人間は「責任性存在」【ハンナ・アーレント編〈0〉】~「独裁体制のもとでの個人の責任」~ |   「生きる権利、生きる自由、いのち」が危ない!

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突きつめれば「命どぅ宝」!
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徳冨蘆花「謀叛論」を再発見してたら、
「ソクラテスの弁明」が、なぜ好きなのか、最近になって納得し始めた今日この頃です。


《新型コロナ禍》を‟潜り抜けてみせた”「未来」が、あなたを待っていて、必要としている!〉という記事から

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人間は「責任性存在」【V・フランクル編②】(自由・責任・決断・態度価値・自治・当為・自己回復)〉からの続き

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20191218 UPLAN
【判決報告集会】
伊藤詩織さんの民事訴訟判決言い渡し

2015 06 04 衆議院憲法審査会

西谷文和 路上のラジオ 第40回
 「小出裕章さんに聞く
~女川原発、本当に再稼働させていいの?」
そして西谷文和アフガン取材報告の2本立て

 



※太字・下線・色彩などでの強調は引用者。
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自分を偽る生き方では、私の存在意義ない。”
――映画『キャロル』でのキャロルの台詞――
(字幕翻訳:松浦美奈)

――――――――――――――――――――――――――

‟・・・都内でペット可の賃貸物件を借りるのは、
費用がかかり過ぎるため、手を出せないできた経緯がある。
 ボブの訃報が流れた翌日、
私は都内でペット可シェルターをつくることを決意した。
 多くの路上生活者を支えてきたボブを追悼する行為として、
それが最もふさわしいと感じたからである。
 
読者の中には、
住まいを失った人が「犬や猫と一緒に暮らしたい」と言うのを
「ぜいたくだ」と感じられる方もいるかもしれない。
だが、
いろんなものを失う経験をしたからこそ、
絶対に失いたくない存在がある
のではないだろうか。
 私自身、
つれあいと保護猫2匹の「4人(2人と2匹)家族」で暮らしているので、
そう感じるのかもしれないが、ぜひご理解いただければと願っている。

 物件探しはこれからだが、
ペット可シェルターの名前は「ボブハウス」とするつもりだ。”

(稲葉剛
 「世界中の路上生活者を支えた猫の死
 『反貧困犬猫部』と『ボブハウス』」
朝日新聞「論座」 2020年06月24日)

――――――――――――――――――――――――――

“すぐに強制収容所に入ってからのことであるが、
わたしは彼女(収容所で命を閉じた最初の妻ティリーさん)の二十三回目の誕生日に、
そこで手に入れたごくささやかな贈物をした。
そして、それに添えたカードにこう記した。
「この君の記念日に、私は――自分に――望む、
君が――君自身に――忠実であることを」。
だがこれは、二重の矛盾であった。
ひとつは、
彼女の誕生日に、
私が彼女のためにではなく、私自身のために望んだこと、
もうひとつは、
彼女が、私に対してでではなく、彼女自身に対して忠実であってほしい
と望んだことである。”

(ヴィクトール・E・フランクル【著】/山田邦男【訳】
『フランクル回想録』
1998年、春秋社、115頁)

――――――――――――――――――――――――――

‟・・・・・・沖縄だけで
日本両政府の強大な権力に
立ち向かうことはできません
そして、
確かな勝機もありません

 しかし、
勝てそうにないからといって、
相手の理不尽な要求に膝
〔ひざ〕を屈し
そのまま受け入れるのでしょうか。
もしそうならば
私は
一人の人間として

この世界に生きる意味薄らぐのではないか

と思っています。

 私たちには
少なくとも「主張する権利」があります
これ人間の誇りと尊厳を賭けた戦いでもあるのです。”
(翁長雄志『戦う民意』角川書店、2015年、7頁)

――――――――――――――――――――――

“人生には、
最良の友とさえ袂【たもと】を分かって行動しなければならぬ時があるものだ。
義務の葛藤がある際には、
自らの内なる「静かな細き声」が常に最後の断を下さねばならない
。”
 
(マハートマー・ガンディー【著】/古賀勝郎【訳】
『今こそ読みたいガンディーの言葉』
2011年、朝日新聞出版、101頁)
 
