おじさんの見分け方 | 女子リベ  安原宏美--編集者のブログ

おじさんの見分け方

 会社で仕事をしているときに、頭がおじさんになってる人を見分けるよい質問があった。

 「◎◎さん、日産のセレナのCM好き?」

 おじさん化してる人はこういう。

 「あれ、いいよなー。・・・・『モノより思い出』。ほんと子どもに夢を与えてあげる時間なんて数年間で少ないんだよなー。泣けるよなー。子ども遊びに連れていこうって思うよー。日本もまだまだいいところあるんだなあって。」

 「ははは、◎◎さんいい人ですねー(半分本心だが、心の声。仕事上は要注意、もしくはちょろい)。」

 「姑息だよね、ただ受けるのはわかるよ。」という人のほうが仕事上は気が合った(黒いなーかわいくないなー私も)。

 セレナのCMのキャッチコピーをちょっと年代順に遡ってみる。

 

1994 しあわせまだかい

1997 マルチボックス セレナ 新発売。

1997 これがスポーツボックスだ

1998 ぼくらはセレナを待っていた


 このあたりまでは、まだあんまり何も考えてない。安っぽい中古自動車屋さんのチラシにでも書かれてそうなださい文句だ。CMにも大して金をかけてない。

 

 ガラッと変わるのが99年である。撮影にホンマタカシ(写真家)さん 演出を是枝裕和(映画監督)さんが起用される。ちなみに偶然でしょうが少年犯罪「報道」ブームの大渦中である。キャッチコピーも変わる。そう、合言葉は「子ども」なのです。子どものために思い出残してやらにゃーいかんみたいですよ、親は。セレナの競争相手は『子どもと一緒にどこ行こう!』のホンダ『ステップワゴン』です。

1999年

『私たちは子供に何が残せるだろう。モノより思い出 始めよう、新セレナで。』

 子どもへの介入スタート。

2000年

『モノより思い出 新セレナで走り出そう。』

 ふむ。思い出のほうがが大事になる。「子ども」の言葉いったんなくなる。たしかACC賞この年にもらったはず。社内でもかなりおじさんを中心に受けてました。「そうだよ、エクスペリエンスなんだ!ライフスタイルなんだ!」とかいってましたね(日本語使おう。)。偶然でしょうが少年法改正の年です。

2002年

『子供たちは、何を感じて帰るだろう? モノより思い出。 新しいセレナ、始まる』 

 あら。子どもたちがわからなくなったらしい。

2003年 

『モノより思い出。』
そして子どもが消える。思い出マル!日本語変。まあそれはいいが、キッパリ言い切ります。いいのかー思い出でー。きっとこのあたりで日本人は「思い出」にすがってる生き物になっているような。「昔のほうがよかったー」。

 偶然でしょうが、東京の「生活安全条例」ができたのはこの年(前田さんと小宮さんが立役者です)。有識者会議の議事録などでは「地域共同体復活」を高らかに唱えていらっしゃいます。この年から生活安全条例と防犯ボランティアの組織化がいっきに全国にひろがってます。偶然でしょうか?

 ちなみに、セレナのこのときのCMのロケ地がすべて沖縄です。世の中はリストラの猛威が吹き荒れていたときです。癒されるなあってかんじなんでしょうね。おじさん魂はここでぐぐっと心をつかまれたわけです。『村』好き、『島』好きになる日本人である。


 ●尻もちボッチャン篇 沖縄県 東村(ひがしそん)の大根畑

 沖縄県 恩納村安富祖(おんなそん・あふそ)の田んぼ

 沖縄県 名護市(なごし)の源河川(げかがわ)

 沖縄県 読谷村(よみたんそん)ビーチ

 ●泥んこビショビショ篇 沖縄県 恩納村(おんなそん) 安富祖(あふそ)県民の森

 沖縄県 東村(ひがしそん)の大根畑

 沖縄県 読谷村(よみたんそん)ビーチ

 ●草そり篇 沖縄県 恩納村(おんなそん) 安富祖(あふそ)県民の森

 ●大根洗い篇 沖縄県 東村(ひがしそん)の大根畑

 ●川のブランコ篇 沖縄県 名護市(なごし)の源河川(げんかがわ)

 

 2005年にコピーはこうなる。

 「あなたなら、だれ、誘う? Big 3列. Fun 8人.」

 リストラも一段落したようだし。遊びにいける人が残ったいうことですかね(しかし、意味わからん系コピーだな)。ちなみにこの年からロケ地も日本ではなく海外(アメリカ)になっております。


 今新聞とか知識人の話とか見てても、なーんだかあまりに多くの人が、「地域共同体復活」とかいってます。例としてものすごくわかりやすい記事です。民俗学っぽいかほりもします。


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【現象へ】子供を狙った犯罪 赤塚行雄氏に聞く 希薄な近隣“守る目”弱体

2006年1月18日(水) 産経新聞


 子供が狙われている。昨年十一月から十二月にかけ、広島市や栃木県の女児が相次いで下校中に殺害され、栃木県の事件では犯人はつかまっていない。昔から子供が被害者となる事件はあった。しかし、なぜこんなに頻発するのか。社会評論家の赤塚行雄氏は、近隣関係が崩壊し、地域で子供の安全を守るかつてのシステムが失われているからだと指摘する。(聞き手・堀晃和)

