人間は「責任性存在」【V・フランクル編②】(自由・責任・決断・態度価値・自治・当為・自己回復) |   「生きる権利、生きる自由、いのち」が危ない!

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徳冨蘆花「謀叛論」を再発見してたら、
「ソクラテスの弁明」が、なぜ好きなのか、最近になって納得し始めた今日この頃です。


‟夜、収容所の営舎は、月の光に包まれる
この月の光は、
銀と永遠とで出来ていて、
まるで何かに気を取られていた神様の御手から零(こぼ)れ落ちた
玩具のようだ

(エティ・ヒレスム 1942年9月23日)

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

《新型コロナ禍》を‟潜り抜けてみせた”「未来」が、あなたを待っていて、必要としている!という記事から

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

‟・・・・・・人間の偉大さを言い表す私の決まった言い方は、
運命愛である。
すなわち、
何事も現にそれがあるのと別様であってほしいとは思わぬこと
未来にむかっても、過去にむかっても、そして永劫にわたっても
絶対にそう欲しないこと……──そうではなく、必然を愛すること
(フリードリヒ・W・ニーチェ 『この人を見よ』)

――――――――――――――――――

“…具体的な運命が人間にある苦悩を課する限り、
人間は
この苦悩の中にも1つの課題、しかもやはり一回的な運命
見なければならないのである。
人間は
苦悩に対して、彼がこの苦悩に満ちた運命と共にこの世界で
ただ一人一回だけ立っている

という意識にまで達せねばならないのである。
何人も彼から苦悩を取りさることはできないのである。
何人も彼の代わりに苦悩を苦しみ抜く事はできないのである。
まさにその運命に当たった彼自身がこの苦悩を担うことの中に
独自な業績に対するただ一度の可能性が存在する
のである。”

(ヴィクトール・エミール・フランクル【著】/霜山徳爾【訳】
『夜と霧』
1961年初版、みすず書房、184頁)

――――――――――――――――――

“全くわれわれにとって苦悩し抜くこと、
「苦悩の極みによって昂められ」うることは充分であったのである。
従って必要なのは
それをいわば直視することであった。
もちろんそこには
「気が弱く」なる危険や、秘かに涙を流したりすることもある
であろう。
しかし彼はこの涙を恥じる必要はないのである。
むしろそれは
彼が苦悩への勇気という偉大な勇気をもっていることを
証明している
のである。”
(ヴィクトール・エミール・フランクル【著】/霜山徳爾【訳】
『夜と霧』
1961年初版、みすず書房、185頁)

――――――――――――――――――

“少なくともまだ生きている者は
希望をもつ根拠をもっているのである。
健康、家庭の幸福、職業的能力、財産、社会的地位‥‥
こんなものは、と私は言った
人が再発見し再構成できるかけがえのある事物である。
・・・「われわれはまだしっかりしているのだ。」
・・・・・・今でこそわれわれは耐え忍ばざるを得ないかもしれないが・・・、
将来それはわれわれに対して意味を持ち得る
であろう。
そして私はニーチェを引用した。
私を殺さないものは私を一層強くさせる」”

(ヴィクトール・エミール・フランクル【著】/霜山徳爾【訳】
『夜と霧』
1961年初版、みすず書房、189頁)

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

池田香代子さん講話②
「原作者・V.フランクルについて」
(コロナ時代の必読書『夜と霧』読書会
ーアウシュビッツの旅にもふれて


「無期限の暫定的存在」
(コロナ時代の必読書『夜と霧』読書会
ーアウシュビッツの旅にもふれてー
 第1回読書会テーマ)


※以下の引用文中、
イタリック体/斜体は、原文では太字での強調。
太字、下線、色彩での強調は引用者によるもの。
〔〕での補足は引用者によるもの。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


“・・・・・・ある条件屈するのか抵抗するのか という場面で、
人間は完全に条件に左右され決定づけられるのではなく、
自分で決めることができます。
別の表現で言えば、
人間は究極的には、自己決定ができる存在なのです。
人間は
ただそこにいるだけではなく、
つねに自分の実存の今後を決め
次の瞬間に自分がどうなるかを自分で決めているのです。

