横須賀学院


私は2012年10月に余命半年宣告をされてしまいました。ある日、突然襲ってきた胸の痛みを不思議に感じ、病院で診察を受けたところ、余命半年を突如宣告されました。なんと、2キロもの巨大な肝臓がんにおかされていることがわかりました。余命半年どころか、肝臓が今にも水風船のように破裂寸前で、いったん破裂すれば大量出血して即死になりかねないほど緊迫した状況でした!

この大きさならきっと他の臓器にも転移しているだろう、なすすべはもうありません。死を待つばかりの状態です。どのように広がっているのか、CTを撮ってその日は家に帰りました。

いともこうあっさりと、19歳で普通の大学生から余命半年のがん患者になってしまいました。

自分はいつ死ぬかもわからない状態。

もしかしたら、明日にでもこの肝臓が破裂して命が終わる、長くてももって半年しかないこの命。

あのときの私の気持ち、確かに3時間ほど落ち込みましたが、「もう決まっちゃったことはしかたがない!」と割り切り。周りがどん底の中、一人だけ「これからやりたい事リスト」を作っていました。人生は残りわずかとなってしまいましたが、でも今すぐ終わるわけじゃありません!私はまだ半年もあります!ってひたすら前向きに考えていました。1:25.


あのときの自分は、わけもわからずとにかく「自分は大丈夫だ」という根拠のない自信を持っていました。そうやって、自分の精神状態を保つことができたのだと思います。


わたしはガン宣告を受けてからこの一年半以上生きてきて、人生の中において無駄なことはひとつもないと思います。2:00


どんなささいな出来事にも意味があると思います。


そのできごとの瞬間において、「これは将来こうやって役に立つのだ!」って思うことはなかなかありませんし、その出来事はもしかしたら人生の中で起こった嫌なことだとそのときは思うのかもしれません。

けど、どんな出来事にも意味はあります。人生勉強になります。それを嫌な出来事だ、消し去ってしまいたい!とだけ願うのか、それとも、もうすでに起こってしまった出来事だから、せめてこの出来事の中から何か吸収できないのか、何かこれからに生かすことはないのかっと前向きに受け取るのかで、その出来事の意味は違ってきます。

しかし、私たちは往々として、嫌な出来事を「いいことだ!」って前向きに捉えることができません。私も前向きに受けとろうと心がけながらも、できないことが多々あります。

それはそれでもいいんじゃないのかな。3:00


私も皆さんと同じ中学生だったころは、たくさんのことで悩んでいました。小さいことから自分とはまったく関係のない大きなことまで、何をそんなに悩むことがあるのっていうくらいに、悩んでいました。

家族とうまくいっていない時期だってありました。親にひたすら反抗したい時期、周りの皆が敵に見えてしまう時期、原因はわからないのに友達とうまく行かない時期、将来についてすごく不安になる時期、何もやる気が出ない時期・・・中学3年間は人生のなかでも気分が変わりやすい、不安定な時期だと思います。


ほんとうにめまぐるしい時期ですが、けど、ひとつだけいえる確実なことはあります。

それは、どんな出来事であれ、必ず何か意味があるということ。人生の中で無駄なことはひとつもないということ。

それはもしかしたら、まったく関係がないように思う二つの出来事が実はこんところでつながっていたんだ!というようなことを21歳ながらもたくさん経験してきました。4:00


私自身が体験した事を少しお話します。

私は高校三年間理系だったにもかかわらず、大学受験では文系を希望し、浪人までしましたが結局願いかなわず、第一志望には合格できませんでした。今思えば、本当に精神的にも、肉体的にもつらかった浪人の一年間でした。その浪人の一年間はなくても、現役時代に合格していた大学と浪人してまで得た今の大学とはあまり差がなく、意味はなかったんじゃないかな?現役時代に受かっていた大学でよかったのにって思うときがありました。しかし、もし浪人して今の大学、立命館に行っていなかったら、私の命を救った親切な町医者に出会うこともなかったのだろう。もし、最初に胸に痛みを感じたあの日に大学付近の親切なお医者さんに出会っていなければ、親切にもレントゲンやエコーまで撮ってくれていなければ、私はもしかしたら今ここにいなかったのかもしれません。とっくに肝臓が破裂して大量出血でなくなっていたのかもしれません。実際胸の痛みはその1日だけでした、その後はまったく痛みを感じなくなったのです。そのまま気づかずに帰っていれば、本当に怖いことが起こっていたのかもしれません。自分の第一志望の大学ではありませんでしたが立命館大学で、その大学じゃなかったのなら、ここにはいなかったのかもしれません。5:00 


