いたいたーこういう醒めた奴(けど嫌いじゃない) | 女子リベ  安原宏美--編集者のブログ

いたいたーこういう醒めた奴(けど嫌いじゃない)

 地方に行ってきました。かなりさびれたビジネスホテルの一室で誕生日を迎えました。ホテルから歩いて5分のところにあるコンビニで買ってきたトロピカーナが目の前に1本。ベッドの棚には古びた聖書と仏教書のセット。ホテルの向かいは○○中央病院。ホテルまでの道すがら通ってきた商店街はシャッター通り。人は歩いていません。しかし、病院の駐車場は満車。寝ているとたまにくる救急車の音で目が覚めます。はめ殺しのホテルの窓から向かいを見ると病院の窓から漏れる非常口の緑の光がなんかいいかんじです。
 ホテルの部屋にいると、パチンパチンと背後で物音がするんですが…なんでしょうか。
 都市伝説によれば、いわくつきのあるホテルの部屋は飾ってある絵の裏にお札が貼ってあるそうです。おおールノアール風の絵が。どれどれ?
 うぎゃーー!
 …うそです。

 さて、今年はけっこう地方に出張に行ってましたが賑わってた商店街は道後温泉の商店街だけだったなあー。

 そんな状況にぴったりな本を読もうかなということで、前から気になっていた「滝山コミューン」を読ませていただきました。

滝山コミューン一九七四/原 武史

 読後感。「うわーいけすかない・・・いたいたーこういう醒めた奴(けど嫌いじゃない)」っていうのが第一印象でしょうか(笑)。すいませんね、感動したみなさん。しかも甘い毒が上品にてんこもり。ああこれはリベラルインテリ心わし掴みの本だなあと思いました。案の定、朝日の書評は北田暁大氏。
 
http://book.asahi.com/review/TKY200706120184.html
 
 そして最期の「ダ・カーポ」をその暗いコンビニでパラパラ立ち読みしてると、新聞雑誌の書評担当者が絶賛しておりました。
http://www1.e-hon.ne.jp/content/dacapo07.html
 そーよね、そーよね、これは安心して絶賛できる本ですね。ありとあらゆる「批判」に対する予防線もはりめぐらし(数行だけど)、「男の子」ロマンを随所に満足させる過剰ともいえる状況描写、鉄道描写、そして、過剰な集団主義に悩んでいた少女の回想。・・・ステキすぎる。映画になりそうです。クライマックスは林間学校。映画「三丁目の夕日」みたいなわかりやすい「昔はよかった症候群」じゃなくて、目配りの聞いたノスタルジー。
 でもね、これは「サヨク」とどめの書でしょう。それも「鬼のパンツ」と「キャンドルサービス」と「合唱」というインテリチームからすれば「ばっかじゃない」というモチーフで。もちろんここまで先生ができたのは当然PTAの力が強かったっていうのが大きいでしょうね。親の理解がなきゃ、こんなことはできまい。そして著者はPTAに金なんか渡しても、結果的にそんなもん(踊って騒ぐだけで)っすよ、勉強なんかさせてくれないから四谷大塚が著者の救いだったといってるわけですね。
 そう、頭にも余裕があり、経済的にも余裕があったひとりの小学生の心の傷です(もちろんそこも“ふふん、わかっとるわい”と先まわり済み)。林間学校が物足りないというレビューがありますが、この「物足りない」感も著者は自覚的じゃないかなあ。つまり「歌って踊って」の内容さえ、「そんなもん」ってこと。