 同じ理由から、
すべての人間存在は、
あらゆる瞬間にみずからを変える自由も持っています
だから人間の将来は、
統計調査の大まかな枠組みの範囲内でしか予測できません。
それに対して個々の人格は、原則的に予測不可能です。
(引用者中略)
・・・人間存在の大きな特徴は、
こうした諸条件超越し、それを越えて成長する能力です。
人間は、
それが可能であるなら、

世界をよりよりものに変え創造的価値
それが必要であるなら、
自らをよりよい存在に変えること
態度価値などができるのです。

 J博士の例をここでご紹介しましょう。
彼はわたしが生涯に出会った中で、
メフィストフェレスのような悪魔的存在だと思った唯一の人物
でした。
当時の彼は
シュタインホーフ(ウィーンの大きな精神病院)の大量殺人犯」として
知られていました。
ナチスが安楽死計画を開始したとき
彼はそのすべてを掌握していて、
精神病患者を一人残らずガス室送りにするため、
何かに取り憑【つ】かれたように奔走していました

戦後ウィーンに戻ってきたわたしは、
J博士が どうなったか たずねました。
「ロシア人に捕まり、シュタインホーフの独房に監禁されたのですが」
とある人が教えてくれました。
「その次の日に独房のドアが開けっ放しになっていて、
J博士の姿はありませんでした」

 わたしは、
ほかにも同様の例がたくさんあったので、
彼も同志の支援を得て南米に逃亡したのだろうと確信しました。
ところがずっとあとになってからの話ですが、
オーストリアの元外交官が
わたしの診察を受けにきたのです。
彼は鉄のカーテンの向こう側で長年にわたって抑留され、
最初はシベリアに、そしてその後は
悪名高いモスクワのルビャンカ刑務所に収容されていました

この人の神経症の診察をしているときに、
彼は突然、J博士を知らないか とわたしにたずねました。
わたしが知っていると答えると、
彼はこう言いました。
「ルビャンカ刑務所で彼と知り合いになりましてね。
あそこであの人はなくなりました。
40歳ぐらいの時で、死因は膀胱ガンです。
でもそれまでのあいだ、
彼は われわれの最高の仲間でした!
わたしたち全員を慰め、
一生懸命になって励ましてくれたのですから。
まるで聖人みたいな人で、
わたしの長い刑務所生活で最高の友人
でしたよ


 これが「シュタインホーフの大量殺人犯J博士の物語です。
わたしたちは、
ある人間の行動を予測することができるでしょうか?
機械や自動装置の動きは予測できるかもしれません。
人間の心(プシケ〔psyche〕)のメカニズムや「精神力動」も、
あるいは予想できるかもしれません。
しかし人間の内部にはプシケ以上のものが存在するのです。

 ただし自由がすべてではありません
自由は物語の一部、真実の半分にすぎません
自由ある現象全体ネガ側で、そのポジ側は責任性です。
自由
責任性という意味において活かされないと
単なる恣意性に堕落してしまう危険つねにあります

わたしが
アメリカの聴衆の皆さんに、
東海岸に「自由の女神」があるのだから
西海岸に「責任の女神」を建設したら どうでしょう
とよく言うのは そういう理由からです。”
(ヴィクトール・フランクル【著】/赤坂桃子【訳】
『ロゴセラピーのエッセンス』
2016年、新教出版社、70-73頁)

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


〈たった1つでも「道徳」があれば
    人生を忍耐強いものにできる〉


 失業者の経済上の困難や経済的な苦境が
極めて深刻な問題であること

言うまでもありません。
「まずは腹ごしらえ、それから道徳だ」という考え方が、
今日では
以前以上にも切迫した問題になってきました

しかしながら同時に、
何の道徳もなしに腹ごしらえすることいかに無意味か

そして腹ごしらえ「だけ」を考えている人々の意識にのぼる
この無意味さが どれほど壊滅的であるか
も、
フランクルは理解しています。
またとりわけ、
生きる絶対的な意味があるという揺るぎない信念
つまりたった1つでも意味がありさえすれば
誠実にすすんで飢え耐え忍ぶ準備をする存在であること
を、
彼は体験したからです。