――――――――――――――――――――――

神を探し求めるのに、
巡礼に出かけたり、燈明【とうみょう】をあげたり、香を焚いたり、
神像に油を塗ったり、あるいは、朱に印したりする必要はない。
神は われわれの胸の内にまします
からである。
肉体の意識を完全に消し去ることができるのであれば、
神は はっきり見えるだろう。”
(マハートマー・ガンディー【著】/古賀勝郎【訳】
『今こそ読みたいガンディーの言葉』
2011年、朝日新聞出版、98頁)

――――――――――――――

       〈5〉
 私にとっては、
神とは真理であり愛である。
倫理であり道徳である

かつまた、
無畏【むい】であり、光と生命の源である。
それにもかかわらず、
これらすべてのものの上にあり、すべてのものを超えている。
神はまた、良心であり、無神論者の無神論でさえある‥‥
人格的な存在を求める人たちにとっては人格神であり、
接触を求める人たちには化現【けげん】もする。(後略)”
(マハートマー・ガンディー 同 89頁)

――――――――――――――


“            〈道徳と自己〉

 人間の行動についての道徳的な議論の中心にあるのは
自己です。
人間の行動の政治的な議論の中心にあるのは
世界です。
それぞれの宗教的な起源と意味合いをとり外してみれば、
ソクラテスの
「悪しきことをなすよりも、
悪しきことをされるほうがましである」
という言葉と、
それを風変りな形で具体的に示した
「というのは、
わたしは一人であるから、
わたし自身と対立するよりは、
世界の全体と対立するほうがまし
だから」
という言葉が残ります。
この言葉は、
道徳の問題において、
矛盾律の定理を表現したものと解釈することもできます。
同じ意味の命令である
汝は みずからと矛盾することなかれ
は、
論理学と倫理学の定理になっているのです。
ところで
カントが定言命法を主張したことの背景にあるのは、
まさにこの定理でした。
ここで1つの点は明らかだと思います。
わたしは
他人とともに暮らすだけではなく、
私自身と暮らすのであり、
この〈ともにあること〉が、
ほかのすべての問題よりも、いわば〈先にある〉ことが
前提にされているということです。”
(ハンナ・アーレント【著】/中山 元【訳】
「集団責任」( 『責任と判断』所収)
2016年、ちくま学芸文庫、284頁)

―――――――――――――――――――

“        〈良心という根拠〉

わたし〔アーレント〕が
ソクラテスの言葉として引用したものが
道徳的に意味しているのは次のようなことです。

〈わたし〔ソクラテス〕が
参加の代価として求められることを実行したならば、
それがたんにご都合主義で実行されるか、
実質的な抵抗の唯一の機会として実行されるかを問わず、
わたしは もはや
自分自身とともに暮らすことできなくなる
だろう。
だから わたしは、
自分に悪しきことがなされるままにまかせよう

そして
わたしが参加を求められても拒んだことを理由に、
死刑に処せられるのも甘受しよう、
それでも悪しきことをなして、
生涯を
このような悪しきことをなした者とともに暮らすよりも
まし
である〉。
問題が殺人の場合には、
その行為を拒む根拠は、
殺人が行われないほうが世界がより善いものとなる
というのではなく、
わたしは
自分のうちの殺人者とともに暮らすつもりがない

ということにあります。”
(ハンナ・アーレント【著】/中山 元【訳】
「集団責任」( 『責任と判断』所収)
2016年、ちくま学芸文庫、288頁

―――――――――――――――――――

マハトマ・ガンディー
「あなたがする事のほとんどは無意味であるが、
それでもしなくてはならない。
そうしたことをする
のは、
世界を変えるためではなく、
世界によって自分が変えられないようにするため
である。」

―――――――――――――――――――――――――

マハトマ・ガンディー
きっぱりと、心の底から発した「ノー」という言葉は、
単に相手に合わせて、ましてや面倒を避けるために
つい言ってしまった「イエス」
に比べたら、
はるかに価値のある言葉
である。”
(浅井幹雄【監修】『ガンディー魂の言葉』
2011年、太田出版、40頁)

―――――――――――――――――――――

人格とは責任の主体である。
責任の主体は自由でなければならず、
自由なものであって責任の主体となり得る
のである。
「汝 為すべし」と呼び掛けられているのを知る人間は、
まさにそれによって また自己が自由なものとして、
自己の道徳的自由に向かって呼び掛けられているのを
知るのである。
自由と責任とは不可分のものである。

