不昧因果とは
原始仏教の高僧A・スマナサーラ師が著書の中で説いていた言葉なんですが、とても共感しました。
「世の不幸は執着から発する。」とのこと。
それは、金銭への執着のみならず、「成功」そのものや「やりたい仕事」さらには「目標」への執着も含みます。
これは、昨今話題となっている大型手帳やワタミ社長である渡邊美樹さんが推奨している「目標管理」などの重要性とは矛盾したものです。
スマナサーラ師は、さらに続けます。「やりたいこととは、つまりできないこと。一流のアーティストなんかには皆が皆なることはできない。だからこそ、彼らはアーティストに憧憬を抱く。世の中にとって最も幸せなことは、各人が"自分の能力で十分にできること"を責任をもって為すことにある」と説いています。
これは「夢を見ること」への否定でしょうか。
私は違うと考えました。
それを考えるために、翻って禅宗の教えを見てみましょう。
禅宗「無門関」の中にある、野弧禅という話--
簡単に言うと、修行を行い解脱すれば死をも超越できると考えた僧侶の話です。
その僧侶は、結局、野狐と化して死ねなくなってしまいました。しかし、彼はある一言で元の人間に戻ります。
それが「不落因果ではない、不昧因果なのだ」という言葉です。
つまり、スマナサーラ師のいう「執着」とは「不落因果」のことではないでしょうか。
この世の中は、因果という法則があります。
世の中には、避けることのできない、一連の道理・過程があるのです。
優れた結果を得たければ、それなりのプロセスを踏まなければいけない。
「不落因果」とは、この因果を無視することを言う訳です。
「死をも超越できる」と考えるのは、世の道理を無視することであり、つまり「因果の法則に落ちない」と考えることです。
様々なところで何度も引き合いに出されていて申し訳ないですが、あえて言うと、一昨年・昨年と話題になった堀江貴文氏はこの「不落因果」に陥ったのではないでしょうか。
「ネット、メディア、金融のドンになる」という発言がありましたが、結局それに至る経緯・道理・必然性が明らかでなかったように思います。
不落因果は、偽りであり、騙すことであるといいます。奇しくも、その通りになってしまいました。
対して、「不昧因果」の精髄は、できること、やるべきこと、道筋をつけて歩むことである。
夢、目標があっても、それを一里塚として着実に歩むことは「不昧因果」を実践することになるのではないでしょうか。