「2円で刑務所、5億で執行猶予」浜井浩一著 前編 | 女子リベ  安原宏美--編集者のブログ

「2円で刑務所、5億で執行猶予」浜井浩一著 前編

  浜井浩一先生の新刊が先週発売になりました。大変楽しみにしておりました。

  2円で刑務所、5億で執行猶予 (光文社新書 427)/浜井浩一


  浜井先生の講演で、会場が沸く部分をタイトルにされたみたいで、光文社さん、思いきったキャッチーなタイトルにされましたね。「5億で執行猶予?、けしからん!」と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、先生の講演でも、この本の内容を知ると、その意味と問題点がよくがわかりますので、ぜひ手にとってお読みいただければ幸いです。光文社さんの前作の「犯罪不安社会 」のときは、私は帯の文句になっている「治安悪化なんて誰が言った!?」が最初タイトルによいかなあと思ったんですけど、光文社さんから、この本の内容だと長く読まれる教科書的なタイトルのほうがいいんじゃないかとアドバイスされて、それもそうだわ、確かに!と思い、編集者の想い(というか「怒り」笑)が先走らないほうがよいかと反省し、私はこちらもよいタイトルつけてくださったなあと思いました。編集者は総じてキャッチーなタイトルばかり考えてる人種と思われがちですが、そうじゃない方もいるんだなあとも、私も勉強になりました。

 いろいろと専門家の論文を読む機会はあるのですが、多くのものは一般書で出すべきものなのかどうかと、冷静になるんですよ。専門家が宇宙の果てでしゃべっていて、そこで論争してようが、合意してようが、一般人にとっては宇宙の果ての出来事なので、どうでもよい話もあるし、まかせます、とも思ってますし、そういう意味でも、ほとんどどうでもよい話なんじゃないかとも思うわけです。でも、そのなかで、この話は「きちんとどうしても出さなくてはいけない!」と使命感にかられるものがあるわけですね。そう強く感じがのが浜井先生の論文でした。

 浜井先生も書かれていますが、犯罪白書の執筆をし、法務総合研究所でデータの分析もし、なおかつ国連に出向して国際比較から日本の司法制度を考え、すべての矯正施設(少年鑑別所、少年刑務所、刑務所、保護観察所、法務省矯正局)施設で実務を経験され、当事者とも向かい合った刑事政策の研究者というのは、日本ではいらっしゃいません。世界的に見てもあまりいらっしゃらないんじゃないんでしょうか。さらに、矯正施設の中でも、制服組ではなくて、私服の分類主席(一般企業でいう人事や労務でしょうか)という立場なので、当事者から少し離れて物事をみていらっしゃったんですね。

 刑事行政というのは非常に縦割りで、学問の分野もかなり縦割りです。そして法学部出身者が多い。つまり学問の分野の中でも、浜井先生は日本ではかなり異質な方なんじゃないかと思います。とくに矯正施設や犯罪統計のことは、メディアの人も法曹の人もあまりご存じの方がいないんですね。

 それはなぜかということが、本の中でも書かれていますが、法律家の思考の傾向の問題点を指摘されています。たとえば前田雅英さんが、「統計では証明されていない!しかし、対策は絶対必要だー」なことをよく言ってて、ネットでは頭がおかしいんじゃないの?と言われてますが(言われてもわからないので、ほんとにおかしいのかもしれませんが笑)、そういうこと言っても別段仕事なくならないわけですよね。それどころか、最高裁が前田さんに統計の依頼とかしてしまったこともあったわけですから。前田さんにとっては、きちんとした統計的思考に「生きていく」ための価値がないからでしょうな。

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 法律家を目指すものの多くが、学部時代から、民法、刑法、憲法といった法律基本科目のみを集中的に勉強しがちである。つまり、法律家の多くが法律のみの専門家になり、法科大学院ができたことで、さらに、それに拍車がかかりつつある。

 (略)たしかに、法的思考は、三段論法に見られるように、論理的な思考が必要とされる。ただし、論理的な思考と科学的な思考は同じではない。最近の科学的な思考では、論理というよりは、確率的な思考が求められる。