 ‥‥
表現的なものとして我の行動を喚び起こすのである。”
(三木 清『哲学入門』、岩波新書、174-175頁)

―――――――――――――――――――

 

樋口陽一さんが語る
 一人ひとりの「個人」の自由の大切さ Ver.2


20151113 UPLAN
石川健治
「一億総活躍」思想の深層を探る
ー佐々木惣一が憲法13条を「読む」


マガ9学校 第28回
 立憲主義と民主主義 〜主権者って何する人?〜
 伊藤真さん

 


―――――――――――――――――――――

“【水島朝穂氏】
思考停止、判断停止を要求したわけですね。
自分で判断できる兵隊では、
命令を聞かなくなる
という不安が帝国軍隊にはあった。
つまり、
これは本質的に民衆を信頼していない者の発想
です。
知識や判断能力は将校が独占する。
兵隊はただ命令を聞くロボットに等しい。
「俺命令する人」「お前命令される人」という構図が
極端なまでにおし進められたのが帝国軍隊です。
一人ひとりの兵隊が高度の知識と自主的判断能力を持ったら、
エリートとしての将校の地位は脅かされるし、
無謀な命令には従わないだろうし、
へたをすれば支配層に銃を向けるおそれもあるからでしょう。
だから、軍隊の内務班教育というのは、
それまでの知識や教養を「洗浄」して、
なんでも同じ行動を機械的に行う人間に改造する場であった
と言えると思います。

【久田栄正氏】
「……内務班では、
とにかく均質化、同質化が重視され、
ちょっとでも違うことをやるとバーンと殴られた
。」


           〈人間の規格化・均質化〉

 人間個人は一人ひとり顔が違うように、
性格も嗜好も思想も多様である。
その多様な個々人を均質的な製品に仕上げる「改造行程」は、
それ自体、徹底した規則優先・管理主義を特徴とする

生活者としての人間個人のすべての側面
(頭の先から足の先まで、食べること、寝ること、排便、
セックスに至るまで)が
徹底的に規則化・規格化される
内務班長の「一日ニ於ケル業務実施著眼事項」を見ると、
朝の人員点呼からはじまって、消灯後まで
都合二六三項目のチェック・ポイントが列挙されている…。
  (引用者中略)
これらは、ほんの一例であるが、
一個の人格をを持った人間個人
ここまで徹底的に管理すること自体、
人間個人に対する冒涜
といえる。
しかし、このような人間管理の方法は、
各人の人間性や人格といったものを否定するには
実に効果的な方法
であった。

  (引用者中略)

【水島朝穂氏】
「内務班では、
規則でがんじがらめにされていたようですが。」

【久田栄正氏】
規則なんてもんじゃない。
細かいだけでなく、
無内容なことが実に詳細に規定化されてい
る。
人間は「考える葦」といわれるが、
軍隊の内務班教育というのは、
この考えるという人間の最も大切なことを奪ってしまう。
何から何まで管理さえると、
人間は無気力になってくる
いわれたことをやるだけになる。
これが、
命令に絶対服従の人間を作るのに効果的
だったんですね。
私のような「反軍思想」を持つ人間も含めて、
根本的に思想改造してしまう。
そんな装置の役割を果たした
といえるでしょう。」

【水島朝穂氏】
「内務班の規則主義・管理主義を見ると、
今の小・中学校の現状とだぶってきますね。
特に、校則による管理には凄まじいものがあります。
子供管理する対象としか見ない
個性あふれる生きた人間個人として見ていない

それらを作った教師たちの人権感覚を疑いますね。…」
(水島朝穂【著】
『戦争とたたかう~憲法学者・久田栄正のルソン戦体験~』
2013年、岩波現代文庫、45-49頁)

―――――――――――――――――

“【久田栄正氏】
「…私はルソン島の体験がなければ、
おそらく憲法学の道に進むことはなかった
と思います。
私にとって国家とは、
私に対して命令権を持った具体的人間であり、
戦争とは、
このような権限を握っている人間たちと、
それに服従を強いられる具体的人間でつくられる
具体的な人間関係
である
と考えています。
戦争と軍隊はまず、
この人間の権利を剥奪するところから生まれる
私が憲法13条(個人の尊厳)
平和的生存権の根拠を求める理由は、
この戦場での体験によるところが大きい
ですね。」


