8:比島旅行・ミンドロ島・脱出に失敗した海軍敗残兵からの続きです。

バンコク在住の友人であるK氏と共に、K氏の父君が旧日本海軍の兵士として駐留されたフィリピンの戦跡地を巡った時の感想的備忘録記を書いています。

前回の粗筋
1944年12月15日 06時10分、 サンホセ駐屯の日本陸軍第1中隊本部&第三小隊(51名)、陸軍航空気象班(6名)、在留邦人(4名)のグループと、カミナウイット駐屯の海軍第955部(60名)と第1中隊第三小隊橋本分隊(10名)のグループは、米軍の艦砲射撃を受けると、直ちに2ルートに分かれて退避。バコ山東端に連なる山並を歩いて南南東10㌔先のプララカオ・デュタイ(小高地)の集結地へと向かいます。



標高2,487mのバコ山国立公園 Mts.Iglit-Baco National Park  (Google MapのHPより拝借)

1944年12月18日、 ブララカオ・デュタイ(小高地)の集結地に到着。其処には、デュタイ(小高地)ら10km離れたブララカオに駐屯していた陸軍第1中隊第1小隊(60名)が貴重な食料在庫を携えて先着していました。

1944年12月20日、ゲリラが跋扈するラバンガン上流を抜けて退避した石橋一郎少尉配下の海軍第955部隊(51名)の内48名が集結地に到着します。脱出時に、米軍水雷艇との銃撃戦で2名戦死、俘虜1名を出していました。 同行していた筈の陸軍第三小隊の橋本分隊10名の姿が見えません。2名がマラリア、8名が餓死によって全滅していました。

K氏の父君が所属する海軍第955部隊の48名はデュタイ(小高地)から南方10㌔のブララカオ海岸で機帆船を奪取してルソン島への脱出を企図しますが、ゲリラに発見されて銃撃戦となり、指揮官の石崎少尉以下10名が戦死。K氏の父君を含む生き残りの38名は、戦友の死体をブララカオ山麓の叢林に隠蔽したまま、命辛辛デュタイ(小高地)へと逃げ帰ります。


現在も昔と同じように海岸線にへばりつくように建つブララカオの魚村

翌日、陸軍第1中隊第3小隊(大岡昇平氏同行)は、ルソン島バタンガスから到着予定の山本少尉配下の斬り込み隊(120名)を迎えにプララカオに降りた折に、海軍第955部隊の戦死者10名をブララカオ山中に埋葬するのを手伝ったと書き残されています。当然ながら、K氏の父君を含む海軍955部隊の生き残りも同行していたに違いありません。

さて、
海軍第955部隊が脱出失敗騒動を起こしている頃、西ミンドロ州北部のパルアンに駐屯していた陸軍第1中隊第2小隊(渡辺勝少尉)からの無線通信連絡が途絶えます。米軍のパルアン掃討作戦は翌年の1月5日なので、渡辺小隊を全滅させたのは、米軍が支援する現地ゲリラということになります。陸軍第1中隊の3個小隊の中で全員戦死によって壊滅したのは渡辺小隊だけでした。



ミンドロ島西ミンドロ州北端のパルアン  (HP Trip aviser拝借)

大岡昇平氏の記述によれば、ブララカオ山中で何もすることなく屯していた日本陸海軍の多くは、マラリヤ蚊が棲息し難いと言われる標高500m以上のデユタイ(小高地)を本拠にして、北東の721高地と南西の517高地近辺に露営していたようです。(高地名を示す数字は標高m)


米軍上陸地点のサンホセ、露営地のデュタイ(小高地)、517高地、721高地の位置図
訂正:地図内の217高地は721高地のミスタイプ


しかし、多くの日本軍兵士の身体は、サンホセの平地に駐留していた頃から、既に悪性のマラリア原虫に冒されていたようです。マラリア特効薬のキニーネを飲まずに手元に貯め置き、現地住人に与えて甘菓子と交換していた大岡昇平氏も例外ではありませんでした。


ハマダラカが媒介するマラリア原虫の電子顕微鏡写真 (ウイキペディア)

劣悪な山中の露営生活で甚だしく体力を消耗した兵士は、マラリア特有の高熱や頭痛を併発、やがて意識障害や腎不全に至って斃れる兵士が続出。退避する時に衛生兵がマラリヤ特効薬のキニーネを携行するのを忘れたために、軍医も手の施しようがなかったようです。

