副題:第三強制収容所(モノヴィッツ)の労働力を利用した大企業

二回に分けて、ポーランド南部のナチス・ドイツの第一強制収容所(アウシュヴィッツ)と第二強制収容所(ビルケナウ)を訪れた時に感じたことを、自分自信を叱咤しつつ書き綴りましたが、正直に言って、かなり精神的に滅入っています。

この他にも、ドイツ国内の二つの強制収容所とオランダ・アムステルダムのアンネ一家の隠れ家も訪れているのですが、このまま継続して書き続けることは、とても出来そうにありません。平常心を取り戻すために、現地で見聞した凍り付くような話から、ほんの少しばかり距離を置くことにしたいと思います。

とは言っても、今回の旅のテーマーである『負の遺産』から逃げ出すつもりはありません。角度を少し変えて、タイに戻ってから資料上で調べて分かった第三強制収容所(モノヴィッツ)について整理して置きたいと思います。 



■ 左端の広大な橙色ゾーン:第二強制収容所(ビルケナウ)
■ 中央の小さな橙色ソーン:第一強制収容所(アウシュヴィッツ)
■ 右端の小さな橙色ソーン:第三強制収容所(モノヴィッツ)
■ 右端の第三強制収容所に近接する紫色のゾーンは、大企業の軍需工場


*今回の記事では割愛しますが、第一強制収容所(アウシュヴィッツ)と第二強制収容所(ビルケナウ)の間の紫ゾーンには、親衛隊が経営するDAW社(Deutsche Ausrüstungswerke GmbH)の軍需品工場と倉庫群がありました。

第三強制収容所(モノヴィッツ)は、現在、非公開になっていて、足を踏み入れることが出来ません。車で行けば10分余りの場所なのですが、近寄ることも出来なくて、何かしら忘れ物をしたような悶々とした気分が残っていたのです。

これから先の記述は、老爺が、バンコクに戻ってから、資料を通して知り得た事を、老爺の感覚で纏めたものです。勘違いがあったとしても、それは、決して現地ガイドさんの責任ではありません。全て老爺の責任です。

1941年4月から1944年にかけて、『第二強制収容所』(ビルケナウ)の建設とほぼ時を同じくして、約7km離れたモノビツェ村周辺に、イーゲーファルベン社(合成ゴム、合成石油。化学製品)の巨大工場やクルップ社(重工業)、シーメンス社(重電工業)、メッサーシュミット、ユンケルス、シーメンス等の当時のドイツを代表する企業プラントからなる一大軍需工場基地が誕生します。

第三強制収容所(モノヴィッツ)は、これらの巨大な軍需企業の工場に格安の労働力を提供することを目的として設置されました。 第二強制収容所(ビルケナウ)は、身の毛が弥立つ恐怖の絶滅収容所とも呼ばれましたが、その衛星収容所的位置づけの第三強制収容所(モノヴィッツ)は、“強制労働所”としての側面が強かったように思われます。


イーゲーファルベン社(IG)がモノヴィッツ軍需工場地帯に作りあげた巨大な化学プラント

ナチス・ドイツの国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP)は、戦争によって深刻化するドイツ企業の労働力不足問題を解決するために、強制連行した反ナチスのポーランド人政治犯やソ連軍捕虜の活用を考えていたようです。

ポーランド人政治犯を収容するために設置したのが第一強制収容所(アウシュヴィッツ)であり、ソ連軍捕虜を収容するために構想されたのが第二強制収容所(ビルケナウ)であったことは、前2回の拙ブログでも触れた通りです。

しかし、反ユダヤ主義の台頭によって、ハインリンヒ・ヒムラー親衛隊長官は、ソ連軍戦争捕虜を収容するための第二強制収容所(ビルケナウ)の建設構想を変更する決定を行い、第三帝国内のユダヤ人を第二強制収容所(ビルケナウ)と第一強制収容所(アウシュヴィッツ)へ大々的に移送することを発令します。


軍需工場の手前に見える小さな平屋が第三強制収容所(モルヴィッツ)の一部でしょうか?
1942年 5月:イーゲー・ファルベン工場(モノヴィッツ)操業開始
1942年10月:第3強制収容所(モノヴィッツ)開所


1942年10月頃の完成した第三強制収容所(モノヴィッツ)は、第二強制収容所(ビルケナウ)や第一強制収容所(アウシュヴィッツ)からモノヴィッツ村の軍需工場に囚人を運ぶ込む時間の無駄を省くことを目的として、軍需工場に隣接する敷地内に設立された職住接近の強制労働収容所といった性格を帯びていたと思われます。資料によると、大小40棟からなる収容施設があったようです。