【水島朝穂氏】
「〈『全滅の思想』のなかでは、
指揮権が優先し、人権無視される
これが戦争というものだろう。
人権を云々しては戦争はできない

(楳本捨三『全滅の思想』8頁)。
軍の論理からすればこうなる。…」”
(水島朝穂【著】『戦争とたたかう』同、242頁)

―――――――――――――――――

“【久田栄正氏】
「戦場で生き残るのに「私的制裁」が効果があった
という評価には反対です。
私の体験からしても、
殴られることによって鍛えられるというのは
人間を馬鹿にした発想です。
そんなのは本当の強さではない。
軍隊ですから、どこの国でも訓練は厳しい。
しかし、殴ったり、いじめたりすることは
強い兵隊を作ることにはならない。
むしろ、
内容班で人間性を否定された兵隊が、
戦闘に無関係な民間人や武器を捨てた捕虜までも
殺していく
のです。
帝国陸軍の弱さの現われですね。」
(水島朝穂【著】『戦争とたたかう』同、71-72頁)

――――――――――――――――――――――――――

“        〈100〉
驚くべきことに、
われわれは自分を愛するように隣人を愛する。
自分自身にすることを他人に対して行なうのだ。
われわれは自分自身を憎むとき、他人も憎む。
自分に寛大なとき、他人にも寛大になる。
自分を許すとき、他人も許す。
自分を犠牲にする覚悟があるとき、
他人を犠牲にしがちである。

 世界で生じている問題の根源
自己愛にではなく、自己嫌悪にある
。”

(エリック・ホッファー【著】/中本義彦【訳】
『魂の錬金術 エリック・ホッファー全アフォリズム集』
2003年、作品社、53頁)

――――――――――――――――――――――――――

“「根源的な悪
すべての人々をひとしく無用視するシステム

結びついて現れた と言っていい。
そういうシステムを操っている者たちは、
他の人々を無用だと思っているだけでなく、
自分自身も無用だと思っている

全体主義における殺戮者たち
それ以上に危険なのは、
かれらが自分の生死を意に介することなく、
自分は生まれても生まれなくてもどうでもよかった
と思っている
からである。…」”

(ジュリア・クリスティヴァ【著】/青木隆嘉【訳】
『ハンナ・アーレント講義』
2015年、論創社、6頁)

―――――――――――――――――


“ 強制収容所という実験室のなかで
人間の無用化の実験としようした全体的支配の試み

きわめて精確に対応するのは、
人口過密な世界のなか、
そしてこの世界そのものの無意味性のなか
現代の大衆が味わう自己の無用化である。
強制収容所の社会では、
罰は 人間の行為と何ら関係がなくてもいいし、
搾取が 何ぴとにも利益をもたらさなくてもかまわないし、
労働が 何らの成果を生まなくてもいい

ということが 時々刻々数えられる

この社会は
すべての行為、すべての人間的な感動原則的に無意味である場所
換言すれば 無意味性がその場で生み出される場所
なのである。”

(ハンナ・アーレント【著】/大久保和郎・大島かおり【訳】
『全体主義の起原3 ~全体主義~』
1974年初版、みすず書房、262頁)

―――――――――――――――――


“          〈2〉
身を焦がす不平不満というものは、
その原因が何であれ、結局、自分自身に対する不満である。
自分に価値に一点の疑念もない場合や、
個人としての自分を意識しないほど他人との一体感を
強く抱いているとき

われわれは、
何の苦もなく困難や屈辱に耐えることができる
これは驚くべきことである。

       ――・――・――・――

           〈84〉
 現代人
罪の重荷よりも、責任の重荷耐えかねている
われわれは
自分たちの罪を背負ってくれる者よりも、
責任肩代わりしてくれる者を救世主とみなす
もし〔個々人が自身で〕決断を下す代わりに、
ただ命令に従い、義務を果たすだけで済むのなら、
われわれはそれ一種の救いだと感じる
だろう。

