疑の字は、いらねー。 | フーテンひぐらし

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永遠の放課後。文化祭前夜のテンションで生きたい。なかなか大人になれない。


ひとに対する感情の中で
怒りなんぞよりずっとカンタンで
気軽にできてしまうのが、


疑い。



○○なんじゃないか、と疑った時点で、
それに向かうベクトルの材料しか、
目には入ってこなくなる。




おいらも疑うのは上手だったな 笑



だけど、人から一度でも疑われてみると分かる。

ありゃぁ、すごーくくやしくてかなしいな。


必死に違うと言ってるのに
言えば言うほど冷ややかな目をされたりして
「分かった分かった(ま、そういうことにしておこうか)
みたいな言われ方で終わられたりすると最悪である。



怒りをぶつけられるよりもずーーっとイヤな気持ちだしょぼん



信じてもらえてないって、

足元から地面をとっぱらわれるよなかんじなのだ。



ああいうのをすごーくカンタンに人にぶつけてたんだな、と
気づいて、ゾッッとしたことがある。




疑いは疑いの連鎖を呼ぶし、
疑われ続けた人は他人のことも疑うようになる。

特に近しい人に関しては

疑うのも疑われるのも、
ものっそいエネルギーを消耗する。




だからわたしゃもうできるだけ人を疑いたくない。

くだらない深読みが多い人間だけど、

そこからは足を洗ってゆきたい。


それがお気軽なゴシップであっても、
当人や近くの誰かがかなしむような
うわさ話には乗っかりたくない。




そして同時に、

疑心暗鬼で苦しんでほしくないので、
大切な人にウソついたりごまかしたりして

かげで何かをすることは絶対したくない。


(ええ、それを甲斐性だと勘違いしてたイタイ時期もありましたがね)



それにどんな素敵なお題目や
ご立派な理由がついてたとしても、
バレたら困ることをする

イコール誰かをかなしませること。


それは生涯、二度とやだ



人ってこちらがきちんと信じると、
驚くほど柔らかくほどけてくれる。
そのうれしさも知ってるから、余計に。




松本サリン事件で、オウムの犯行だと判明するまでの
最初の1年間、ずーーっと容疑者扱いされていた
河野さんの奥さんが、今週亡くなった。
サリンの被害者として14年間意識が戻らないままだった。


河野さんは淡々とお話している。


悲しみや憎しみややるせなさの極限があるとしたら
それをはるか昔に超えてしまったかんじだった。


でも、あきらめとかじゃない、
いろいろなものを受け入れ
愛していくことで乗り越えるっていう
そんなとこにたどりついているかんじだった。



おいらの話とは重さがぜんぜん違うんだけど、
それをテレビで観てたら、


なんかやっぱり、再度つよくそう思ったよ。