注目判決の日の小さな事件 | 女子リベ  安原宏美--編集者のブログ

注目判決の日の小さな事件

 まだ帰省中です。
 
 小林被告死刑判決。
 
 本日の山陽新聞の記事です(朝刊なので死刑判決はまだ出ていない段階です)。


 「被害者重視で厳罰化 死刑囚 20年前の4倍」



 最高裁で今年特別抗告を棄却されて死刑が確定したオウム真理教松本智津夫死刑囚(52)のほか死刑事件の被告4人の上告を棄却する判決が続いた。すべて確定すれば、拘置中の死刑囚は20年前の約4倍の93人となる。
 犯罪被害者の心情などを重視した厳罰化傾向を反映した形だ。
 司法、検察両統計年報などによると、年間の死刑確定者は1986年から2003年まで、11人だった88年を除き、ゼロから8人(86年-03人平均4.8)で推移したが、04年に一挙に14人となり、昨年11人、今年も21日現在12人。
 一方、86年以降の死刑執行は法相が拒否するなどした90年ー92年がゼロで、この3年と今年以外は1-7人。地下鉄サリン事件が起きた95年などは執行が確定を上回ったがほとんどは確定の方が多く、86年に24人だった拘置中の死刑囚は21日現在、89人に増えた。略)
 こうした傾向についてベテランの刑事裁判官は
 「厳罰を求める被害者の声を重く受け止める裁判官は多くなった。ただ殺人被害者1人で死刑はまだ少ない」とし、中堅裁判官は量刑について「刑が軽いという声が裁判所内で10年続けば判決は重くなっていく」と説明する。
 また検察幹部は「被害者感情に加え、犯罪に対する国民一般の見方も厳しくなった」とみる。


 そもそも疑問がある。死刑に限らずであるが、
 「日本は刑が軽い」という物言いはよくきく。
 果たしてそうなのだろうか。
 アメリカのような実際の犯罪実態がなく、治安が良好であるという現状を考えれば、治安と量刑の関連性はないのだろか。


 さて、今日エントリーに書きたいのは、小林の事件ではなく同じ面にあった小さな扱いの記事だ。小林の事件はさまざまところで語られているだろうから、小さなこの事件はきっと忘れられる。しかしこの事件は非常に興味深いことを示唆していると思う。


 「下関駅放火 地裁初公判」

 今年1月山口県下関駅の駅舎などを焼失させたとして、放火の罪に問われた住所不定、無職A(74歳)の初公判が25日、山口地裁であり弁護側は事実関係を認めたうえで「駅を焼損しようと企てたという故意については否認する」と述べた。
 A被告は裁判長から認否を問われたが、答えなかった。
 検察側は冒頭陳述で
 「金もなく、駅舎を燃やして長期間服役しようとした」と動機を指摘。
 弁護側は
 「被告はこれまで10件で放火の罪に問われ、うち6件の判決で心身こう弱と判断された」と
 責任能力に問題があると主張した。
 弁護側は精神鑑定を求めている。
 起訴状によると、A被告は1月7日午前1時50分ごろ、駅倉庫脇のダンボール箱に放火。


 過去10件中6件は「罪」を免れ、4件は「罪」となった。

 住所不定の高齢の無職、いわゆるホームレスの男だとすると、心身こう弱どころか検察側がいってるのがあってるのはないかと私は思う。非常に理屈が通っている。

 福祉の受け皿からはずれた人が生活できるのは「精神病院」と「刑務所」だろう。なんもかんも放り込んできた精神病院を「できそこないの刑務所」と今の「論座」で看破しているのは芹沢一也さんであり、作業人員を調達するのにも大変なほど、軽微な犯罪を犯した高齢者や外国人や精神障害者で刑務所があふれかえっている過剰収容の実態を早くから論証し、指摘したのは浜井浩一さんである。
 福祉の手からもれた高齢の人間が「凶悪犯罪」といわれる、殺人、強盗、放火、強姦のなかで、被害者を出さずに「凶悪犯」となれて、「長期」の休める場所を勝ち取るには「放火」が一番簡単にできる「凶悪犯」への道なのかもしれない。