       ――・――・――・――

           〈88〉
 絶対権力というものは、単純さを偏愛する
それは単純な問題、単純な解決、単純な断定を欲する

絶対権力は、
複雑さを 弱さの所産――妥協を強いられる苦しい道程とみなす。
つまり、急進主義絶対権力の二つの形態には、
ある種の類似性が存在する
のだ。

       ――・――・――・――

           〈85〉
 われわれの大半には、
自分
他人の手に委ねられた道具とみなしたい
という渇望がひそんでいる。
つまり、
いかがわしい性癖や衝動に促された行動への責任から
解放されたい
 と熱望しているのだ。
強者であれ弱者であれ、
そのための言い訳は周到に用意している
弱者は、
服従の美徳の陰に 自らの憎悪を隠しつつ
命令に従わざるをえなかったからこそ、
恥ずべき行為を甘受した
のだ と主張する
強者もまた、
より高次の力(神、歴史、運命、民族、人間性)によって
〔自分は〕選ばれた道具になったのだ
 と公言し、
選択の余地がなかった と強弁する


       ――・――・――・――

           〈41〉
 権力は腐敗するとしばしば言われる。
しかし、
弱さもまた腐敗することを知るのが、等しく重要であろう。
権力は少数者を腐敗させるが、
弱さ多数者腐敗させる
憎悪、敵意、粗暴、不寛容、猜疑は、弱さの所産である。
弱者の逆恨み源泉
彼らが被る不正ではなく、
むしろ自分自身が無力無能だという意識にある
弱者が憎むのは
邪悪さではなく、弱さなのである。
その力さえあれば、弱者は
手当たり次第に弱いものを破壊する

弱者が自分以上の弱者を餌食にするときの、あの酷薄さ
弱者の自己嫌悪は、彼らの弱さへの憎悪を示す一例にすぎない。”

(エリック・ホッファー【著】/中本義彦【訳】
『魂の錬金術 エリック・ホッファー全アフォリズム集』
2003年、作品社)

――――――――――――――――――――――――――

201201 荒野に種をまく第11回
「排除と分断のディストピア日本のサバイブ法」


――――――――――――――――――――――――――

‟ イラクでの人質事件にかかわる議論で
もっともアイロニーに満ちた局面は、
おそらく大衆感情の盛り上がりだった。
それは「自己責任」という価値観に服従せよ
とする共同体ヒステリーと化した。
人質たちに憎悪のメッセージを発することにより、
その帰属と連帯を強化しようとする試みが、
全国規模で行われた

この憎悪が持った力は、
今回の一連の事件の中で最も困惑させられる出来事だった。
(中略)

 この極端な原理主義は、
個々人は
自らのことのみに関心を持つべきであり、
従って、
なにごとも社会に要求せず、
国家に「迷惑」を及ぼすことを禁ずる、
ポピュリズムによるヒステリーの助けを借りた、
政府及び企業市場が強調する個人主義である。
すなわち、自己責任の教義は、
ここで全体主義的個人主義(totalitarian individualism)に変質する


 おそらく全体主義的個人主義は、
その言葉が示すほどには
矛盾を孕むイデオロギーではあるまい。
極端な自己責任のイデオロギー共同体的憎悪の高まりの間には
直接的な連関がある、
とジグムント・バウマンは指摘した。
ジャーナリスト、デッカ・アイケンヘッドによる
イングランド西部で自然発生したデモについての記事を、
バウマンはその一例として紹介する。
小児性犯罪での服役を終え出所した者に向かい、
ごく普通の人々が、
「ここから出て行け!」とヒステリカルに叫ぶ。
アイケンヘッドも述べているように、
このデモは小児性犯罪防止にとって
ちっとも実効性のある行動ではない。
むしろ、このデモは
咎めをうけることなく他人に対して
大声で公然と憎悪を表明する数少ない絶好の機会
」だった。
現代社会では、
個々人は
ますます自己責任を負うように迫られ、
労働組合、宗教、地域社会といった、
かつて人々に帰属意識や生きる意味を提供してきた社会組織は
その結合力を失っている
まさにこの文脈によって、
憎悪の共有だけが、人々に他者とともに帰属と連帯感を、
素早く強力に しかも心地よく提供する唯一の道
となってしまった

こうして人々は、
バウマンがいうところの
「プライバシーの刑務所(the Prison of privacy)」からの
つかの間の安らぎを享受することができるのである。