まったく関係がないように思えた出来事が、私の命を救う出来事につながっていたのです。


もうひとつ例を挙げます。高校も3年間理系でしたが、それも大学とはまったく関係のない分野ですね。意味はない3年間に思いがちですか、最初から文型であればもっと有意義に思えたかもしれませんが、ううん、そこにも意味はありました。理系は3年間クラス替えがありません。3年間みんな同じクラスだったからこそ、もはや家族みたいな絆があると私は勝手に感じています。そして、理系のお友達の多くは医学部だったり薬学部だったり看護学科だったりします。私の病気の情報提供源ですね。どれほど友達に助けてもらっているのかしれません。あの3年間は、病気にとってすごいメリットなだけじゃなく、私の人生の中において、意味のある、かけがえのない3年間です。同じクラスで出会った友達、未だに入院のたびにたくさん詰め掛けてきます。ナースには、いつもここはにぎやかだね~って言われちゃうほどです。どれほど心の支えになっていたのかしれません。

ここにも、今振り返ると意味はありました。

すべてはつながっていたのです。6:00



そして最初に見つかった、今にも破裂しそうなほど大きな肝臓がんは奇跡的にどこにも転移がなく、めでたく外科手術によって一命を取り留めましたが、やはりあれだけ大きな肝臓がん、転移しないはずがありませんでした。

それでも、私は「もう自分は大丈夫!これで余命宣告ともおさらば!」っと、喜びました。一度死が身近に迫ってきたからこそ、これからは悔いのないように、後悔のないように生きなくちゃ!っと心に決めて人生を楽しもうとしました。その矢先に肺に転移していることがわかりました。6:35


そのときに初めて、死という恐怖に襲われました。

前回肝臓がんの時には体験しなかったほどの恐怖と不安が私に襲ってきました。

やっと、理解したのかもしれません。心のそこから、自分の状況について受け入れたのかもしれません。

余命宣告のときよりも、この肺の転移のほうがショックだったように思いました。余命宣告はすぐに前向きに考えることができたのに、肺転移のときはなかなか立ちなおらなかったです。不安と恐怖の日々でした。

やっと、一歩ずつ自分の病気と死について、深く考えるようになり、そして受け入れていきました。

死について考えれば考えるほどに、私は生の大切さと、生きることへの執着心が沸いてきました。

死への恐怖が大きければ大きいほど、命というものの尊さがわかってきます。7:30


そして、肺に転移しているとわかってから、この一瞬の大切が、今生きていることの素晴らしさ、時間はいつどんなときに終わるのかわからないとい事を、真の意味において少しずつ理解していきました。


時間は限られています。

そう思ったときから、私は今まで不安や恐怖で落ち込んでいた時間がもったいないなって思うようになってきました。もちろん、「なぜ今まで変に不安や恐怖に怯えていて、大切な残りわずかかもしれない時間を無駄に過ごしたのだろう。」って思ったことはあります。けど、その時間があったからこそ、時間の大切さにきづけたのです。

もう過去のこと、過ぎ去ってしまったことをクヨクヨと悩んでいてもしかたがありません。

せめて、今からだけでも、精一杯生きようっと決めました。

起こらないかもしれない不確かなことで不安がり落ち込み、今のこの大切な一瞬を無駄にマイナスに過ごすよりも、意味のある時間を、この大切な一瞬を楽しく過ごしたいと思います。


