後藤和智さんインタビュー 前半 | 女子リベ  安原宏美--編集者のブログ

後藤和智さんインタビュー 前半

後藤和智さんの『左派は「若者」を見誤っていないか』という論考が『論座』2007年6月号に掲載されております。私も微力ながら編集をお手伝いした縁で、この論考を書くにあたって、後藤さんが考えていらっしゃることなどをお伺いしました。いつも楽しく(?)拝見しているブログ「冬枯れの街」の遊鬱さんにもご同席してもらいました。


『論座』 2007年6月号目次
http://opendoors.asahi.com/data/detail/8090.shtml
新・後藤和智事務所 ~若者報道から見た日本
http://kgotoworks.cocolog-nifty.com/
冬枯れの街
http://newmoon1.bblog.jp/


安原
 後藤さんや遊鬱さんの現在の若者に関する言論状況の認識ですが、以下であっていますか。

 「『若者論』という意味でも『若者論者』という意味でも、現在マスコミに散見されるのは、一部の良識的な記事以外はかなり思い込みが跋扈したお寒い状態になっていて、発信する媒体がネットしかないという状況。特に新聞など表の媒体で出てきているのは“ネトウヨ”というような負のラベリングを貼られたものがほとんどであって、それこそが問題だ」ということ。」

 何をもって“ネトウヨ”とするか、あるいはその主張の妥当性の部分はひとまずおいておいて、実際にはリベラルな議論もされているのにこちらの部分についてはほぼ取り上げられてこないのがおかしいということですよね。

後藤 
 はい。そうです。このたびの論考を書いていて思ったのですが、左派は青少年問題に関してはいかに無力で無策か、ということが再確認できたような気がします。それでも私は、左派はもっと青少年問題に目を向けて欲しいと思って書き上げました。
 つい最近、仲正昌樹氏の『集中講義!日本の現代思想―ポストモダンとは何だったのか 』を読んだのですが、これは非常に有益でした。なぜかというと、結局のところ80年代における「ポストモダン」やら何やらの戯れは、所詮は経済的な余裕があってこそのものだということがわかったからです。
 それに加えて、平成10年頃から14年頃にかけて、なぜ、宮台真司氏が「転向」したかもよくわかった。結局宮台氏の振る舞いもまた、仲正氏の言うところの「ポストモダンの左旋回」の変形でしかないということです。
 経済的状況が悪化して、宮台氏の言うところの「まったり革命」みたいなことが不可能になり、多くの左翼(香山リカを含む)が「左旋回」してベタな危機感を表明するようになり、宮台氏は「再帰的近代」などといって天皇主義、アジア主義などに傾倒したけれども、どちらも「大きな物語」を呼び出すことによって若年層の「解離」(笑)を「治療」しようとしていることには何も変わりはない。
 要するに、彼らにとってすれば、子供の頃は、濃密な地域コミュニティの元で育ち、既存の権力に反抗して、背伸びして消費社会と「現代思想」に戯れることに青春を費やすというあり方こそが理想であって、今の子供のように、希薄化した地域コミュニティの元で育って、青春時代も自分の身の丈にあった消費にとどまるというあり方は、確実に知性やコミュニケーション能力の崩壊である。

 この手の俗流若者論と郊外論のキメラの一番わかりやすい論者が三浦展です。こういう考え方の延長上に、古い左派に三浦展が受ける理由もあると思うのです。三浦の議論って、「左旋回」した反米主義者に受ける俗流若者論でしかないのですよ。

安原 
 宮台さんに関しては、編集者や著者も過剰に影響されている人がけっこういると思います。三浦さんもすごく影響されているんじゃないか。えっと証拠物件は以下(笑)。「プシコ」の2001年5月号三浦展さんの原稿の一部です。 
 
-オウム事件直後に書いた『終わりなき日常を生きろ』は、びんびん来ましたね。あ、社会学って世の中と関係あるんだって、初めて彼を通して知りました。自分がオウム信者と同じメンタリティを持っていたことも、彼を通じて知りましたし。僕、卒論のテーマが「終わりについて」だったんです。高校くらいからですね。「終わり」が好きだった。終末思想とかカルトとかノストラダムスとか。なぜかわからないですが、終わって欲しかった。それはつまり「終わりなき日常」を生きていたからなのかと思いました。
 当時好きだった曲に遠藤みちろうの「ビンの中から」(アルバムでは「カノン」という曲があります。ぼーっとただ続くだけの終わりなき日常を最終的にどうにかブレークしたいなと思う僕としては、その歌詞にすごく共感してたんです。地下鉄サリン事件があったときは中目黒に住んでましたから、日比谷線が大騒ぎだったんでしたが、なにかすごくわくわくしました。すげえっすげえって-