 普段は見つけることができない
政治的なはけ口や恐怖やフラストレーション
を、
人々は
憎悪によって代替し、表現できる
それゆえ憎悪の共有と高揚は ますます増大するのだろう、
とバウマンは述べた。
この意味において、
憎悪およびヒステリーの政治学は、
私が本書で論じた政治的無力感
深く結合したもの
である。
自由を謳歌せよ、自己責任を負え、
と いかに教化されようとも、
多くの人々は、
自分たちが理解も管理もできない力の支配下にあること
知っていた。

 同じく、多くの人々は、
不公正で欠陥に満ちた社会に生きていること
自覚しているが、
その社会を改革するための貢献の手段見出せないでいる
何もすることができないまま
不公正な社会を生きる
には、
その対応として、
次の二つの選択肢を採用する。
一方は、
世界を変えることのできない自分自身の無力さ嫌悪することであり、
他方は、
外部に標的を定めて感情を表出することである。
そして、
不公正の原因が特定できない時
この怒りの破壊的な力は、
壊しやすいものに向くことになる

すなわち弱者や少数者や異物が標的と定められる
デッカ・アイケンヘッドが報道した憎悪
および
日本でのイラクで拘束された人質に向けられた怒りは、
換言すれば、
自身をとりまく世界有意義な関与できないことに対する
個々人の大きなフラストレーションから発した
行き場のない憎悪が出口を発見した
といえる。
現在世界は、
はけ口を探す絶望的なフラストレーションと
さまよい歩く恐怖で、満杯となった容器
のようだ」
とバウマンは述べた。

 現代社会が孕むフラストレーションの具体的な痕跡を
「2ちゃんねる」のようなインターネットの掲示板に
見ることができる。
その掲示板の書き込みを読んで驚くのは、
(おそらく)教育水準もそれほど低くない若者たちが
毒々しい憎悪をあからさまに表現している
というだけでなく、
それが執拗に繰り返されている点だ。
その悪意に満ちた言葉は、
まるで出口を求め制限された空間の中を飛び回るハエの羽音のようだ。
掲示板に書き込まれるレトリックは
同じものの繰り返しにすぎないが、
しかしその標的は目まぐるしく変化する
ある時は憎悪の行き先が
北朝鮮や「中国人犯罪」だったかと思うと、
次に
イラクで拘束された3人のような特定の個人や集団へと変化する。
標的を求めて「彷徨する」憎悪である。
まさにそれゆえ、
この憎悪は深刻に受けとめねばならない。
イラク人質に対する憎悪の嵐が
たとえ過ぎ去ろうとも、
新しい危機はまた訪れ
その際にはより大きい共同の憎悪の標的が
必ず新たにデッチ上げられる
のだから。

 この「自己責任」にかかわる議論には、
全体主義的個人主義という落とし穴を
回避する可能性も含まれているはずだ。
結局のところ、日本全体のすべてが
イラクで拘束された人質への憎悪の大合唱に
加わったわけではなかった。
残念なことに、
オーストラリア、アメリカ、ヨーロッパなど各国のメディアは、
日本のメディアが主導した人質に対する憎悪のヒステリーに
同調しない人々について、
ほとんど報道しなかった。(後略)”
(テッサ=モーリス・スズキ【著】/辛島理人【訳】
『自由を耐え忍ぶ』P.201-208)

――――――――――――――――――――――――――

西谷文和 路上のラジオ 第41回
前川喜平さん「一斉休校」とは何だったのか!?
/上脇博之さん「桜」を斬る!
水野晶子さん「ドキュメンタリー朗読」で語る原発事故からの10年



◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

“「グローバリゼーション」【以下、グローバル化】は
誰もが口にする言葉である。
それは
現在と未来のあらゆるミステリーの扉の錠前を
開けることのできる合言葉、”
魔法の呪文、親鍵【マスター・キー】へと
急速に姿を変えた流行語となっている。
ある人びとにとって、
グローバル化」は
自分たちが幸せになることを望むなら歓迎すべきもの
である。
ほかの人びとにとって、
グローバル化」は
自分たち不幸の原因である。
しかしながら、
あらゆる人びとにとって、
グローバル化」は
どうすることもできない世界の運命であり、
不可逆的な過程【プロセス】
である。
それはまた、
私たち全員に、同じだけ、等しく影響を及ぼす過程である。
私たちはすべて、
「グローバル化」されている