 熱中症の事例で紹介したように、刑事法では、野球部の顧問に刑罰を科すために、刑法上、過失が成立するかどうかを検討する。その際に、問題となるのは、過失を成立させるために必要な、予見可能性、結果回避性があったかどうかを立証することであり、そのために検察官は、当該教師が受けた教育や研修内容を検討し、熱中症に関する知識が含まれていたことで、熱中症に関する知識が十分にあったものと立証されたと考え、裁判官もその理由を受け入れた。(略)

 極端な言い方をしてしまえば、法律の世界では、刑罰を科すために必要な条件、この例では過失を成立させるための論理が理屈として成り立てばよいのである。裁判官が自由心証でその理由を認めればよいのであり、事実がどうであったかを科学的に証明する必要はない。判断するのは裁判官である。法律の世界は、このように「べき論」の世界であり、価値判断の世界である。

 科学の世界では、仮に可能性を問うとしても、それは実証的なデータによって統計的に検証しなければならない。例えば、先ほどの例で言えば、100人の教師に同じ内容で教育内容を受けさせて、その後一定の時間をおいて、どの程度の教師が熱中症の詳しい症状を記憶して事件当日の条件で検察官の指摘した熱中症対策を取る可能性があるのかを実験して検証する必要がある。

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 浜井先生の東京での講演は、知り合いの法科大学院生もいっしょに伺ったのですが、あとで、話を聞いていると、こういった思考方法や犯罪学的な刑事政策は一切勉強をしないんだそうです。刑事弁護を目指すのであれば、こういった確率的思考でひっくり返さざる得ない状況だってあると思うんですけどね。そして、刑事弁護にとっては「希望」なんじゃないかと思います。だって、検察官ってそこまでしか立証しないわけでしょう? 浜井先生は、司法試験にこういった確率的思考が必要な刑事政策を入れないとと、思っていらっしゃって、パブコメなどもされていらっしゃるようです。以前、中西準子先生の講演を聞いたときに、確率的な思考について「ふつうの人はいつもやってますよね」みたいなことを言ってらしてて、裁判員制度もあることだし、こういった議論のすすめ方というのは、「科学的思考」とか「論理的思考」とか別にその定義がわからなくても、ふつうの人のほうがイメージわくんじゃないかなあと思ったりもします。裁判観に行ったときの違和感というのはこういった部分だったりしますしね。


 浜井先生が描かれる刑務所の話で私が一番、目からウロコだったのは、「刑務所は受け入れ段階で、たらいまわしができない、働く施設である。そして出すときに引き留めることもできない」ということなんですね。左派の議論でよくある「人権抑圧施設であり、何かあればバッシングされる施設」というような人権論や、人文系の「学校は刑務所に似ている!パノプティコンだ!」みたいなぬるい直喩的な“分析”からの先入観では気がつかないことがたくさん書かれていたわけです。後者については、どちらかというと逆で、刑務所がその社会に似ているのではないかということに気がつくわけです。

 「刑務所の風景 でも自由闊達な研究所から刑務所に異動になった浜井先生の最初の違和感のようなもの書かれているんですが、私はあの最終章すごい好きなんです。フリーな勤務先から、厳しい部署に異動になったときに感じる違和感わかるわーっ(笑)。そして、空気読めない“はったりの効かない研究者”が処遇を刑務所にお願いするところ。会社の制度はあるにはあるが使えないみたいなルールを浜井先生が上司に気を遣いながら使っている様子(部下はもっとやってーって実は内心喜んでいるんでしょう)は一般の会社でもよくあるなあーと。結果的に“組織の良心”みたいなものになってしまうときの複雑な気持ちといいますか。そういう「刑務所の風景」って描かれたことがないと思うんですよね・・。

 

 この新刊は「犯罪不安社会」の統計学者である浜井先生だけではなく、刑務所に勤務された分類首席であり、臨床心理士でもある浜井先生の違う部分の知性を知ることができると思います。


 長くなりますので、また続けて紹介します。