ポーランド南部のモノヴィッツ村に進出したドイツの製造企業は、激しくなるドイツ本国の空襲を避ける狙いもあったでしょうが、ポーランド南部のナチス・ドイツの強制収容所から供給される格安の労働力と近隣のシュレンジエン炭鉱から得られる石炭に魅了されて進出したのでしょうね。

此処から先は、国際政治ジャーナリストの菅原出氏の著書(アメリカは何故ヒトラーを必要としたか)をベースとしたナチスとアメリカ企業の協力関係の記事中から、老爺なりに客観的だと思った内容の抜粋になります。

古今東西、国家が戦争を遂行する表裏には、必ず大企業が経営する軍需産業の介在が見え隠れするものです。ドイツ・ナチスの国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP)とドイツ企業、更には、敵国の米国企業との間にもドス黒い協力関係と利権構造が存在していたようです。

興味深いのは、従業員13万人の巨大企業だったイーゲーファルベン社(I.G. Farben) の社長がユダヤ人のカール・ボッシュ氏(1932年:ノーベル化学賞の受賞者)だったことです。当然のことながら、株主の多くがユダヤ人で占められていたことでしょう。 反ユダヤ主義のヒトラーからは、当然のことながら、『国際金融資本の手先』として睨まれていたに違いありません。

  
イーゲー・ファルベン社の会長:カール・ボッシュ氏 (ユダヤ人:1874年8月27日生 - 1940年4月26日没)
イーゲー・ファルベン社の後任会長:ヘルマン・シュミッツ会長 Mr.Hermann_Schmitz(反ユダヤ主義のドイツ人)


当時の世界の四大企業と言えば、一位:GM(米国)、二位:USスチール社、三位:米国のスタンダード石油(現エクソン)、ドイツのイーゲーファルベン社は第四位でしたが、化学分野では世界最大の企業でした。

国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)が政治的影響力を増す中、ヘルマン・シュミッツ社長(後に会長)やドイツ人役員は、全面的にナチ党に協力する立場を示すようになり、やがて、ユダヤ人のカール・ボッシュ会長を、イーゲーファルベン社から追い出すことに成功します。ヒトラーも喜んだことでしょうね。

名実ともにイーゲーファルベン社のリーダーになったヘルマン・シュミッツ会長は、ヒトラー総統とゲーリングに面会(1935年2月20日)。ナチ党の4ヵ年計画に基ずく軍需製品の生産協力対する政治的支持と財政的支援を担うことを表明。更に、ナチス御用達の国際決済銀行の設立に参画して役員に就任しています。

ナチ党の軍需計画を支える重要な工業製品である合成石油と合成ゴムの生産を独占していたイーゲーファルベン社は、その大半をポーランド南部のモノヴィッツ村の巨大工場で生産することを決定。ナチス親衛隊が管理する第三強制収容所(モノヴィッツ)から格安の労働力を得て莫大な収益を挙げることになります。


当時のドイツを代表する大企業、イーゲーファルベン社の本部ビル(ドイツ・フランクフルト)

イーゲー・ファルベン社は、戦後になって正式に解散(1951年)したので現存していないのですが、威容を誇ったフランクフルトの本部ビルは、今も現存しています。戦後は、米軍の最高司令部として使われ、現在はフランクフルト大学のキャンパスになっています。
(上写真)


終戦直後、フランクフルトに進駐した米軍兵士が驚いた話が残っています。爆弾によって無残に破壊し尽された廃墟の中に、イーゲーファルベン社の本部ビルだけが、無傷で残っていたのです。敵国ドイツ最大の軍需会社の本部ビルが、熾烈を極めた空襲の攻撃対象から外されていたということは・・・どのような意味が込められていたのでしょうか。

ナチス・ドイツが戦争を遂行出来たのは、イーゲーファルベン社の巨大な生産能力、米国を中心とする国際企業との緊密な強調関係、その利権構造から得た強大な資金力、そして、卓越した調査研究能力があったから・・・とする米国諜報機関の分析報告が残っているそうです。

イーゲーファルベン社の底力を考えてみるために、ロックフェラー財閥(米国)が所有する世界最大の石油会社であるスタンダード石油(注)との密接な協調関係と巧妙な利権構造を覗いてみることにしましょう。