そして、
「グローバル化」されていることは、
「グローバル化」されたすべての者にとって
ほぼ等しく重要
なのである。

 流行語というものは
似たような運命をたどる傾向がある。
流行の言葉が
より多くの経験を説明しようとすればするほど、
その言葉の意味は
ますます曖昧になってゆく。
その言葉が
一般に正しいと認められてきた多くの真実を押しのけて
それらに取って代わるにつれて、
それは自明の理とされる基準に
急速に転化してゆく

その概念が
当初把握しようとしていた人間の行為は、
視界の外側へと退き、
いまやその用語が「一言で表わし」、
疑いようのないものであるように思わせる「厳然たる事実」、
つまり「現前の世界」の特性となる。
「グローバル化」も
この規則の例外ではない。

 本書は、
グローバル化の現象が、
目の前に見えるよりももっと複雑であることを示すための試みである。
グローバル化の過程の社会的な根源と帰結を解き明かし、
今日の人間の条件を明らかにすると思われているこの用語に
かかった霞を晴らすよう努めたい。

 人間の条件の諸要素について現在進行している多面的な変容は、
「時間/空間の圧縮」という語に要約できる。
圧縮の社会的な原因と帰結を検討すれば、
グローバル化の過程には、
共通して想定される効果の同一性など存在しないことが
明らかとなろう。
時間と空間の利用は
差別化していると同時に、
はっきりと差別化されている。
グローバル化は、
結合はもちろん、分断もたらす

そして、分断が結合をもたらす。
つまり、
分断の原因は
地球の一体化を促進する原因と同一なのである。
事業、金融、貿易、情報の流れ【フロー】において
地球規模の次元が出現するとともに、
「ローカル化」という空間固定的な過程が始動している。
この2つの緊密に相互結合された過程は、
それらのあいだで、
人びと全体の
、あるいは人びとの各集団の存在条件を
はっきりと差別化
している。
ある人びとにとってグローバル化として現われているものは、
ほかの人びと望ましくない悲惨な運命もたらす

可動性は
追い求められる価値のなかで
最高位にのぼりつめている。
そして、
移動する自由は、
つねに希少で不平等に配分される必需品であり、
急速に、
私たちが生きる後期近代あるいはポストモダン時代における
階級化の主な要因
になっているのである。

 私たちはみな、
好むと好まざるとにかかわらず、
意図するとせざるとにかかわらず、
絶えず動いている。
たとえ、肉体的には置かれている場所にとどまるにせよ、
私たちは動いている。
動けないでいることは、
絶えず変化する世界にあっては
現実的な選択肢ではない。
しかし、
この新しい条件のもたらす影響
根本的に不平等である

ある人びと
真に完全にグローバルである。
だが、
ある人びと彼らの「地域【ローカリティ】固定されている
それは、
「グローバルな人びと」が方向性を決め、
人生のゲームの規則を組み立てる世界
においては、
不愉快で耐えがたい状況
である。

 グローバル化する世界では、
ローカルであること
社会的な剥奪と退行のしるしである。
ローカル化された人びと苦痛は、
つぎの事実によってさらに増幅されている。

公共空間
地域生活手の届かない場所に行ってしまったために、
地域は
意味を創出して折衝するという能力失っている

そして、
自分たちでは制御できないところなされる
意味を付与する行為とそれを解釈する行為
ますます従属している

グローバル化した知識人のコミュニタリアン的な夢/慰めは、
残念ながらこれまでだろう。

 進みゆく空間的な隔離、分離、そして排除は、
グローバル化の過程不可欠な構成部分である。
新部族主義的な傾向原理主義的な傾向は、
グローバル化の受け手の末端である人びと経験
明確に反映している
これらの傾向は、
広く歓迎されている最高級の文化
つまりグローバル化した最上流層の文化の「ハイブリッド化」同じく
グローバル化もたらす正当な所産なのである

とくに不安の原因となっているのは、
ますますグローバル化して
超領域【治外法権】的になったエリート層と、
ますます「ローカル化」された残りの人びととのあいだで
進みゆくコミュニケーションの断絶である。
意味や価値を生み出す中心
今日では超領域的であって
地域の制約から解放されている
だが、
それらの価値や意味が伝え表わす人間の条件は
そうではない。