遊鬱 
 後藤さんが先に引いた仲正さんの言うところの「生き生き」典型例ですね、実に楽しそうで羨ましいです(棒読み)。宮台氏も三浦氏も確か共にアクロス出身で、そこに由来しているかどうかは知りませんが社会「学」というよりも、単なるマーケティング言説として理解したほうがいいように思います。「ブルセラ」とか「酒鬼薔薇」とか「シャッター商店街」とか「格差」とかそのとき、そのとき流行している言説に、うまいネーミングともっともらしい仮説を乗っけてみましたという。上から見た眼差しで語りたい人にとって、あるいはマスコミが紙面を埋めるのに重宝と。そして、別段定量的裏づけのないマーケティング言説に過ぎないから、言説市場の需給予測を読みはずすと「サイファ覚醒されちゃう」と。

後藤 
 『サイファ覚醒せよ !じゃなくて、『サイファ覚醒せよ!』(笑)!

安原 
 あと佐藤俊樹さんの『透明な他者の後で』(『
論争・中流崩壊 』に掲載)も参考になるかと思います。これは2000年の文章です。抜粋します。長くなりますがごめんなさい。

-70年代後半から80年代初めにかけて、「中流」論争とよばれるものがあった。
 というあたりから抜粋しますね。

 そのなかで生き残り、日本社会を語るキーワードになったのが村上泰亮の新中間大衆論である。生き残る、というのは異様な表現だが、他にいいようがない。新中間大衆論はまさに生き残ったのである。そのこと自体が「新中間大衆」とは何者であるかを何よりもよく示している。
 新中間大衆論、つまり「みんなが中間大衆なのだ」という議論は当初すんなりと受け入れられたわけではない。何よりもまず、その曖昧さ、つまり「新中間大衆」の実体のなさが批判の的となった。無理もない。(略)
 「現代思想」というのは本質的にマスコミ用語であり、内容をふかく掘り下げてもしかたないが、その感覚をこれまたあえて図式的に表せば、「戯れ」だといえよう。例えば、批判する側からいえば「上流階級のお坊ちゃんお嬢ちゃんのコトバ遊び」で「現実を見ない」証しということになる。新中間大衆論と同じで、これも字義通りには誤りとはいえないが、あまり意味はない。「戯れ」の中身を見ようとしていないからである。
 なぜ「戯れ」が「戯れ」となるのか? 教科書的にいえば、それは外部に実態的な根拠をもてなくなったからである。リオタール風に、大きな物語の終焉といえばわかりやすいだろうか。もちろん、すでに幾人もが指摘しているように、終焉自体が本当は大きな物語のひとつだから、むしろ言語ゲーム論を引用するほうが適切だと思うかもしれない。だが、この二つは見かけほど違っているわけではない。(略) 
 事実、言語ゲーム論がそうなったように、超越的な視点の導入-消去も、くり返されれば、やがて読者にも論者自身にも気付かれてしまう。そうなると、言及する対象をかえて、一見ちがった形で超越的視点を再度密輸入することになる。その反復において「現代思想」は高度に消費社会的な言説であるわけだが、反復も反復されれば反復自体に気付かれてしまう。(略)
 実際、新中間大衆の実体のなさはもっと固有に説明できる。(略)
 第四回SSM調査のデータで見てみよう。戦後社会の上層にあたるのはホワイトカラー雇用上層、つまり企業や官公庁の専門職や管理職である。その父主職×本人40歳職のオッズ比が、1926~45年生まれの男性では4.3まで下がっている。オッズ比は世代間の継承性の強さを示す指標で、父の職業によるいわば可能性の格差の程度を表す。4.3というのは、父親がホワイトカラー層用上層である人はそうでない人に比べて4倍以上、ホワイトカラー層用上層になりやすいことを意味する。絶対値では以前不平等だが、実はそれまでの30年間の間に9.4からここまで縮小してきたのである。
 したがって、トレンドとして考えれば、これが将来もっと縮まる、つまり社会的上昇の可能性の格差が縮小し、機会の平等がさらに進むと考えてもおかしくない、というか、そう考えるほうが自然である。現在から過去をふりかえれば、階層格差は「ある」。けれども未来に向かっていれば「ない」。(略)
 (しかし)1995年に行われた第5回SSM調査で新たに観測可能になった1936~55年生まれでは、ホワイトカラー層用上層のオッズ比は7.9になっている。可能性の格差の縮小という従来のトレンドは消滅し、むしろ「戦前への回帰」が見られる。オッズ比以外にも、父主職による新たに格差が出現している。実は世代間再生産にかぎらず、マクロ経済統計も含め、80年代後半以降さまざまな格差が顕在化しており、日本社会は新たな階級化を起こしはじめている(略)。
(赤坂真理の文章をひいて)あまりにも古典的な階級像。けれども、このアンバランスさのなかに見出すべきものは、時代錯誤ではない。触ってくるが言説がまわりこめない。そのことがこうした、奇妙なくらい実体的な「壁」を出現させるのだろう。言説の閉域を言説で直示しようとすれば、はるか手前で実体化させて召還するしかない。―

