原題 Edwin O. Reischauer and the American Discovery of Japan


ライシャワーの昭和史/ジョージ・R・パッカード
¥2,730
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著者は、大学院でのライシャワーの教え子であり、駐日大使時代の特別補佐官を務め、ジャーナリストの経験もある歴史学者で、亡くなるまで近しい友人でした。

本書は着想から40数年、幅広い関係者の記録もリサーチし、ライシャワーの個人書簡、自伝から削除された原本、著書、論文、講演、インタビュー、日本の新聞報道や週刊誌の記事、評論、批判などの周辺資料まで網羅し、利用した文献すべてに詳細な注釈が施されています。

これ1冊でライシャワー大辞典ですが、歴史物語風なので、肩が凝りません。今だから開示された40年前の機密事項も、政策立案の現場にいた人間から語られるとリアリティがあります。時間が経って俯瞰してみると、バイアスがかかっていて当時は正しく見れなかったこと、何が本物で何が偽物だったかわかってきます。



機密解除された文書によれば、CIAは自民党を権力の座にとどめるために、一部の保守派政治家に多大な支援をしていた。(「ティム・ワイナー著「CIA秘録」文芸春秋2008) 自民党有力者へのCIAの秘密資金工作は、ライシャワー大使の勧告を受けて中止された。


ライシャワー教授は、1966年に5年半の大使生活を終えて日本を去りました。昭和天皇は、皇居での送別の儀で「これからは日本のアメリカ文化大使になってください」と述べられました。

87歳の吉田茂とのテレビ討論もあった。

出立のときは大勢に歓送されたが、アメリカの空港には誰の出迎えもなく、自分で荷物を運びました。


大使生活の最後の2年半は、ケネディ大統領の暗殺、自身も刺殺されかけたこと、それによるC型肝炎感染、ハルの鬱状態、ベトナム政策を弁護しなければならなかったこと、肝炎による体力の減退、疲労で失望に満ちていました。


1971年のニクソンショックーーヘンリー・キッシンジャーの訪中を日本政府が数分前まで知らされなかったこと、ドルを金本位制と360円の固定レートから切り離すと突然決定されたこと、日本が繊維の輸出を削減しないならば、厳しい措置を発動し、10パーセントの輸入課徴金を課すと発表したこと(ニクソンは選挙運動で南部の繊維メーカーを保護するという約束をしていた)


ライシャワーは、ハーバードのグラハム・アリソンへの手紙にこう記す「ニクソン政権が日本を無視し、キッシンジャーがメッテルニッヒの19世紀世界を再現しようとしているという貴殿の分析は、まったく正確であります」


日本の非核3原則(核兵器を持たず、作らず、持ちこませず)で、今も問題になっていることですが(「日米密約 岸・佐藤の裏切り」・文芸春秋2008/7、「こうして核は持ち込まれた」NHK 2008/11/9)、すでに1974年に、ジーン・ラロック元提督が、「米艦艇は核兵器を搭載しており、日本に寄港するたびに核兵器を外すことはない」と証言しています。


1960年の日米間の「相互協力及び安全保障条約」についての最初の交換公文「合衆国軍隊の日本国への配置における重要な変更、同軍隊の装備(核兵器)における重要な変更並びに日本国から行われる戦闘作戦行動のための基地としての日本国内の施設及び区域の使用は、日本国政府との事前の協議の主題とする」


日本政府の解釈によれば、寄港のためであってもアメリカ政府は、日本に核兵器を持ちこむか運び込む前に日本と協議することを義務づけられている。アメリカ政府が日本と協議したことがなかったため、日本政府は、日本に寄港する米海軍の船には核兵器はないという立場をとった。

アメリカは、いかなる船舶上にも核兵器の存在を「確認もせず否定もしない」という立場をとった。


米海軍の船舶が、核武装していて、日本の港に入る前に兵器を降ろすわけがないことは常識で考えればわかる問題だった。


1964年から66年のライシャワーの主な任務の一つは、米海軍が横須賀と佐世保の海軍基地に核兵器搭載の潜水艦が入港する道を容易にすることだった。彼は日本人の核に対する嫌悪を理解し、共鳴していたが、海軍が、ソ連のレーダーから隠れて、長期にわたり海上にとどまれる原子力潜水艦にますます依存するようになっていること、また、もし海軍が両港の使用を妨げられると、米日関係の安全保障条約がうまくいかなくなることを知っていた。そこで、原子力と核兵器の相違をマスコミと国民にはっきり示し、原子力潜水艦の安全性に関する疑いを鎮めるために、外務省および米海軍と緊密に打ち合わせをした。米原潜の佐世保への初寄港は1964年11月に行われ、小規模な反対運動が起きた。だが、寄港は継続し、数ヶ月後にはルーティーンになった。