1944年12月20日、日本軍兵士の大半が山中でマラリア熱と食料不足で疲弊している頃、サンホセ海岸線に上陸した27,000名の米軍部隊は、海軍のゼロ戦や陸軍の一式戦闘機による特攻を受けながらも、3箇所の空港建設を急ピッチで遂行し、先ず最初にヒル飛行場を完成させてレイテ島の陸軍機180機の移動を終えています。

更に、二番目のエルモーア飛行場内に爆撃機用滑走路の追加工事を行い(12月28日完成)、三番目となるアトキンソン飛行場の工事にも着工するという凄まじいほどの早業です。
(資料:モリソン氏の米國海軍第大戦史・フィリピン解放より)


ルソン島北部山中に籠もる日本軍(山下大将)を攻撃した米軍のB-25爆撃機 (HPより拝借)

1944年12月25日、ブララカオ基地からデュタイ(小高地)に退避していた陸軍第1中隊第1小隊(田中少尉)は、米軍上陸地点サンホセの敵情監視をするために、デュタイ(小高地)から南西9㌔の517高地へ移動。サンホセ海岸線近くに出現した新設飛行場からB25爆撃機が頻繁に離発着するのを見留めて報告しています。

デュタイ(小高地)に屯する日本陸海軍の食料在庫は乏しく、多くの兵士が栄養失調に陥っていた・・・と僕は思い込んでいたのですが、大岡昇平氏の『ミンドロ島ふたたび』を何度も読み返している中で、食料在庫の供給が偏向していたらしい事に思い至りました。

僕の思い違いは、何の役にも立たないマラリア患者に対して『自死するのが最高のご奉公だ』として食料供給を止めたり、野戦病院側も『食料を持参しない患者の入院を拒絶』したりして、1日当たり平均3名がマラリアと栄養失調で死亡していたとする衝撃的記述に惑わされてしまったからでした。

ところが、デュタイ(小高地)から517高地へ偵察に出た陸軍第1中隊第1小隊(田中少尉)や、次回ブログで触れる『山本少尉の率いる120名の斬り込み隊』に対しては、相応の食料供給が行われていたと思われる表現がちらほらと垣間見えて来たのです。

プララカオから機帆船を奪取して脱出を試みたK氏の父君の所属する海軍第955部隊は、ゲリラの襲撃から逃れる時に貴重な食料を全て失ってしまったために、デュタイ(小高地)に逃げ戻ってからは、小動物や草木を求めて山野を彷徨うしかなかったと思われます。

1944年12月26日、 米軍によるデュタイ掃討作戦を逃れて立木に登って身を潜めていた海軍第955部隊のK氏の父君は、あまりの空腹で意識朦朧になっていたところを、米国第8軍の兵士に発見されて俘虜となります。

俘虜となったK氏の父君は、米兵に伴われてデュタイ(小高地)からブララカオまで四時間余りをかけて下山。米軍の上陸支援艇でサンホセの野戦病院へ移送されて入院。体力を回復後に、遠く離れたレイテ島のタクロバン俘虜収容所へと移されています。大岡昇平氏が同じ場所のデュタイ(小高地)で米軍俘虜となる1ヶ月前の事でした。     

1944年12月26日23:00、 K氏の父君がデュタイ(小高地)で俘虜として捉えられた同じ日、仏領カムラン湾から到着した日本海軍の第二水雷戦隊(司令官:木村昌福少将)は、ミンドロ島マンガリン湾内の米軍艦隊に向けて40分間に亘る艦砲射撃を行っています。


ミンドロ島海戦(礼号作戦)で木村少将が座乗した旗艦の駆逐艦 霞

しかし、デュタイ(小高地)で何もすることなく屯している日本陸海軍の兵士や、意識朦朧状態で俘虜になったばかりのK氏の父君は、サンホセ海上で起こっている事を知る由もありません。

日本の海戦史では、木村昌福少将が行ったミンドロ島海戦(礼号作戦)を、太平洋戦線における帝国海軍の組織的戦闘における最後の勝利として高く評価していますので、御承知の方も多いのではないでしょうか。

しかし、米軍側の損害は、輸送船1隻喪失、魚雷艇数隻損傷、航空機30機損傷、飛行場施設若干損傷程度であり、ミンドロ島の戦況に大きな影響を与える程の作戦ではなかったようです。

次回のミンドロ島旅行の最終章では、デュタイ(小高地)で俘虜となった大岡昇平氏とK氏の父君が、レイテ島タクロバンの俘虜収容所を経て日本に生還されるまでの経緯を、乏しい資料しかないのですが、綴ってみたいと思っています。