〈美しいものに献身することによっても
   人生に意味を与えることができる〉


 美しいもの、偉大なもの、良きものを愛し、
それに献身することによって、
行動する人間として
また愛する人間として、
存在の要求を満たすもできる
のです。
ここで美の体験〔体験価値〕が
人生を意味のあるものにすることができる ということを
フランクルは次のように例示しています。
コンサート・ホールに座って、
お気に入りの交響曲に耳を傾けている
という設定です。
ちょうど今、大好きな小節が耳に入り、
ぞくぞくするほど感動している自分がいて、
その瞬間に だれかが あなたに
「人生に意味があるでしょうか」
と尋ねたとします。
その場合、答えはたった1つしかありません。
それは
ただ、この瞬間のためだけに生きていただけで、
すでにその価値はありましたよ

という内容だとフランクルが主張しても、
私たちはだれも反対しないでしょう。”
(広岡義之【著】
『フランクル人生論入門』
2014年、新教出版社、63-64頁)

―――――――――――――

〈米国行きのビザの放棄を決断させた
    大理石の十戒のエピソード〉



 米国が第2次世界大戦に突入する直前、
フランクルは米国への入国ビザを受けるために、
ウィーンにある米国領事館に呼ばれました。
ビザが交付されしだい、
フランクルがオーストリアを離れることを、
両親は強く希望していました。
しかしフランクル自身は、
最後の瞬間に両親のもとを離れるべきかどうかで
深く悩んでいたといいます。
なぜなら両親がユダヤ人であるという理由だけで、
いずれ強制収容所に送り込まれるであろうことが
判っていたからです。

 ちょうどそのような時、
フランクルは自宅のテーブルの上に、
一片の大理石が置かれていること
に気づく、
それが何であるかを尋ねました。
父の説明によれば、
その大理石は、
ウィーンで一番大きいユダヤ教会が焼き払われたときに、
教会の焼け跡から見つけ出したものだ
と返答してきました。
父が家に持ち帰ったのは、
その石片に旧約聖書の「十戒」が
ヘブライ語で刻まれていたからでした。
フランクルが
「十戒のうちのどの箇条ですか?」
と尋ねると、
父の答えは
あなたの父母を敬え。
そうすればあなたは、
あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる

(旧約聖書、「出エジプト記」、20章12節、新共同訳聖書)
だったのです。
その答えを聞いた瞬間、フランクルは
自分の祖国オーストリアに両親と共に残り、
そして米国行きのビザの放棄を「決断」した
のです。


〈人間とは
 実存的「決断」を通して
 自分自身を決定づけて行く存在である〉


 フランクルが
このような実存的「決断」を下すことができたのは、
その大理石に「CaCO₃」(炭酸カルシウム)以上のもの
見い出し得たからです。
この実例からもわかるとおり、
人間は
決断を避けることができない存在であるからこそ、
実存は 必ず人間に決断を促すのです。
人間は、
こうした決断を通して日々を過ごして行くしか方法はなく
こうして人間は
絶えず自分自身をより高みへと形成していく
のです。

 このような人間理解は、
ヤスパースのいう「決断」する存在を基盤としており、
「衝動」に駆りたてられる存在を前提にする
フロイトの精神分析の立場と
真っ向から対立します。
「人格は実存的である」という場合、
究極的に
人間は責任を持ち、自由である
ということを意味します。”
(広岡義之【著】
『フランクル人生論入門』
2014年、新教出版社、89-90頁)