-アメリカ国立公文書館で機密解除された文書ー

1964年、米原潜の日本初機構をめぐる日米交渉で、日本政府が日本の領海内での液体または固体の放射性物質を放出しないよう要請したのに対し、アメリカ側は「原子炉の一次系ウォームアップ時に少量の低レベル放射性冷却水を放出することが必要になる」と回答し、日本の要請を拒否したという。


岩国の核発覚とその真相

1966年4月、米海兵隊が、岩国にある米海兵隊航空基地の沿岸に停泊中の戦車揚陸艦サン・ホアキン・カウンティ号に核爆弾を貯蔵していた。北朝鮮ないし中国と戦争が勃発したら即、接岸して使用できるようになっていた。これは重大な機密となっており、国務省の一握りの高官以外はだれも知らなかった。

これは明々白々たる安保条約違反だった。

国務省の日本担当デスク、政治・軍事オフィサーでライシャワーのもとで勤務したことのあるギブンズは、政治担当参事官のザーヘレンJrを通してライシャワー大使に伝えた。

ライシャワーはただちに在日米軍司令官に電話をいれ、問題をつきつけた。つぎに国務次官補U・アレクシス・ジョンソンに私信を送り、もし核兵器が90日以内に日本から撤去されなければ、辞任して公表すると知らせた。


1943年8月、ライシャワーは陸軍本部諜報部の少佐になり、最高機密の諜報担当部署「スペシャル・ブランチ」に配属された。ある朝、マンハッタン計画を聞かされた。

「人間が居住するターゲットに投下せずに原爆の威力を証明するといったさまざまな代案は、おそらく実行可能ではなかっただろう。広島と長崎に投下された2つの原爆と、両方の投下のあいだに行われたソ連による満州侵略をもってさえ、日本の軍部が文民政府に降服を許すかどうか、情勢はきわどかった。原爆投下がなければ、軍部は戦い続けると主張し、数十万のアメリカ人死傷者を出しただろうし、日本も数百万の非戦闘員が餓死し、日本という国は、実質的に破壊しただろう。ソ連は朝鮮半島全部と、日本の一部ないし全部を占領し、ソ連支配のポーランドか分裂ドイツのような、全面的に共産主義化された朝鮮半島と日本を作ったことだろう。

しかし、長崎への投下はまったく理由がなりたたない。ほとんど迂闊に7万人を抹殺した」



機密解除された国務省公文書により、1961年11月、池田首相がラスク国務長官に、閣内に核武装論者がいることをあかしたと報じた。佐藤栄作首相も64年12月、ライシャワーに対し「他の人が核を持てば、自分も持つのは常識だ」と語った。ライシャワーはこれは大きな間違いだと思った。日本が軍国主義に戻ることを恐れるからではなく、それによって日本はアジアで核競争を引き起こしかねない。それに核を所有したからといって、日本のセキュリティがいちだんと高まるわけではない。むしろ、細長い日本列島を考えれば、日本はもっと危険になるー東京と大阪のあいだに核兵器が1つ投下されれば、工業力の半分近くを破壊することもあり得る。ライシャワーは国務省に打電した。「佐藤が池田よりも慎重さに欠けるとの評判どおりだ。彼が危険なコースに陥らないよう、池田に対する以上の教育が必要だ」

ラスクはこの点でライシャワーに同意し、その結果として、ジョンソン大統領は、1965年1月の佐藤首相との会談で、日本にアメリカの「核の傘」を提供すると申し出たのである。これは、日本のセキュリティーを脅かす外部からの脅威は、アメリカが軍事力をふるい、核兵器使用にいたるまで、また核兵器使用を含み、全力で対抗することを意味した。この取り決めは今日まで有効であり続けている。機密解除された文書により、1960年6月23日に藤山愛一外相とダグラス・マッカーサーJr駐日大使とのあいだに調印された安保条約の極秘議事録は、朝鮮半島における不測の事態の際には、日本政府との事前協議なしに在日米軍基地の使用を認めていたことが明らかになった。


ボートンとライシャワーは、天皇が保持されるべきであるとジョン・カーター・ビンセントを説得したが、陸軍省と海軍省のメンバーは、天皇は戦争犯罪人として裁かれ、罰せられるべきだと言い張った。

アメリカ議会は、「天皇ヒロヒトが戦争犯罪人として裁かれることは合衆国の方針」と宣言する決議について討論した。(可決されなかった)

オーストラリア政府は、ロンドンの戦争犯罪委員会に、天皇ヒロヒトと61人の日本の指導者を戦争犯罪人として告発するよう提案した。ハリー・L・ペンス海軍大佐は、日本民族のほぼ全面的抹殺を擁護した。


