「きみにだって権利はある」 | 女子リベ  安原宏美--編集者のブログ

「きみにだって権利はある」

 つい先週、念願の大きな本棚を作りましてウキウキしております。
 整理をしていたら懐かしい本がいっぱいでてきて、整理の途中に読んだりしている。昔の自分の書き込みとかが、ものすごく恥ずかしくておもしろい。


 その本のなかから、ちょっと抜粋してご紹介しようと思います。

 「貧乏は正しい!―ぼくらの東京物語/橋本 治」
 91年くらいに高校生向けのマンガ雑誌に連載されていたエッセイを集めた本だ。
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 「きみにだって権利はある」

 

 選挙に行く私は、誰も応援しない。応援したい人間なんか一人もいなかったし、支持したい政党なんてひとつもなかった。昔は「政治」なんていうことは全然わかんなかったし(今だってわかっているかどうかわかんない)。つまり、私は基本的には、「選挙なんか関心がない」という無関心層なんだということね。
 選挙用語でいうところの「無関心層」というのは、投票に行かないときの私のことを言う。投票に行くときの私は「浮動票」というものになる。なんともバカにした話だ。
 「だったら投票になんか行かなくていい」と思う人はいるかもしれない。でも私は、基本的には「いやでも行かなきゃしょうがない」と思っている人間なんだね。
 
 なんでそうなのか。

 無関心のまんまでいると、いざという時、関わりを持たなきゃいけないような事態がやって来た時、関わりの持ち方を忘れちゃうから。

 世の中には、「バカだから関心が持てない」という人種は明らかにいる。「関心がない」といっておけば、バカに見られるおそれがない」と思って、それで本当は全然わかりもしないことを、エラソーに「関心がない」と言ってすませちゃう人間はいくらでもいる。


 あなたはそうじゃないでしょうね?
 「関心がない」ということは「知っているけれど関心がない」ということです。そのことだけは、頭に入れておくように。その前提を持って、人は「関心がない」という言葉をエラソーに言うんです。だから、「関心がない」という言葉を真実エラソーに言いたかったら、「ちゃんと知ろう、知っとこう」と思いなさい。それをやらないやつは、人間のカスです。
 「関心がない」という言葉は、そのような形で「私はいやだ」ということを表明する言葉なんだから。

 「関係がない」という言葉もある。「関心がない」というのと極めて近い言葉です。「関心がない」よりも、もっと積極的な嫌悪を表すのが、この「関係ない」だけども、これは、「おまえなんか嫌いだから、おまえとは関わりをもちたくない」というような意味を表す言葉だね。
 私もよく使いますから、言ったってかまわいないんだよ。

 ただし、この「関係ない」という言葉には“裏の意味”だってある。「関係ないじゃん」ということは、「自分はそういうものとは関係を持ちたくない、自分が関係を持ちたいのはこういうものだ」という代案がいつも隠されているということね。
 「自分は何と関わりを持ちたいのか?今の世の中にあるほとんどのものとは、関わりなんかは持ちたくないけど、でも、自分が関わりを持ちたいものはどっかにある」という意味を持って、「関係ない」という言葉はあるんだ。
 「いやだ」ということには、理由がある。「なぜいやか」なんてことは、そうかんたんに説明できるもんじゃないけれども、人間は「いやだ」と思う理由があって、それで初めて「いやだ」と言う。そのことを忘れないほうがいいね。「いやだ」という否定的な言葉だけですべてを処理していくことができるのは、赤ん坊だけです。
 赤ん坊はギャーギャー泣いて、自分の「いや」を表現する。べつにあんたたちは赤ん坊じゃないんでしょう? だったら、「なぜいやか」「なぜ関係を持ちたくないのか」「なぜ関心をもてないのか」ということを、少しは考えておいたほうがいい。それはそうそうかんたんに答えの出ることじゃないけど、そのことを考えようとしない限り、答えというものは絶対に出ないものなんだ。
 「なぜいやか」の答えが「自分に“自分以外のもの”を認める能力がないから」ということになる可能性だってある。「なぜ関係を持ちたくないのか」の答えが「自分には外側と関係を持つ能力がない」ということになる可能性だってある。「なぜ関心が持てないのか」の答えが「バカだから分からなくて」ということになる可能性だってある。気をつけなさいよ。

 「いやだ、いやだ」って言うことは、自分のまわりに溝を掘ることだ、堀り続けて、結局どこにもいけなくなって、さらには自分の居場所さえもなくしていって、最後に「こんな自分はいやだ」と言ったって、もうどうしようもないんだ。
 
 大人は「変動」だ「変化」だの、勝手なはしゃぎ方をしている。日本の政治のことだよ。それを見てて、あるいはきみたちは「バカらしい」と思うかもしれない。きみたちが自分に関係を持ってくれない大人なるものを嫌ったっていい。でも「大人が嫌いだ」ってことと「政治が嫌いだ」ってことを、そうかんたんにくっつけるなよ。


 政治というものは、固定的なものじゃない。政治というものは、「現実世界の調整」だ。だから現実というものがある限り、政治というものはいつだって必要で、いつだってある。そのことを理解しなくて、わからなくて手を抜いていると、今度はきみたちが「醜悪な大人」って言われる番になる。

 「社会や親が子供の進路を決めてはならない」ということはない。それを言うなら、「社会や親は、子供の進路をちゃんと考えてやれ」だろう。あるいは、「社会や親が、子供の進路をちゃんと考えられるだけの能力と知識を与えてやれ」だろう。

 そしてそのためには、社会は、そしてその社会の構成員である親とが、「将来子供が成長して生きていくことになる、そのときの社会のあり方を考えながら、きちんと現実の社会をやっていく」ということが必要になる。

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 「グッ」とくるというより、「グサッ」ときたりするなー。
 「醜悪な大人」にならぬようにせなばなー。

 

ゲーテ

不安に感じるのは、時の流れと共に漂うのに打ってつけの青年をしばしば見ることである。そういうときこそ、いつも次のように注意を促したいのである。もろい小舟にのっている人間に櫂が与えられているのは、波のまにまに漂うためではなく、自分の見識の欲するところに従うためである