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


“人間の意味の欲求は、
内面の平衡ではなく
内面の緊張をもたらすことがあります。
しかしまさにこの緊張状態こそ
心の健康のため欠くことのできない前提
です。
あえて言わせていただきますが、
自分の人生には課題があるという意識ほど、
最悪の条件下にあっても 生き抜く能力を人間に与えるもの
は 
この世にはありません

ニーチェの次の言葉には多くの知恵が込められています。
なぜ〔why〕生きるのかを知っている人間は、
たいていはどんなふうに〔how〕でも生きていける」。
わたしは
この言葉に、すべての心理療法に有効な原則を見ます。
ナチスの強制収容所では、
自分を待っている仕事がある
と知っていた者たちが生存するケースが もっとも多かった
のです。
強制収容所についての著作のある ほかの筆者たちも
同じような結論に達しています。
(中略)

 わたしの話ですが、
わたしは出版するばかりになっていた本の原稿を、
強制収容所に移送されたときに没収されてしまいました。
この原稿をまた書き直したいという強い思いが、
苦しい強制収容所の生活生き抜く力となったこと
は、
疑いようがありません。
バイエルンにある強制収容所でチフスにかかったとき
わたしは 原稿をもう一度書き直すために、
小さな紙切れにメモを書き殴りました

それがなければ、
解放の日を経験できなかったでしょう。
バイエルンの強制収容所の真っ暗な夜のバラック
失われた原稿を再構成する作業が、
チフスで心血管虚脱におちいる危険から
わたしを救ってくれました


心の健康の基盤には、一定程度の緊張があることは明らかです。
その緊張とは、
ある人がすでに達成したことと、
これから達成すべきことのあいだの緊張

あるいは
現在の自分と、これからなるべき自分とのあいだのです。
こうした緊張関係
人間存在に本来備わっているもので、
それ故に
心の健康には欠かせません
こうした理由から、
わたしたちは ある人に、
その人を待っている意味の可能性向きあわせること
ためらってはなりません。
このようにしてのみ、わたしたちは 
その人の中で眠っていた意味への意志を、
目覚めさせることができます

人間がまず第一に必要としているのは
平衡であるとか、生物学で言う「ホメオスタシス」、
すなわち 緊張のない状態だと決めてかかるのは、
精神衛生の危険な勘違い

とわたしは考えます。
人がほんとうに必要としているのは、
緊張のない状態ではなく、
ふさわしい目標、自由意志で選んだ仕事に
取組み、奮闘すること
です。
人間が必要としているのは
緊張の解除ではなく
その人によって実現されることを待っている
意味の可能性からの呼びかけ
です。
人間が必要としているのは、
ホメオスタシスではなく、
わたしが「精神の力学」と呼んでいる、
正反対の二極によりもたらされる
緊張の場における実存力学
です。
一方の極には実行されるべき意味があり
もう一方の極にはその意味を果すべき人がいます。
この対局関係は、
通常の条件のもとでのみ存在するのではありません。
むしろ神経症の人の方が顕著だと言えましょう。
建築家は
老朽化したアーチ形構造物を補強したいとき、
その上にかかる荷重を増やします

そうすることによって、
部材がより緊張に結合する
からです。

ですから患者の心の健康を増進すると思うセラピストは、
個人の人生の意味を新たに方向づけることで、
健全な緊張関係つくりだすことを恐れてはなりません


 意味の方向づけがもたらす治癒効果を
明らかにしてきましたが、
次にわたしは
ある感情の有害な影響について述べます。
これは最近多くの患者が訴えているもので、
自分の人生には まったく意味がない
と思ってしまう感情
です。
この人たちは、
そのためなら生きる価値がある と思える意味知らず、
自分の内面の空虚感、
自分の内面の底なし沼のような空虚感に
苦しんでいます

彼らは
わたしが「実存的空虚感」と呼んでいる状態に
おちいっているのです。”
(ヴィクトール・フランクル【著】/赤坂桃子【訳】
『ロゴセラピーのエッセンス』
2016年、新教出版社、25-26頁)