 さらに、この事件についてはネット上のニュースを散見すると、さまざまな疑念が残る。
 もちろん疑念である。


 この事件の1週間ほど前、以下のような計画が自治体から発表されている。

 “駅周辺整備及び開発ビル計画を策定するために、平成16年12月28日に鉄道事業者で土地所有者であるJR西日本広島支社、民間機関としての山口銀行、公共としての下関市と役割を定め実現性のあるプランを策定することを合意し、「下関駅舎改築プラン作成協議会」を発足しました。”

 この計画については、前年の市長選で現職支持をしたJRの根拠ともなっている。

 つまり、ものすごく穿った見方をすれば、改築したい側は万々歳の「偶然」の放火事件である。


 ちょっと話がずれるが、香港のスラムクリアランスのときなどは住民立ち退きがてこずると下水決壊やらひどい汚水漏れなどが必ず起きるらしい。九龍城壁の立ち退きの際もまあ見事に汚水まみれになったらしい。ちなみにに九龍城は、「麻薬、売春など悪の巣窟」などといわれたいたが、明け渡されてみれば、老人ホームはあるわ、幼稚園はあるわ、違法の食材工場などはたくさんあったらしいが、治安維持は割合きちんとされていた。香港警察の「治安が回復しないのは九龍があるせい」という言い訳としての役回りや汚職隠しの目くらましの役割が大きかったと聞く。 
 まあまさか日本でね、と思いたいが・・。

 たったひとりの高齢者が、弁護側がいうような「心身こう弱」であったなら、その放火で3800平方メートルも大焼するのかっていうのがまず不思議なのである。

 さらに下関駅は以前は24時間構内が開かれていたが、「不審者対策」と「ホームレス排除」で深夜は無人駅となっていた。セキリュティを大上段に掲げて、かえってセキュリティがさがっていたのではないか。

 さらに、これだけの情報しかないから、憶測の域を出ないが、午前1時ということは、終電が終わった時間だろう。もしかしたら、これは被害者を出さないための「犯行」の「配慮」かもしれない。


 この被疑者が弁護側がいうように39条が適用されてしまったらどうだろう?
 医療観察法適用もいけそうな事件である。もし適用されてしまったら「事実」はまったくわからない。例えば被害者が出ていた場合、被害者が一番望んでいる「事実」はどこにいくのだろうか?
 
 裁判は「被疑者の反省の弁」を聞く場所ではない。「事実認定」をする場所である。
 39条と医療観察法は現実を隠す、隠蔽する、逃げる法律にしか見えない。そんな法律の裏側に「福祉をもれた人間なのか」「なにか組織的な巨悪があるのではないか」「セキュリティ対策がまちがっているのではないか」という疑問は永遠に問われることはないのではないか。


 「10回も放火してるんだよ、異常だよね。頭おかしいんだよね。最近変な人多いよね。」


 そういわれるんだろう。そんな言葉が支配的であるんだろうな、とは思います。
 でも、そろそろホラーハウスから出ないと、いけないんじゃないだろうか。幻想のお化けが本物になっていくような気がする。


 実家にいるので、父に聞いてみた。

 私 「防犯ボランティアでスクールガードとかやってへんのー?」

 父 「なんかユニフォームもらったでー。仕事してるときに着てくださいって。見せてやろうか」

 私 「見せて見せてー・・・うわっ着てるの?」

 父 「夏暑いし、冬寒いから服として意味がない」

 私 「ぺらっぺらやけど。派手やなー」

 父 「おもろいのがな、昔は通学路は車にひかれたらいかんからって、住宅街やら田んぼのなかの車が通られへん細い道を通るように言われてたんやで。それが、今は公団とか市営住宅とかが廃墟化してたりするやんか、車の通らへん商店街とかな。シャッター商店街やから、まあうらさびしいわけや。そしたら、車びゅんびゅん通る幹線道路にせーやゆうねんな。車は減ってへんやろって、変やと思うんねんけど。どこ通れいうねんなー

 父 「でな、犬の散歩で公園いくと、今はだいたい親つきで遊んでるから、まず、ギリッとにらまれるで。わしみたいなおっさんが公園入っていったら。ほんまに気分悪いでー。犬の散歩のときだけ着ようかなあと思ったけど。ひろみが小さいころなんかどこで遊んでるか知らんかったけどなー」

 私 「似合うーーーーーーーー??笑」

 父 「わっだせ!やっぱ着るのやめよ」

 私 「あんた、おしゃれやったらいいんかな 笑」

 ↓

 というわけで着てみました。

緑