遊鬱 
 佐藤氏はまさに2000年段階で今騒がれているような「格差」について、もともと総中流「幻想」であって、ただその「幻想」が維持できていたことに意味があったと、そのSSM分析に基づいて述べておられました。そして今「格差」についてあれこれ言っている議論なんてほとんどがその想定内のものに過ぎないですよね。嫌味ではなく根拠のある言説はむしろ時間が経つにつれその価値が分かるようになります。

安原
 この佐藤さんの論考は、論者分析でもありますよね。後藤さんの論座の論考はもとより、遊鬱さんがいつも書いていることも同様ですが、実際に統計を検証してみればキレる
若者も怠け者の若者も増えていない。にも関わらず、実際に即した議論が政治レベル・論壇レベルでもなされていない。格差論議のなかの若者像(ニートやフリーター)もそうですが、論者たちが話していることが10年遅れくらいでさらに俗流化してひきずっていますよね。しかもそれにのっかって行政までも動いてしまっているということに対する危機感に基づいているという理解でお二人ともよろしいでしょうか?その辺りからお話をお願いいたします。

後藤
 はい、わかりました。『
「ニート」って言うな! 』にも書いた通りなんですが、2000年前後から色々な青少年に関する疑問を抱くような言説がふと目につくようになってきました。はじめはBK1の書評といった形でそのようなことを物申していたのですが、2004年にはブログを開設してきちんと「俗流若者論」という検証をしていこうと考えました。
 そのきっかけは、世間で「キレる17歳」とか喧伝された頃に、私自身もそのような目で見られているのではないかという考えにとらわれて外に出るのも億劫になった時期があったんですね。でもよくよく考えてみれば、私の身の回りにはそんなマスコミで喧伝されているように「キレる」人間なんかいない、この落差は一体何なのかということで考え始めたのがきっかけです。

 今、思うとこの身の回りには当て嵌まらないけれど、日本全体としては悪くなっている、危なくなっているというような考えは浜井浩一教授が『犯罪統計入門―犯罪を科学する方法 』に書かれていた、体感治安に関する意識とまったくパラレルですね。身の回りの治安は悪化していないけれど、日本全体の治安は悪化していると「信じている」というやつです。

遊鬱
 私の場合はもともと国の数字というものに興味があって、警察白書とか犯罪白書あるいは防衛白書(笑)とかを読んでいたんです。そこで情報・知識として若者の犯罪は増えていないということは知っていました。そういった情報、そもそも白書なんて市販されていますし、図書館にも置いています、いまやネットでも公開されていますが、簡単に手に入るに関わらず、マスコミの報道でなされるのは若者の犯罪が凶悪化している、急増化したというウソばかり。しかも、その責がどこに降りかかってくるかといえば、『犯罪不安社会 でも芹沢一也氏が書かれていたように宮崎事件をきっかけにオタクに降りかかってくることがしばしばと。
 私自身がオタクなんでそこは承服できないとそれが動機といえば動機です。どうしてこんな理不尽なことが罷り通っているのかと疑問に思いながら過ごしてきたのですが、さすがに我慢の限界を超えたのが、大谷昭宏と名乗るジャーナリストの存在なんですね。彼奴は、奈良で起こった女児誘拐殺人事件についてこの女児を人形のように捨てている犯行状況から推測するに犯人は彼の造語であるところの「フィギュア萌え族」だとのたまったのです。
 さらに大阪日本橋のロケなどを通じて、この中に犯人がいるというような心象形成を公の電波をつかって繰り広げました。ところがいざ犯人が捕まってみると「フィギュア萌え族」はおろか「オタク」ですらなかったんです。それは「創」に小林被告の手記として書かれていますので確認できます。結果、当然なこととしてオタクからメールその他で批判を浴びたのですが、彼奴はそれに対して悪びれるどころか「被害者遺族の気持ちを考えろ」というような理屈で開き直りをしてみせたんです。仮にも森永グリコ事件などを手がけ、犯罪報道を生業とする記者のはしくれでありながら、犯人が捕まる前に誤った心象形成を作り上げることがどれだけ犯人逮捕を難しくするかといったことも含めて素敵過ぎると思った次第です。

