≪前回ブログの続きです≫

太平洋戦争の緒戦における日本帝国軍隊の最大目標は、南方作戦(あ号作戦)によって、オランダ領インドネシアの石油資源を獲得することにあったわけですが、昭和16年12月8日(1941年)の開戦日に即実施された作戦を、戦中生まれの僕なりの知識で今一度整理して置きたいと思います。

● 陸軍:英国植民地攻略の為のマレー半島強襲上陸作戦(E作戦)
● 海軍:米国主力艦隊撃沈の為のハワイ真珠湾奇襲攻撃(Z作戦)
● 陸軍:米国植民地攻略の為のフィリピン上陸作戦(M作戦)

12月8日の攻撃開始時間を並べると、マレー半島作戦=黎明、 真珠湾作戦=午前1時30分(ハワイ時間7日午前6時)、フィリピン作戦=正午・・・の順番となり、太平洋戦争の火蓋を最初に切ったのは、タイ南部6箇所を含むマレー半島強襲上陸作戦でした。

太平洋戦争の戦端を最初に開いたのは真珠湾奇襲攻撃だと勝手に思い込んでいた僕としては、これは意外な発見だったことを白状します。


タイに魅せられてロングステイ
1942年当時の大日本帝国の勢力圏

勢いを得た大日本帝国は、その後も、香港作戦(C作戦)、グアム(G作戦)、ボルネオ作戦(B作戦)などの実施によって南方地域の島々を次々と攻略、およそ4ケ月の日程をかけて最終目標のオランダ領インドネシアの石油資源を手中にするとともに、スンダ列島の大防衛線を確立するという壮大な作戦を描いていたようです。(上図参照)

さて、前置きは此の程度にして、タイ国を巻き込んだマレー半島強襲上陸作戦(E作戦)の話に戻すことにしましょう。


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1941年12月8日:日本軍のタイ国内上陸地点

1941年12月8日黎明、南方作戦(あ号作戦)の柱となるマレー半島強襲上陸
が開始されます。日本陸軍は、タイ南部の6箇所の海岸地点(上図参照)を目掛けて強襲上陸を敢行!  これ以降、大日本帝国は、破滅へと向かう道程をひた走ることになります。

≪タイ南部の上陸地点≫
●ムアン・プラチュアップキーリーカン上陸 (兵士1,007名、馬100頭、自動車40両)
●チュンポーン上陸 (兵士2,233名、馬330頭、自動車20両)
●スラータニー上陸 (兵士1,048名、自動車20両)
●ナコンシータマラート上陸 (兵士2,607名、自動車50両)

上記以外にも、ソンクラ県のテーパーシンゴラ、パッターニー県などでも上陸作戦が行われますが、タイ政府との平和進駐協定の遅れによって、双方の間で武力衝突が発生して相当の死傷者が出たことは、既に前回のブログで触れました。

タイ南部上陸作戦と時を同じくして、12月8日の払暁、ベトナム・サイゴン駐留の近衛師団主力がカンボジア国境を越えてタイ東部へ侵攻開始。 更に、同日の午前3時過ぎ、近衛師団の別働隊がバンコク東隣のサムットプラカーン県の海岸へ強襲上陸を敢行。 しかし、両部隊ともタイ国軍の抵抗を殆ど受けることなく、翌日の午後には首都バンコクに進駐して都心のルムピニ公園に野営陣地を設営しています。

ところで、太平洋戦争開戦の日が1941年12月8日(昭和16年)に定められた理由ですが、てっきり、ハワイ真珠湾奇襲攻撃作戦を遂行する帝国海軍の海洋気象条件によって決められたと思っていたのですが・・・これまた意外にも、タイ南部のマレー半島の強襲上陸作戦を実施するには、この時期がぎりぎりの期限だとして決定されたことを知りました。

僕がマレー半島強襲上陸作戦地のプラチュアップキーリーカン県の海岸を訪れたのは、昨年12月下旬~今年の正月4日でしたが、その折のタイ湾の海岸線は、北北東の強風に煽られて、まるで津波を思わせるような凄まじい高波に襲われていました。(下写真)