 中心における移動の自由にともなって、
今日の分極化
多くの次元を有している。
新しい中心は、
貧困層と富裕層、放浪者と定住者、
「正常者」と逸脱者あるいは法律違反者といった、
昔からの区分に新たに磨きをかけている
これらの分極化のさまざまな次元が
どのように絡まりあい、どのようにお互いに影響しているか
ということが、
本書が解き明かそうとするもうひとつの複雑な問題である。

 第1章では、
歴史的に変化する時代と空間の特質と、
社会組織のありかたや規模との結びつき、
とりわけ、
今日の時間/空間の圧縮
地球上の領域的な社会や共同体及ぼす影響について
考察する。
検討される影響のひとつは、
不在地主制」の新しい意味あい
すなわち、
グローバル・エリート
領域的に制限された政治的および文化的な権力の単位から
新に獲得した独立と、
その結果としての
後者からの「権力剥奪」である。
新しいヒエラルヒー(階層制)の「頂点」と「底辺」が
それぞれ位置する2つの舞台の分離は、
空間の組織の変化に、
そして
現代の大都会における「隣人」の意味の変化に
影響している。”

(ジグムント・バウマン【著】/澤田眞治・中井愛子【訳】
『グローバリゼーション ~人間への影響~』
2010年、法政大学出版局、1-5頁)

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短期間で利潤を上げる必要に迫られた大会社は、
ダウンサイジングで人員と部門を縮小するようになった

だが、これによって大会社の力が弱まったわけではない。
彼ら〔大会社〕が
吸収合併や戦略的提携で市場や技術を独占したため、
下請業者や地域住民の間で競争が激化し、
低価格・低賃金に甘んじてでも
仕事をとらざるを得なくなった。
市場原理主義の圧力によって、
身体や社会や環境や精神の健康よりも、
会社の利益を優先し、
社会と環境を破壊する科学技術への依存
ますます強まっている


 ビジネスや市場そのものが悪いのではなく、
もはや人間にはコントロールできないまでに
肥大したグローバルな経済システムが問題
なのだ。
この経済システムはとにかく強大で、
しかも本末転倒な性格を持つため、
今はどれほど責任感と熱意にあふれる会社経営でも、
公益を考えた経営を行なうことは難しい。

 金儲けを至上命題とするシステムにとって、
人間は非効率の原因でしかないため、
あらゆるレベルの人員が削減されている
第一次産業革命
肉体労働の必要性が低下したように、
情報化革命
人間の目や耳や脳を
不要なものに
しようとしている。

第一次産業革命で大量に発生した失業者は、
植民地へ移民したり、
辺境へ開拓民として移住することで吸収された。
植民地にされた国の人々は、
伝統的な社会を頼りに
何とか生活することができた。
物理的フロンティアがほぼなくなり、
市場原理の侵略で地域社会が崩壊した今、
かつてのような安全弁は残っていない

つまり、今失業すれば、
餓死するか、
暴力事件で命を落とすか、
ホームレスになって物乞いするか、
生活保護にすがるか、
難民キャンプに転がり込むしかない

このままだと
いずれ社会や自然環境が取り返しのつかない状態に
陥るのは目に見えている
。"
(デヴィッド・コーテン【著】/西川潤【監訳】/桜井文【翻訳】
『グローバル経済という怪物』
シュプリンガー東京、1997年、18-19頁)


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

“わたしたちのような関係は
いたずらに騒がれると同時にひどくおとしめられているわ。
でも わたしには、キスの快楽も、男女の営みから得られる快楽も、
単なる色合いの違いでしかないように思えるの。
たとえばキスを馬鹿にするべきではないし、
他人にその価値を決められるものでもない

男たちは子供を作れる行為かどうかで
自分たちの快楽を格付けしているのかしらね。

(引用者中略)

昨日わたしは こういわれたわ
――直接いわないまでも ほのめかされたわ――
わたしは このまま行けば、すっかり堕落して
最低の人間になってしまうだろうってね。
そうね、あなたを奪われてから、
わたしは ずいぶんと堕落した生活を送っているわ

こんなふうに監視され、責められ
ひとりの人間とじっくりつきあうこともできず、
表面的なことしか知れずに終わってしまう
 というのなら、
わたしは 彼らのいうとおり最低の人間になってしまうかもしれない。
自分の性【しょう】あわない生き方をするなんて、
それこそ堕落
じゃないの
。”
(パトリシア・ハイスミス【著】/柿沼瑛子【訳】『キャロル』
2015年、河出文庫、392-393)