丁度この時期に、個人的に感銘を受けていた詩があります。有名な詩なので、もしかしたらすでに知っている人もいるのかと思いますが、読み上げたいと思います。

『最後だとわかっていたなら』9:00


あなたが眠りにつくのを見るのが 最後だとわかっていたら

わたしは もっとちゃんとカバーをかけて

神様にその魂を守ってくださるように 祈っただろう


あなたがドアを出て行くのを見るのが 最後だとわかっていたら

わたしは あなたを抱きしめて キスをして

そしてまたもう一度呼び寄せて 抱きしめただろう


あなたが喜びに満ちた声をあげるのを聞くのが 最後だとわかっていたら

わたしは その一部始終をビデオにとって 毎日繰り返し見ただろう


あなたは言わなくても 分かってくれていたかもしれないけれど

最後だとわかっていたら 一言だけでもいい・・・「あなたを愛してる」と わたしは 伝えただろう


たしかにいつも明日はやってくる でももしそれがわたしの勘違いで

今日で全てが終わるのだとしたら わたしは 今日    どんなにあなたを愛しているか 伝えたい


そして わたしたちは 忘れないようにしたい


若い人にも 年老いた人にも

明日は誰にも約束されていないのだということを 愛する人を抱きしめられるのは

今日が最後になるかもしれないことを


明日が来るのを待っているなら 今日でもいいはず もし明日が来ないとしたら

あなたは今日を後悔するだろうから


微笑みや 抱擁や キスをするための  ほんのちょっとの時間を どうして惜しんだのかと

忙しさを理由に その人の最後の願いとなってしまったことを

どうして してあげられなかったのかと


だから 今日 あなたの大切な人たちを しっかりと抱きしめよう

そして その人を愛していること いつでも いつまでも 大切な存在だということを そっと伝えよう


「ごめんね」や「許してね」や 「ありがとう」や「気にしないで」を

伝える時を持とう そうすれば もし明日が来ないとしても あなたは今日を後悔しないだろうから11:20


この詩の通り、いつどんな時に最後になるのかわかりません。いつどんな時に最後の日になってもいいように、後悔のないようにすごさなきゃって思います。

皆さんは、今日の朝 家を出るときに、ちゃんと親と笑顔で「いってきます」って言いましたか?

最近周りの誰かと喧嘩別れみたいになっていたりしていませんか?

想像してみてください、もし、あなたが今日の朝、親と口げんかして家を飛び出していたら、そしてもしそれが最後の別れとなってしまったのなら・・・

もし、誰か周りの人と喧嘩して仲直りすることなく、それが最後の別れとなっていたのなら・・・

明日がくることは、誰にも約束されていません。

私は余命宣告されてから、ずっと決めて、実行していることがあります。

それは、たとえ誰かにすごくむかついて、喧嘩になったとしても、最後はどうにかしてその日のうちに仲直りするようにしています。

お母さんには、二度と口答えできないだろうな~って思います。

だってもし、それが最後の交わす言葉になっていたのなら、私はどれほど後悔することになるのでしょうか・・・


時間が無限にある人はいません。生きているということは、一歩ずつ死へと近づいているという事実に私たちは普段は気づかないものです。

私はもしかしたら、普通の人よりも残された日々は少ないのかもしれません。

肺にガンが転移して、本当に怖かったです。死と言うものが目の前にあるようで、すぐにでも最後の日が待っていそうで、すごく怖かったです。だからこそ、今のこの一瞬を大切にしたいと思いました。13:00


私はある意味、肺に転移したその時に初めて死というものを乗り越え、そして、今生きているということの大切さがわかったのかもしれません。


肺の手術も無事に成功しました。しかし、今回は前回とは違って、転移があるってわかった以上、抗がん剤治療をはじめなくてはなりませんでした。

肺の転移から今日まで、怒涛の1年間でした。

治療記録を先日整理しましたが、肺に転移したガンの手術以降にも、3度ほど手術をし、今日までに合計八回も入退院をしました。わずか1年半もの間に8回も入院していました。そして、明後日からまた東京で手術するために入院します。


わたしは、ひろこって落ち込むことあるの!としょっちゅう聞かれるほどいつでもポジティブ人間に見えるそうですが、そんなことはありません。誰だって落ち込むときがあります。私もたまに落ち込んだりします。

それは人間である以上仕方のないことです。そういう時はおもいっきり悩んだっていいと思います。本当に悲しみ、落ち込んだときは、どうがんばったってなかなか上向きに気持ちを切り替えられないものです。おもいっきり悲しみと向き合うことも大切です。とことん受け入れ、向き合ったからこそ、どん底まで落ち込めば、後は上向きにしかならないのです。重要なのは、そこで終わりにせずに、必ず立ち直ること。時間をかけてても良いので、ゆっくりで良いので徐々に前向きになっていくことです。立ち直ったときに落ち込んだときのことを振り返ると、もしかしたらその時期に普段はわからない本当の自分が見つかるのかもしれませんし、自分を成長させてくれる大切な要素があったのかもしれません。

どんなことにも意味はありますし、無駄なことはひとつもありません。15:00


試練をひとつ、またひとつと乗り越えるたびに、私は人として成長していると思います。

試練は確かに、つらく、しんどく・・・試練の壁が目の前に立ちはだかるたびに、今からこの高い壁を乗り越えるのか、私にできるのだろうか、しんどい思いして、結局乗り越えられないのならやっても意味はないな、壁を乗り越えずに、壁のこと 試練のことを無視して、今ある平地で現実逃避したほうがどれほど楽なのだろう。って思うこと、何度も何度もあります。ガンのことを完全に忘れて現実逃避していたほうが何倍もらくなのです。

