数の人間にとっては、ソドムの中にこそ美が存在している
んだよ——
(203ページ)


ドミートリイは自分の血、すなわちカラマーゾフの血を否
定しない。それを受け入れてさえいる。彼は古い地主階級
の精神を受け継ぐものであり、それを倒そうとする力は
「憎しみ」や「怒り」であり、過去の克服の手段は「力」
である。「暴力」と言ってもいいのかもしれない。

イワン

「兄さん、もう一つ質問していいですか。どんな人でも、
ほかの連中を見て、そのうちのだれは生きていく資格があ
り、だれはもう資格がないなんて、決定する権利を持って
いるものでしょうか?」
「何のために、資格の決定なんてことを持ちだすんだい? 
その問題はたいていの場合、資格なんぞという根拠じゃな
く、もっと自然なほかの理由にもとづいて、人間の心の中
で決められるんだよ。それから権利という点だけれど、期
待する権利を持たぬ人間なんているもんかね?」
「でも、他人の死をじゃないでしょう?」
「他人の死だってかまわんだろう? あらゆる人間がそん
なふうに生きている、というよりそれ以外に生きていかれ
ないとしたら、何のために自分に嘘をつく必要があるんだい?
(270~271ページ)


イワンはカラマーゾフの血を否定している。自分にその血
が流れていると言うことは知りつつも、それを英知で克服
しようとする。彼はそのために知識を身に付け、思想によ
って武装したのだ。イワンは父や兄とは違い、農奴制は否
定的だし、神という存在は人間にとって必要だがそれは人
間が作り出したものであり、神自身は存在しないという考
え方を持つ。だから修道院で育った末の弟とも相容れない
のである。

270~271ページの引用部分は、イワンとアレクセイの会話
だが、『罪と罰』にも出てきた「裁く権利」への回答とし
て、人間は裁かないとしても、「心の中で裁きを加える権
利がある」というのである。つまり人には憎むべき相手に
殺意を抱く権利はあるのだと。

アレクセイ

これがその二百ルーブルです。誓ってもいいですけど、あ
なたはこれを受けとるべきですよ、でないと・・・・・・でない
と、つまり、世界中の人がみなお互いに敵にならなければ
いけなくなりますもの!
(398ページ)


アレクセイは兄ドミートリイが屈辱を与えたスネギリョフ
二等大尉に和解を求め、二百ルーブルを渡すのである。ス
ネギリョフ二等大尉は貧しい境遇にある子供を抱えた男で
ある。アレクセイはこのような貧しいものにも等しく愛情
を注ぎ、敵対することをよしとしないのである。

しかし、スネギリョフはこの二百ルーブルという大金をア
レクセイの目の前でくしゃくしゃにし、地面にたたきつけ、
足で踏みふけるのである。非常に印象に残ったシーンであ
る。

「一家の恥とひきかえにあなたのお金を受けとったりした
ら、うちの坊主に何と言えばいいんです?」
(405ページ)


スネギリョフはそういうと泣きながら立ち去るのである。
アレクセイは神を信じ、天国を信じていながら、その神秘
主義的な教義には疑問を持っている「新しい聖職者」であ
る。ドストエフスキーはこの若者に未来の理想のロシア像
を重ねていたにちがいない。

彼はこのような「仕打ち」を受けても、自分の非を認め、
自分のやり方がまずかったのだと考える。そこにはもっと
大きな問題があることをまだ彼は知らない。彼は初々しく、
まだ社会の中に飛び出したばかりの青年なのだ。アレクセ
イはバラバラになっているカラマーゾフ一家をかろうじて
結びつける存在である。父からもドミートリイからも信頼
されているのは彼だけなのである。

上巻の最後に「大審問官」という章がある。イワンが神が
いるならなぜこの世から惨たらしい幼児虐待や強姦、貧困
が無くならないのか、それを問う叙事詩である。この部分
だけでも解説本があるほど有名な箇所であり、ドストエフ
スキーが生涯をかけて問うた「神とは何か」である。

大審問官は16世紀のセビリアにおいてイエスを糾弾する。

われわれはお前の偉業を修正し、奇蹟と神秘と権威の上に
それを築き直した。人々もまた、ふたたび自分たちが羊の
群れのように導かれることになり、あれほど苦しみをもた
らしたおそろしい贈り物がやっと心から取り除かれたのを
喜んだのだ。
(494ページ)


この「奇蹟」「神秘」「権威」は新約聖書のマタイによる
福音書4章のイエスと悪魔の問答を指している。悪魔はイエ
スを試みに合わせる、つまり試すのである。

ここでは有名な「人はパンのみに生きるにあらず」という
と言う言葉がある。しかし人間の歴史とはパンを奪い合っ
た歴史ではなかったのか、と審問官は問うのである。イエ
スが死人を甦らせたり、不治の病を治したりした奇蹟や神
秘は、人々に信仰を与えはしたが幸福を与えたのか? 反
対に、人々にパンを与えてきた人たちはどんな者だったの
か?

チムールとかジンギスカンといった偉大な征服者たちは、
全世界の征服を志して、この地上を疾風のように走りぬけ
たものだが、その彼らにしても、無意識でこそあったけれ
ど、やはり人類の世界的、全体的統合という、まったく同
じ偉大な欲求を示したのだ。(中略)とにかく、人間の良
心を支配し、パンを手中に握る者でなくして、いったいだ
れが人間を支配できよう。
(495~496ページ)


パンさえ与えれば、人間はひれ伏すのだ。なぜなら、パン
より明白なものはないからな。
(489ページ)


イエスは沈黙するしかなかったのである。歴史がそれを証
明した。イエスが地上に君臨した時から15世紀を経て、時
は宗教改革の時代を迎えたのである。

この「大審問官」の章はあまりに説得力があり、迫力があ
るので、イワンの劇中劇とというよりもドストエフスキー
の宗教論の提示として読めてしまう。それだけ内容が深い
し濃いのだから仕方がない。

しかしこの「大審問官」の前にドストエフスキーはアレク
セイとスネギリョフとの場面で金(パン)の前にひれ伏す
ことのなかった人を描いているではないか。

アレクセイはイワンのこの大叙事詩が間違えたものである
ことを知っていたはずだ。それはイエスのことではない。
「人違い」でしょうと。しかし、それにもかかわらず、こ
の叙事詩がアレクセイの心に大きな何かを残すのである。

ところが人間たちはもともと単純で、生まれつき不作法な
ため、その約束の意味を理解することもできず、もっぱら
恐れ、怖がっている始末だ。なぜなら、人間と人間社会に
とって、自由ほど堪えがたいものは、いまだかつて何一つ
なかったからなのだ!
(486ページ)


人間は実は自由なんて望んでいない。急に自由が与えられ
たら途方に暮れてしまう。村上春樹の小説に出てきた台詞
である。この台詞はもちろんこの『カラマーゾフの兄弟』
を意識したものであろう。村上春樹の作品には頻繁にこの
作品が登場することから見ても、影響の大きさが分かるし、
村上春樹の作品を「解読」するには『カラマーゾフの兄弟』
の解読が不可欠なような気がするのである。

「大審問官」のテーゼである「羊の群れは羊の群れである
べきなのだ」
の「羊」は村上作品に登場する「羊」や「羊
男」を読み解くキーになるのではないか。

中巻を明日書く。

(私は亀山訳より原卓也訳のほうが好きである。したがっ
て新潮文庫を採用した)


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