 --なぜ、このように子供が狙われる時代になっているのでしょうか

 「戦前、私が小学生のころ、赤マント事件というのがありました。本当にあったわけではなく、通学の際、学校の手前の松林の辺りで猛烈に足が早い赤マントの怪人が現れて、追いかけてくるといううわさです。みんな怖がって足が進まない。そんなとき、近くのたばこ屋のおばちゃんが『大丈夫、大丈夫』と言って松林を通り抜ける際に付き添ってくれました。

 そういううわさは日本のいたるところであったのではないでしょうか。それらは、実は子供たちに注意を喚起する現象だったのではないかと思うのです。今の時代はそういううわさを聞きません。つまり、この辺りは危ないというような警戒心が醸成しにくくなっているのではないでしょうか」

 --「人通りのない寂しい道では注意しなさい」という警鐘の役目を、うわさが果たしていた、と

 「自然発生的な警報のようなものだったと思うのです。そして、子供たちの不安を近所の人がとりのぞいてくれたのです。昔はどこでも、地域で子供たちの安全を守っていたのです」

 --昔より地域の安全システムは弱まっているのですね

 「近隣関係の崩壊が原因です。今では道ですれ違ってもあいさつもしない。そういう地域が地方でも増えています。しかし、昔は地域に世話好きのおばさんやご隠居さんがいて、声をかけたり面倒をみてくれた。人口の過密化が人心の過疎化を生んでいるのです。人が増えれば、知らぬ顔をしていても許されますよね。子供を守る地域の目が弱体化してきているのです。

 近隣関係の希薄化に加え、テレビやインターネットなど情報化が進む中で、先のようなうわさが以前ほど生まれにくくなり、力をもたなくなってきたのではないでしょうか。また、幼女を対象とした映像や本がかつてないほど氾濫(はんらん)しています。一般論ですが、それらを見たり読んだりして刺激された一部の人が、虚構の中で(小児性愛などの行為が)許されていることを見て、虚構と現実との境界線がぼやけてしまっているのでしょう」

 --子供を狙う犯罪者の実数も増えているということですか

 「地域社会の安全システムの弱体化が、妄想を実現したいと願う者を増やしているのでは。近隣関係の強固な以前なら、歯止めが利き、実際に行動に移すことはなかったと思うのです」

 〈平成十八年度予算の財務省原案では、下校途中の児童を狙った凶悪事件が相次いだことを受け、「子供の安全」対策として、文部科学省と警察庁を合わせて約三十億円が計上された。通学路の巡回などを行う「スクールガード」を指導する警察官OBの増員、携帯電話を使った不審者情報システムの調査研究なども進めるという〉

 --国は子供の安全を守るために大幅に予算を増やそうとしています

 「安全対策は必要ですが、社会全体の成り立ちを変えないと、新しいビジネスを作るだけで終わってしまう。子供の安全を守るために警備会社がもうかるような時代はやはり不自然です。地域の結束が強くなるように、社会の再構成をやりなおさなければいけない時期にきているのではないでしょうか」

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 統計的な上の質問は全部思い込みなんですが、「地方共同体の崩壊」の虜である。

 だいたい昔の濃いコミュニティのほうが犯罪めちゃめちゃ多いでしょうが。


 シャッター商店街にやけに感情移入している人もいる。店閉めてジャスコとかイオンに遊びにいってるんだから滅びるの当然だろう。表参道ヒルズも同潤会アパートの外観を安藤忠雄は「残す」ことにこだわったらしい。あんなものが歴史なのだろうか。ただの汚いアパートだろう。

 よくわからないが、人間って「共同体」があるから楽しく生きていけるわけじゃないと思う。逆にその共同体によって苦しんでいたりしてませんでしたっけ?その共同体がもってるいわれのない差別や排他性に。そしてそれがうざかったんじゃない?

 人間関係の濃そうな共同体に過度の夢を抱いたり、『プロジェクトX』みて「日本はやはり、ものづくりなんじゃー」とかなってたり、ほんとうにとっとと夢から冷めたほうがよいと思う。もう懐かしむのはやめたほうがいい。良い時代だった裏のことを全部忘却しています。

 犯罪分野については、今や警察の合言葉が全国津々浦々「地域共同体復活」だ。だから、もうざっくりした「共同体論」って燃料投下にしかならないって。ゆるいことはいわないほうがいいと思う。壊れるものは壊れてよい。

 私が何が嫌いって、今この日本に蔓延しているミョーチキリンな昔はよかった『ノスタルジー』である。なんか「ノスタルジックナショナリズム」ってかんじがします。今われわれ。


 いつも思うが、人を生かすのは「共同体」ではない。だいたい、「共同体」とかいってる知識人たちが、何かの「共同体」に入りたいと自分で思っていってるんだろうか。私はさらさら思っていないと思う。別にマンションの隣の人の名前がわかんなくて、「寂しい」なんて本気で思ってるんだろうか。私も知らないけど別になんとも思いませんが。

 それに明らかに昔よりは手軽に共同体的なものにアクセスはしやすくなってる、何の不満があるのかよくわからない。

 私は自分のことをひとりでも大事に思ってくれる人がいれば、生きていけると思う。でも、そのたったひとりの人がいてもいなくても、それにどうあがこうが誰かといっしょに集団自殺して死ぬわけではない、ひとりで死ぬのだ。「個」の単位での幸せを考えたほうがいいと思う。


 子どものころから「友達100人できるかな」という歌が嫌いであった。

 だいたいそんなにできないし、そんなにいてもしょうがないし、メンテナンスできません。


 注)このエントリーはエッセイです。多分に私の思い込みである可能性があります(笑)。