――――――――――――――――

“…患者が
「わたしの人生の意味は何ですか」
と質問したとき、
わたしたちには何ができるのか考えてみましょう。


〈人生の意味〉


 医者がこの問いに
一般論として答えを出せるものかどうか、
わたしには疑問です。
なぜなら人生の意味は、
人によって、日によって、時間によってすら異なる
からです。
ですから重要なのは
一般的な人生の意味ではなく、
ある特定の瞬間における
ある個人の人生の具体的な意味
なのです。
一般論としてこの質問をすることは、
チェスの世界選手権王者に対して
「チャンピオン、
この世で一番いいチェスの手を教えてくださいますか?」
と質問するようなもの
です。
その試合における駒の位置と対戦相手の個性に左右されない、
「一番いい手」
など存在しません。
そもそも「いい手」というものだって存在しません

同じことが人間の実存にも当てはまります。
抽象的な人生の意味を問うことは重要ではないのです。
人生においては、
誰もが自分にしかできない仕事、
その人に成就されることを待っている具体的な使命

待っています

それは
他の人が代わりに果たすことは
できません
し、
その人の人生で ふたたびくりかえされることも
ありません

したがって
それぞれの人間にとって、
いまここにある意味のある課題は、
この課題実現するために与えられた可能性と同様、
かけがえのない唯一のもの
なのです。

 人生のすべての状況1つの課題なのであり、
その人が解決すべき問題を突きつけているのですから、
わたしの人生の意味は何ですか
と質問するのは、
方向が逆だということになります。
わたしたちは、
人生の意味は何かと問うのではなく
問われているのは他でもない自分
なのだ
ということを理解しなければなりません
一言で言うと、
すべての人間は人生から問われているのです。
そして人間は 自分自身の人生
責任を持つことによってのみ

人生に答えることができるのです。
このようにロゴセラピーは、
この責任制中に、まさに人間存在の本質がある
と考えます。


〈実存の本質〉

 この責任制の強調は、
ロゴセラピーの定言命法にあらわれています。
それは、
あたかも二度目の人生を生きているように生きなさい
しかも、
あなたが今ちょうどしかかっているように、
一度目の人生で すべてまちがってしまったつもりで
というものです。
まず現在を すでに過去のもののように思わせ、
この過去は いつでも変えられ、改善できること
言っているこの金言
ほど、
人間の責任感を呼び覚ますものはないのではないでしょうか。
こう想像することで、人は
自分の存在の〈有限性〉とともに、
自分から積極的に人生に対してしたことの〈究極性〉
目のあたりにすることができます。

 ロゴセラピーは 患者に
自分の責任を十分に理解させようと試みます。
それゆえ、患者自身に、
何のために、誰に対して責任を負うのかを
自分で決定させる必要
があります。
ほかの心理療法のセラピストと比較して、
患者に
自分の価値判断をもっとも押しつけようとしないのが
ロゴセラピストです。
なぜならロゴセラピストは、
決定を下す責任
医師の側にゆだねてしまことを
患者に許さないからです。

 同じように、
社会または自分自身の良心に対して
自分の人生の課題の責任を負うべきかどうかを決定するのも
患者自身
です。

(引用者中略)

 わたしが
人間は責任を負うべき存在で、
自分の人生に潜在する意味を実現しなければならない
と言うのは、
世界における真の意味を見つけさなければならない
という意味であって、
あたかも閉じたシステムのように、
人間の内面または人間の心の中にある意味を探せ

と言っているのではありません。
わたしは
この本質的な特徴を、
人間存在の自己超越性」と呼んでいます。
これはつまり、
人間存在は つねに
何か
または 誰かに向かっているということです。
それが実現されるべき意味であろうと、
出会うことになる他者であろうと、
その〔自分が向かう〕方向性は
自分自身に向かうのではありません。
あることに没頭し
あるいはある人を愛する度合いが強くなり
自分を忘れれば忘れるほど