 ソースは、大谷のものしたやつですが、『趣味と犯罪の境界 社会が決めるべき― 「フィギュアマニア」に改めて思う ―』(http://homepage2.nifty.com/otani-office/nikkan/n050104.html 既に当該ページは消えたので私がコピペしておいたものを引用します)
 
―この欄でも私は事件について再々、怨恨などではなく、異常な少女性愛者による犯行ではないかと書いて、近ごろ特に目につくいわゆるフィギュアマニアや萌え族と言われる一部の人たちの嗜好に対して疑問を呈してきた。
逮捕された小林容疑者もやはり携帯電話には、幼女の裸体の写真や動画が数十枚も入っていたと言われるし、その類のビデオも多数押収されている。ほら、言った通りだ、と言いたいのではない。
ただ、私が事件直後からそうした性愛を容認するどころか助長するような社会に歯止めをかけるべきだとコメントしてきたところ、その手の嗜好を持つ方たちから事務所あてに抗議の電話やメールが殺到。加えて配達証明つきの公開質問状まで送りつけられてきた。この点についてはっきりさせておきたい。

 もとより私は人の趣味は自由だと思っている。だが、公開質問状での「その類の嗜好についてきちんと取材したのか」という指摘を待つまでもなく、実際に大阪の日本橋など、マニアが集う場所も取材してみたし、インターネット上でのやり取りも見せてもらった。そこにあったのはここで書くのもはばかれるような幼女や少女を性的に弄ぶというよりは、加虐的、嗜虐的な傾向の強いものだった。

 そうした趣味の人たちから寄せられる抗議の大半は、それらの趣味の中にも種々あって、それぞれ傾向が違う。なのになんでもかんでも一緒にするな、というのがまず一つ。もう一つは、あくまでバーチャルな世界のことであって、そのことと犯罪は結びつかないというものである。

 だけど世の中にはさまざまな人がいる。みんながみんな、きちんと境界を設けられるものではない。そうである以上、なんらかの歯止めをかけることが必要なのではないか。もし、欧米であのような劇画や動画を流したとしたら、厳しい懲役が待っている。

 今回の事件で被害にあった女児は一体、自分に対して何が目的で、あのような目にあわされたのか、まったくわからないまま亡くなって行ったのではなかろうか。社会がそんな被害を未然に防ぐために努力するのは、いわば当然のことではないのか。

 それでも彼らは人の趣味趣向に言いがかりをつけるなと言い張るのだろうか。警告を発する者には一方的に質問状を送りつけるのだろうか。

 利己と、自己しか彼らの目には映らないようになっているとしか私には思えない。―

 大谷をもって一事が万事というか、マスコミでは何か猟奇的犯罪が起きるとオタクに責をもっていき、はずれてもしらんぷりということが多すぎる。よくよく考えてみるとこれらをもってマスコミこそが「リセット症候群」、「記憶障害」なのではないかと。そしてこのようないい加減なことが許されるのは誰もマスコミ言説自体を検証しないからではないかと。ならば誰かがマスコミの言説を蓄積・批判をしていくしかないかと思いつつ、自分では面倒だし、アニメや漫画に耽溺していればそれはそれで幸せだしと…中々一歩踏み出せないでいたときに、そのようなことをしてくれている奇特な方はいないかと検索していたら後藤さんのページに辿り着いたんです。
 後藤さんの言説というのは時系列的に一人の人間を追っていき、いつどこでどのような発言をしたかという検証をしていき、単なる一回の文章からなる印象論ではなく、そのような言説を吐き散らかしている人間の本性というべきものをものの見事に晒しきると。このスタイルというのは使えるなと、自分でも似たようなことはできるかもと思えたのが2004年末ぐらいです。他の誰でもなく私と同じような疑問をもった人間がネットで検索なりなんなりしたときに正解というか光に辿り着ける一助となれればいいなと。