(注)エッソのブランド名で有名な現在のエクソン社です。


ドイツ・イーゲーファルベン社と米国の石油会社・スタンダード石油は固い絆で結ばれていました。
(ZEITGEISTより拝借)


スタンダード石油のウォルター・ティーグル会長は、ドイツのイーゲーファルベン社の米国の子会社(GAF)に多額の投資をするとともに、取締役も兼ねていました。イーゲーファルベン社のヘルマン・シュミッツ会長も、当然のことながら、米国のスタンダード石油に多額の投資をしていたのです。

スタンダード石油は、英国における系列会社のエチル社を経由して、イーゲーファルベン社に、ドイツ空軍が爆撃機の燃料に使用するテトラエチル鉛を供給していました。ドイツ空軍は、米国から得た得た燃料でロンドンを空爆していたわけですね。

連合国側の米国企業が敵側のナチスに航空燃料に不可欠なテトラエチル鉛を流していたという嘘のような本当の話です。巨大な軍需企業には、国家対国家の概念を超えた途轍もない何かがあるようです。


更に、当時の米国政府は、スタンダード石油とイーゲーファルベン社が独占していた航空機エンジンの燃料流入を容易にするパラフローとか、天然ガスから水素を取り出す技術、そして、合成アンモニアの製造工程の技術の取得すらも、思うに任せなかったというのです。なんだか、ケネディー大統領の時代を彷彿とさせるような流れです。

欧州における戦争が長引いていたナチス政権は、やがて深刻な石油不足に直面します。そのナチスに対して、ルーマニアの油田をリースしたり、ハンガリーの油田を売り渡して助けたのもスタンダード石油でした。また、ナチスを支援するために、ドイツ・ハンブルグにおける航空燃料の製油所建設の支援をしていたのもスタンダード石油でした。

1939年から真珠湾攻撃までの間、ドイツに対して、軍用機や軍用車のタイやに使う合成ゴムの供給を行ったのもスタンダード石油です。

米国陸軍情報部に次のような記録(1941年7月15日付)が残っているそうです。
スタンダード石油によってカナリア諸島まで運ばれた石油の20%は、カナリア諸島でドイツ潜水艦(Uボート)に給油され、残りの石油は、ドイツ・ハンブルグ行きのドイツ・タンカーに移し替えられている。



第二次大戦中、ドイツの潜水艦Uボートに撃沈される連合国のタンカー

更に、スタンダード石油のタンカーは、ドイツ潜水艦からの魚雷攻撃を一度も受けたことがないが、その他の米国のタンカーの多くは、ナチスの潜水艦による魚雷攻撃で撃沈されている。しかし、米国政府(国務省と財務省)は、スタンダード石油によるナチスへの協力にたいして圧力を加えることなく、その取引を許容している。

これを察知した英国情報機関が、米国のマスメディアを操り、スタンダード石油とイーゲーファルベン社の協調関係を暴露するネガティブ・キャンペーンを張ったことから、米国民の間でスタンダード石油に対する批判が起ります。

しかし、米国陸軍省とCIAの前身である戦略情報局(OSS)は、スタンダード石油の協力がなければ、枢軸国との戦争を継続できないことことから、スタンダード石油への攻撃をある程度のところで止めるように密かに働きかけたと伝わっています。

読者の方の中には、老爺の私めが、殊更に反ユダヤ主義と親ナチのスタンスを取るスタンダード石油をあげつらっていると思われる方がいらっしゃるかもしれませんが、決してそうではありません。

偶々、ナチスの第三強制収容所(モルヴィッツ)の格安の労働力を利用していたイーゲーファルベン社を支援していたのが米国のスタンダード石油だったと言うだけで他意はありません。当時の米国には、反ユダヤ主義者で親ナチの立場を表明する大企業は、スタンダード石油以外にも多くあったようです。

 
左:ヘンリー・フォードの著した反ユダヤ主義の『国際ユダヤ人』
右:ヘンリー・フォードの影響を受けたヒトラーの『我が闘争』


自動車産業のヘンリー・フォードが1920年著した反ユダヤ主義の本『国際ユダヤ人』は有名ですね。作家の児島襄氏は、ヒトラーの著作の中のユダヤ人批判の記述には、ヘンリー・フォードの思想に酷似した内容が見えると記述されています。