しかし、現実逃避して、一時的に目の前のことを無視しても、それはいつかはやらなくてはいけないことです。

その時に、「ああ、嫌だな~やりたくないな~」って思いながらするのか、それとも

「よし、がんばって乗り越えるぞ~コレを乗り越えたら自分も新たに成長できるし、きっと良いことがたくさん待っている!」っと喜んで試練に立ち向かうのか。

試練を嫌なやつとしてではなく、いいことだと思って立ち向かうほうが、成功率も高まるし、試練にチャレンジしているときの気分だけでなく、その後にも影響してきます。

試練に対する受け取り方は自分しだい。

どのように受け止めるのかによって、過程も結果も違ってくると思います。たとえ、結果が思わしくなくても、結果が失敗に終わったとしても、その過程において後悔がないのなら、それは自分にとって成功したのだと思います。16:40


試練を乗り越える前から、心が挫ける時もあります。私も、初めのころは、試練が舞い込んでくるたびに、ガンの転移が見つかるたびに嘆いてました。「ああ、またか。」って落ち込んだりもしました。けど、ひとつひとつ試練を乗り越えるたびに、強くなっている自分がいます。また肺に、肝臓に転移が見つかりました!って言われるたびに、落ち込む時間が短くなっていっている気がします。ただ慣れただけなのかもしれませんが。


試練が待ち遠しい!いっぱい試練ください!って、思うことはまずありません!

私は正直、できるだけ試練にあいたくはないのです。「また転移が見つかりました、ガンが大きくなっていってます。」って、二度と聞きたくはないのです。

けど、現実は残酷です。どうしても向き合わないといけないのなら、気持ちを前向きに、悪いやつもいいやつとして受け取って、コレを乗り越えたら「今回の手術が最後だ」って思いながら、明るい未来を想像してひとつひとつ乗り越えて着ました。

もちろん「今回の手術が最後だ、今回の入院が最後だ」と思いながら乗り越えた試練も、いつもすぐにその希望は砕かれてしまいます。それでも、いいんです。それでも、私は試練を乗り越えるときは希望を持って迎えたいと思います。

壁をやっとの思いでよじ登ったかと思えば、いい景色が見れたのは一瞬で、またすぐに新しい、前の壁よりももっと大きく乗り越えずらい壁が待っている気分です。

この壁を登れば、もしかしたらまたさらにそれよりももっと大きい壁が待っているのかもしれません。しかし、それは現実にならないのかもしれない。本当は、その壁を乗り越えると、待っているのは奇跡のような素晴らしい景色なのかもしれない。

だったら、いいほうに考えましょう。

試練を、壁を、乗り越えた先に待っているのは、より大きな壁なのか、それとも素晴らしい景色かは、今の時点で誰にわかりましょうか。誰もわかりません。乗り越えてみないとわからないのです。


何度も繰り返すようですが、しかし、ひとつだけ言える事は、無駄なことはひとつもないということです。

ある聖書の箇所にも書いてあります

1:ローマの信徒への手紙/ 08章 28節

神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。


どんなささいな出来事にも意味はあります。



人生はいつ何が起こるのかわかりません。

しかし、ひとつひとつの出来事に意味はあります。

私は今、治療方針も方法もないっと医者に言われています。

いつまでの命か、正直わかりません。

明後日から入院して肝臓の手術をしますが、それでも肺にあるたくさんのガンは消えません。肺のがんを無くす方法はないといわれています。


幾度の手術や治療を乗り越え、そのたびに私は強く成長し、そしていろんなことを教わりました。

今振り返ってみると、無駄だと思ったたくさんのことがつながって見えます。

無駄だと思ったことが、本当は無駄ではなく大切な出来事なのだと。

またひとつ大きな試練が目の前に立ちはだかっていて、その壁の先には何があるのかもわかりませんが、それでも喜びをもってよじ登っていきたいと思います。


最後になりましたが、私は絶対に生き抜いて見せます。これからのことはどうなるのか、正直わかりませんが、それでも最後の一秒まであきらめるつもりはありませんし、生きるつもり満々です。例え医者に方法はないっと言われていても、私は何とかして方法を見つけたいと思います。どんなことがあっても、あきらめません。最後の一秒まで、この命が続く限り、がんばりたいと思います。

落ち込んだときは、自分は一人じゃないっということをおもいだして。今日も元気にへらへらと笑いながら生きたいと思います。ほんとうに、今まで支えてくれたたくさんの方々、ありがとうございます。

今日こうして、ここでお話できたことに感謝します。

長々とご清聴ありがとうございました。