人間になり、自己を実現する
のです。
ここで言っている自己実現とは
努力してがんばれば達成できるような目標のことでは
ありません

なぜなら、理由は単純で、
がんばれば がんばるほど目標は遠ざかるからです。
言い換えれば、自己実現
自己超越の副次効果としてのみ可能
です。

 これまでの考察により、
人生の意味つねに変化すること、
しかし
意味 けっして存在することをやめないこと
明らかになりました。
ロゴセラピーの見解では、
わたしたちは
この意味というものを3つの方法で発見できます。

(1)〔創造的価値
作品を創作したり、
行動を起こしたりすることによって

(2)〔体験的価値
何かを経験したり、
誰かと出会ったりすることによって

(3)〔態度価値
避けられない苦難に対してとる態度によって。


 創作や業績によって、という第1の方法〔創造的価値〕は、
説明するまでもないでしょう。
(中略)

 人生の意味を見つける第2の方法〔体験価値〕は、
何か――人間の善、真実、美、自然体験や芸術体験――
と出会うこと
また他者の唯一性、比類なさを経験し認めること、
すなわち
その人を愛することで他者と出会うことです。”
(ヴィクトール・フランクル【著】/赤坂桃子【訳】
『ロゴセラピーのエッセンス』
2016年、新教出版社、32-38頁)

――――――――――――――――――――


“わたしたちは
絶望的な状況におちいったとき
変えることのできない運命に直面しているときにも
人生の意味見つけられるのだということを
けっして忘れてはなりません
ここで重要なのは、
わたしたち自身が、
あらゆる能力の中でもっとも人間的な能力
すなわち自分の身に起こった悲劇勝利に変える能力
苦悩に満ちた運命人間としての業績にする能力の証人となることです。
ある状況をもはや変えることができない場合
――たとえば
手術ができない癌のような不治の病にかかったとき――
わたしたちは
自らを変えるという課題をかせられているのです。

(引用者中略)

 仕事をする〔創造的価値の実現〕、
あるいは 自分の人生を楽しむ〔体験価値の実現〕、
といったことができず
意味実現のための最初の2つの方法〔創造的価値、体験価値〕
不可能な状況
もあります。
しかし苦悩だけは、
どうしても避けられないものとして存在しつづけます。
この苦しみ勇敢に引き受けるという挑戦を受けて立つことによって、
人生は最後の瞬間まで意味を持ち
この意味

文字通り いまわの際まで持続します
言い換えれば、
人生の意味の実現に、条件関係ないのです。
避け得ない苦しみによってすら、
意味を実現する可能性潜んでいる
からです。”
(ヴィクトール・フランクル【著】/赤坂桃子【訳】
『ロゴセラピーのエッセンス』
2016年、新教出版社、41-44頁)

――――――――――――――――――――


“基本的に克服しがたい事実、
不可避な運命に悩んでいるすべての事例には、
世界観に基づく問題提起を行う必要がある。
障害者、回復の見込みのない病人、
回避することのできない経済上の窮乏によって
近い将来うつ病におちいると思われる人などが
これに当たる。
こうした人々には、
責任を意識した人生において重要なのは、
諸価値を創造的に実現したり、
体験(芸術や自然を楽しむ)を通して自己実現したりすること

だけでなく、
価値の実現可能性には究極のカテゴリーがあるという事実を
教える必要
がある。
これを私たちは一般に「態度価値」と呼ぼうと思う。
すなわち、
永続的な、または、さしあたり回避できないような、
きわめて運命的な状況に直面
して どのようにふるまうのか 
と問うことで、
価値を実現するチャンスは まだ生み出されるのである。
運命「宿命的」と言われるような覆せない運命を)
どのように受け入れるのか

それに負けてしまうのか
それとも毅然としていられるか
――そこには
個人的な価値(勇敢さ、勇気、尊厳)を実現する
最後の可能性も含まれている
。”
(ヴィクトール・フランクル【著】/赤坂桃子【訳】
『ロゴセラピーのエッセンス』
2016年、新教出版社、98頁)