ヘンリー・フォードの『国際ユダヤ人』は、一般のドイツ人にも大きな影響を与え、この本の思想に共鳴して『反ユダヤ主義者』になったナチ党員も多かったとか。ヒトラーは、外国人としては最高のドイツ大鷲十字章を、ヘンリー・フォードに授与しています。

ヘンリー・フォードの息子のエドセル・フォードは、1930年代を通じて、ドイツのイーゲーファルベン社の米国子会社「GAF」の取締役を務めていました。

米国のデュポン一族が経営する自動車産業のGMとナチスの関係も随分と親密だったようです。1943ื年、ドイツのGMグループは、世界で最初のジェット戦闘機・メッサーシュミットのエンジンを製造供給しています。そして、同時期に、米国のGM工場では、アメリカ陸軍航空隊の飛行機も整備していたのですから驚きです。


1929年、GMと当時ドイツ最大の自動車メーカー・オペル社の買収契約調印式。
それ以降現在に至るまでオペルはGMの子会社です。
左から6人目がGMのアルフレッド・スローン社長


ドイツ第三帝国内のGMもフォード社も、ドイツのイーゲーファルベン社と同じようにドイツ国内のナチスの強制収容所から格安の労働力の提供を受けていたのです。

そして、米国内の親ナチス派の中で、最も重要な役割を演じたのは、米国人政治家のダレス兄弟であったという話もあります。米国内の政治家や企業家に、何故に敵国ナチスを支援する人々が存在したのでしょうか。

 
左:ジョンダレス氏(任:1953年-1959年 アイゼンハワー大統領の下の国務長官)  
右:アレン・ダレスCIA長官(任:1953年-1961年)


『アメリカはなぜヒトラーを必要としたのか』(著:菅原出)を老爺なりに要約してみました。

1920年代からソ連の崩壊にいたるまでの間、米国の外交戦略には、ヒトラーのような共産主義に対抗する独裁者や指導者を支援するという確固たる考えがありました。米国の親ナチス派とナチス・ドイツは、反共産主義でがっちりと結ばれていたのですね。

第一次世界大戦で敗北したドイツが、ヨーロッパを席巻する軍事大国に成長出来たのは、米国の政界と財界の『親ナチス派』の援助に負うところが大きかったと言っても過言ではないようです。


当然のことですが、米国内には、フランクリン・ルーズベルト大統領やヘンリー・モーゲンソー財務長官(ユダヤ人)を代表とする反ナチス派の勢力も存在していました。


(左)第32代アメリカ大統領、フランクリン・ルーズベルト(任:1933-1945)
(右)アメリカ財務長官ヘンリー・モーゲンソー(全米ユダヤ人組織連合の名誉会長)


米国政界と産業界は、親ナチ派(反ユダヤ)と反ナチ派(親ユダヤ)による攻防を繰り拡げ乍ら、第二次大戦を遂行していたのですね。彼らが空中分解しなかったのは、反共産主義という共通の土俵があったからなのでしょうね。

1944/8/20、反ナチス派のフランクリン・ルーズベルト大統領は、ポーランド・モノヴィッツのイーゲーファルベン社(化学)、クルップ社(重工業)、シーメンス社(重電工業)、メッサーシュミット社、ユンケルス社が展開する大軍需工場地帯に対して、徹底的な絨緞爆撃を敢行します。

工場敷地内に点在していた大小40棟の第三強制収容所(モノヴィッツ)は、完膚なきまで破壊し尽されたに違いありません。大企業の軍需工場で強制労働に従事していた第三強制収容所(モノヴィッツ)のユダヤ人はどうなったのでしょうか。

一説によると、1942年10月の第3強制収容所(モノヴィッツ)開所から1944/8/2の閉鎖までの間に、ユダヤ人を主体とする約2万5,000人の強制労働者が亡くなったとの口伝もあるようですが・・・・それが強制労働による過労死なのか、爆撃による死亡なのか・・・何も分からないそうです。

フランクリン・ルーズベルト大統領と財務長官ヘンリー・モーゲンソー(全米ユダヤ人組織連合の名誉会長)は、第3強制収容所(モノヴィッツ)にユダヤ人がいたことを承知していたのでしょうか。

第三強制収容所(モノヴィッツ)から少し離れた第一強制収容所(アウシュヴィッツ)と第二強制収容所(ビルケナウ)は、航空撮影によって存在が知られていたからでしょうか、一度も爆撃されていません。

今回は、一度も訪れていない第三強制収容所(モノヴィッツ)を題材にしたこともあって、ついつい話題が拡散してしまいましたことを、お詫び致します。