安原 
 なるほど。ネットというインフラが整ったからこそ、後藤さんがやっている「情報集積型」の検証スタイルが可能になったと。
 あと、大谷さんの件ですが、犯罪事情を調べてた私から見てると、オタクって、一応モノをたくさん買ったり、集めたりするお金はあるわけですよね(短絡的?笑)。食べるものも削って買っている人もなかにはいるかもしれませんが、一応、生活に余裕がないとそんなことできませんよね。
 それにコミケとか行きましたが、何より楽しそうだし(笑)。いい場所じゃないですか。だいたい集まってる人みるとそんな若くないですよね。いわゆる「少年」ってかんじの人はほとんどいなくて、いい大人なわけでしょう。ほっといてあげればいいのに。チラシ配りもやりましたが、「みなさん、徹夜しないで帰りましょう!」とか夜遅くなると放送はいるし、いたってまともに運営され、スタッフさん少ないわりには、つつがなく整然とやっていらっしゃって、すごいな、と感心しました。あの人数なのにセキュリティスタッフほぼいないし。

後藤
 あはは、オタクに関してはほんとうに不当なレッテル貼りだと思いますよ(笑) 
 仰るとおり、今までは不特定多数に届けるには、ガリ版をいっぱい刷ったり、それこそ同人誌を作るなりといった人手もお金もとてもかかったんです。今ならば総てネット上に無料・有料含めてツールが用意されているんで出来るようになったと言えるでしょうね。

遊鬱 
 いわゆるアーカイブなんだと思います。新聞、雑誌なんて一号過ぎるともう図書館やら行かないと目を通せないので、物理的に敷居が高くなるんです。しかし、ネットに一度誰かがあげておけば、そういうものがあったよなとググれば引っかかると。

後藤 
 私はそのような問題意識をもって検索してきた人にコメント欄なりメールで「ありがとうございました」、「ある種の確信(笑)をもてました」と言っていただけると、それをやりがいにしようとなると本末転倒ですが、純粋にうれしいです。

 私は自分のところを「武器庫」として使ってもらえればと思っていますので。

安原
 「武器庫」はうまい言い方ですね。それはよくわかります。

後藤
 そうです。でも、ただ批判のための批判ではないです。
 まず、日本の若者(総体)は、そんな世間がびびるほど犯罪を犯していない、まずはそこをマスコミは正しく認識するのが筋ではないかということです。

 昨今の「格差社会」という名で覆い隠されている貧困の問題にしても、「ワーキングプア」という言葉があるように明らかに搾取されているのは若者です。こんな状況に貶められていて、しかもいい加減な俗流若者論が横行して…それでも日本の若者は犯罪を犯していない、誉めるべきだと思いません(苦笑)?

安原 
 正直いって、「若者」よく暴れないなと思います。ほんとにモラル高いんじゃないですか?
 
犯罪不安社会を編集してて思いましたが、「犯罪減ってるから安心せよ」、ってことだけを浜井先生は言いたいんじゃないと思ってます。増えても減ってもその数字の裏にどういう経緯があるのか、背景があるのか、それを見せることで、不安にはならないじゃないですか。

 ことさら「日本人が暴力的になったー」とか意味不明な「本質論」にいって不安になるのは短絡的だな、変だなって考えて欲しいのではないかと思います。前、エントリーで『アメリカは恐怖に踊る 』を紹介しましたが、数とすれば、ぜんぜん米国は多いですよ。でもきちんと経緯や背景を分析していれば、怖くはないですもん。

 私は「思考停止」で言葉をあんまり使いたくないんです。なぜかって「それは思考停止である」「君たち思考停止するな」って説明から逃げられるからなんですよ。「どんな思考停止なのか」の「どんな」のほうが重要だなと思うのです。

 

 後半に続く ~(ノ´▽`)ノ ⌒(呪) http://ameblo.jp/hiromiyasuhara/entry-10034940255.html