昭和16年12月8日のスラーターニー県とソンクラー県の海岸上陸作戦の折にも、激しい風雨による高波に苛まれて、兵員輸送船の湾内への入泊予定が大幅に遅れたとする記録が残されています。

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2011年12月下旬のプラチュアップキーリーカン県・フアヒン海岸の高波

プラチュアップキーリーカン県の海岸線の高波が静まったのを見定めてから、南方軍第15軍傘下の徳島歩兵第143連隊の宇野支隊の一部が強襲上陸したムアン・プラチュアップキーリーカン郡のマナーオ海岸を捜して車でうろつき廻りました。

僕『 日本軍が強襲上陸した海岸は何処にありますか?』
タイ人『 日本軍?・・・上陸?・・・ 』
僕『 その時の犠牲者の慰霊碑は何処にありますか? 』
タイ人『 慰霊碑?・・・知りませんね・・・』
僕『 上陸地点はマナーオ湾だと思うのですが? 』
タイ人『 アー、マナーオ湾なら、あの山の半島の向こう側ですよ』


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日本軍が上陸したマナーオ湾は、あの山の半島の向こう側にあるらしい!

漸く掴んだ上陸地点の情報を頼りにして、あの山の向こう側に車で向うと、タイ語でトンソン(ต้นสน)と呼ばれる防風林に遮られた長い海岸線に出ました。 

タイのトンソンは松の木の種類ですが、しなやかで柳のような松葉と極小の粒果の松笠は、日本で見かける男性的な松とはかなり違ったイメ-ジに見えます。


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防風林のトンソンの並木が茂るマナーオ湾の海岸

マナーオ(มะนาว)は、ライムを意味するタイ語ですが・・・何処を見廻しても、ライム畑は全く見当たらず、目に入るのはタイ松のトンソン(ต้นสน)ばかりです。

タイ松のトンソンが茂る防風林を抜けると、眼前に遠浅の海水浴場が広がっています。此の辺りの年末から2月にかけては寒季(日中の気温は32℃、朝夕は20℃程度)に当たるので、海水浴場には殆ど人影が見当たりません。


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人影もない寒季のマナーオ湾

僕『 日本軍が上陸したマナーオ湾は此処ですか?』
タイ人『 マナーオ湾は此処だけど・・・』
僕『 戦争の犠牲者の慰霊碑は何処にありますか?』
タイ人『 戦争の慰霊碑・・・? そんな物見たことないね 』

バンコクを出発する前に、『 日タイ戦争』の慰霊碑の存在を、インテリと自称するタイ人の知り合いに調べてもらったところ、『話し合いによる無血上陸だから、慰霊碑なんてないと思うよ 』、『 歴史教科書にも載っていないしね 』 と軽くいなされたことを前回のブログで書きましたが・・・現地に来ても同じ様な反応を示されてしまいました・・・ひょっとして、僕の歴史認識は思い過ごしなのででしょうか??


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日本軍1000名が強襲上陸したマナーオ湾の全景

さっぱり通じない昔話の質問は打ち切って、此の地にあるタイ国軍の基地の在り処を訊ねると、此処からマナーオ湾の海岸線に沿って北側に10分ばかり戻ると、第53航空団の基地があると言います。

その昔、チャオプラヤー河口を見たい一心で、河口を占有するタイ海軍基地ゲートで見学を所望したところ、簡単に入場を許可してもらった記憶を思いだしながら、このまま手ぶらで帰るのも口惜しい気がして、駄目もとでタイ航空団の基地を訪ねてみることにしました。

航空団基地に通じるマナーオ湾の松並木に沿って車で進むと、タイ語表示の大きな横書きの看板が目に飛び込んで来ました。

第53航空軍団歴史公園
อุทยานประวัติศาสตร์กองบิน ๕๓

航空団の基地内に歴史公園があるようです。
ひょっとすると!! ひょっとするかも!! 
期待しても良さそうな雰囲気が感じられます!

次回に続きます。