 いやあの、著者の方のこの粘着質嫌いではありません。
 それに、私も教科書にのってる「スイミー」って「みんなで集まれば怖い」って話だと思ってましたから、わかります。
 この本の舞台は高度経済成長時代に家庭環境的に同質性の高い集団が集まった滝山団地。さらに「美しい理想」を信じることができたマクロな経済環境。そこにソ連マカレンコを理論的支柱とした熱血先生片山先生がやってきて、そこに原少年が居合わせた幸か不幸かの惑星直列グランドクロス。まず、学校の人数が違いますよね。本書の記述を参考にすれば、当時全校生徒約1200人。多いなあ。まあそりゃある程度「集団主義」にならにゃあ収拾つかない数ですね。さらにその人数で同調圧力かかるわけだから、原少年のように気が付く子供にとっては地獄だし、この人数じゃ反抗もできまい。
 私も団塊ジュニア世代なので小学校の人数は多かったです。さらにコンビナート地帯の学校だったので、団地の児童たちは多かった。団地の友達同士は仲良しだし、結束感があってうらやましたかったという記憶もあります。小さいころに親に「団地に住みたい!」とか言ってたらしいですから(笑)。社宅団地に住んでる親がメーカー勤務の友人は海外転勤をすることになって、「お風呂が家に3つあり、お手伝いさんが3人います」みたいなエアメールをもらって、サラリーマンっつうのは、昨日まで箱みたいな家住んでたのに、すごいなあと思った記億もあります。
 でも、ある日団地の友達に聞けば、「救急車がきたら、お向かいの巨大団地の光がぱっぱっぱっとついて、なんか怖い。でもこっちもそう見られてる」とか「あそこの部屋はどこどこさん家で、昨日は夜○時まで勉強してたけど、あんたはどうなの?と母にいわれるから、電灯にクロスかけて勉強してる」らしい。それを聞いて「戦時中かよ」とかも思ったし、「団地にいると次の日は、試験の順位が知れ渡っている」らしい。「それで、団地の子供たちは成績いいのかなあ」とか思ったり。いいところばっかじゃない、いろいろ苦労はあるんだなあと、子どもながらに思っておりました。

 でもね、アマゾンのレビューにこんなコメントがあります。
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七小の出身者としてのコメントですが、ほぼ事実どおりかと思います。
このような形での振り返りは体験者としてはなかなか衝撃的ではありますが。

当時は、小学生なりに、まーこんなものでしょうか・・・
などと感じていたことが、実際はなかなか「反動的な社会的な事実」
として取り出されると、びっくりします。
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「まあこんなものでしょうか」だから「びっくりします」。私はこのコメントが一番しっくりきました。 この方は七小スタイルがもちあがった中学校のほうがつらかったと書かれていますが。

著書のなかでは、集団主義支配に抗ってくれそうな頭のいい小林君が結局迎合しちゃうところを原少年は非常に残念がっています。小林君にしてみれば中学受験をして同じ公立にはいかないわけなんで、「まっ最後くらいのってやるか、それも楽しいかもね」と思ったんじゃないかな。私でもそうするな。引き裂かれる自己を不幸と思うか、リスクヘッジと思うかで私はきっと後者なのですよ。
 同窓会の場面が出てくるのですが、一部の人以外はあまり記憶がないっていうのもきっとそういうことで、大人になって自立できれば小学校のときの記憶なんて、「思い」を繰り返し咀嚼するようなマスコミとかアカデミックとかある種特別な場所で生きていない人間にとっては「まあそんなもん」ってことじゃないのかな。
 ・・・・なんて書いてると、自分が鈍感力すさまじい(原少年ほど頭のよさがないのは事実です、はい)子どもだったみたいで嫌になってくるんだけどね(笑)

 でも結局はグランドクロスのように思想と実践がかみあった「滝山コミューン」もマクロな経済状況と少子高齢化の前に、霧消するわけですね。まっ思想なんてそんなもんってことかもしれないってことを私は再確認したってかんじでしょうか。でも結局文章が書ける人たちは、思想を残していくわけで、そこが現実と乖離していく部分なのかもしれないねって思ったり。
 今の滝山団地はこういう状況みたいで、なんかまったりしてますね。人数が多い分、「都市型限界集落」までいってなくて、まったりできるだけでもマシっていうかマトモっていうか(時間の問題のような気もするが)。
 あの時代のほうが「異常」で、人は老いるし、子供は減るし、そこをノスタルジーやら過剰な「思想」に翻弄されずに身の丈にあった社会を構想していくことが求められるのかもしれないなあという「最後の郊外論」というかんじでとっても楽しませていただきました。
http://codan.boy.jp/danchi/tama/takiyama/index.html
http://kanto.machi.to/bbs/read.pl?BBS=tama&KEY=1106491193


参考
◆特別募集住宅は、不幸にして先住者の方がお部屋の中で亡くなられた住宅です。
http://www.ur-net.go.jp/kansai/tokubetsu/index


この本は「パペッティア通信」さんの書評に感動して読もうと思いました。
http://plaza.rakuten.co.jp/boushiyak/diary/200707130000/