ダグラス・マッカーサー元帥は、最終決断をくだす権限を与えられた。マッカーサーは3つの要因にもとづいて、天皇を日本国民の統合の象徴として保持することに決めた。第一の要因は、グルーとボルトンとライシャワーが示した論拠であり、第二には、協力する意思を持った平和主義者の天皇イメージを作ろうとした宮中インサイダーによる工作の成功。第三に、天皇の力を借りて、日本にキリスト教を広めたいという彼個人の目標だった。

ライシャワーが国務省の政策立案者に宛てた文書「天皇に責任がないことは全日本国民が重々、承知しており、彼を否定するのは旗を否定するのと同じようなものである。日本の本当のリーダーの存在は依然として匿名のままであり、責任を負わせる当事者は存在せず、スケープゴートに使える大物の個人がいたとしても、ごくわずかしかいない。陸軍は、間違った指導者かつ悪魔として挙げられる唯一の機関であろうが、ほとんど全国民がいまや、なんらかの形で陸軍と一体化しており、軍人に敬意を払うという長い伝統があるために、日本人は自国の軍隊を攻撃することで満足を得ることはない。それどころか、軍事的敗北は、日本の軍事独裁政権の打倒よりも強化に役立ってもおかしくない」


家族に打ち明けた天皇観

「日本を本当によく知っている人達は、天皇には手を触れないという考えでほぼ一致しています。第一の理由は、天皇に神のような威厳がある限り、われわれがどう望もうと、退位させることはできません。天皇その人は重要ではありません。概念が重要なのです。現実の天皇をわれわれが退位させるならば、日本人は皇位という概念をよりいっそう大切に心に抱くことになるでしょう。概念というものは、人間よりも攻撃するのが、よほど難しいのです。さらにいえば、そのような性急な動きを起こせば、日本人は何世紀にもわたり、皇位の諸悪を負うことになります。アウトサイダーがそれを剥奪しようとしているとみたなら、すべての日本人が守る側に回るでしょう。皇位の悪弊を日本で廃止できる唯一の道は、その仮面をはぐことであり、退位させることではありません。天皇を殉教者にしたなら、仮面をはぐことは不可能になってしまいます。じつは、天皇がこの戦争を引き起こした軍人たちの行動を否定して、本当に急速な復興へと日本を先導してくれることをかなり期待しています。私たちが知るかぎりでは、天皇は、日本の高位にある誰にも負けぬほどリベラルな人です。これから数十年のうちに国家グループのなかで日本をまともな地位へもどすべく先頭に立つ、機関ないし人物がほかに現れるとは思えませんし、もし日本がすぐに復帰しなければ、私たちは、この国を運営するか、少なくともしっかり管理するという長期的な仕事を負わされるでしょう」


米日貿易戦争、ジャパンバッシング

ジャーナリストのホワイトは、日本は1930年代から変わっていない、いまだに復讐しようとしている執念深い敵なのだ、1900年代初期のイエローぺリル(黄禍)をほうふつさせる単一で等質の東洋人集団を指すTHE JAPANESEの概念を復活させたのである。


リビジョニスト(修正主義者)を称する日本批判者がどっと出てきた。

日本をよく知れば知るほど、その社会と文明がよくわかり、西欧と共通する属性をそれだけよく理解できるようになる、というのがライシャワーの論だった。ジョンソンの分析はライシャワーのアプローチを逆手に取ったものだった。本当に日本を知ると、いかに行動が異なるかが理解できる、なぜアメリカはこの脅威から身を守らねばならないかがわかってくる、と説いていた。

1986年、日本はアメリカにおける半導体販売の制限に同意したが、87年、アメリカは、日本は協定に違反したと主張し、日本からの輸入品に制裁を課した。

1989年、SONYの盛田昭夫と、石原慎太郎は「NOと言える日本」を出版した。


ライシャワーは、石原慎太郎と盛田昭夫の「NOと言える日本」にみられる類のナショナリズムをとくに批判していた。「日本はナショナリストではなく、国際主義者になるべきだ。石原は絶対に間違った方向へ進んでいる。彼は日本を考えられるかぎりもっとも危険なコースへ導こうとしている。なぜなら、狭量なナショナリズムへの回帰は、日本にとっては自滅に等しいからだ。石原と盛田がこれを基本的には日本人向けだけに出版し、英語版を望まなかったという事実は、日本は世界の一員であるという理解の恐ろしい欠如を示している。(1990年に英訳版が出版された。The Japan can say No(Simon and Schuster)民主国家の人ならば、そんなことをしようと夢にも思わないだろう。ナショナリストが日本のために役立つことはない」

リビジョニストのなかでもっとも笑止千万きわまりないのが、以前は無名だった在日オランダ人ジャーナリスト、「日本/権力構造の謎」の著者であるカレル・ヴァン・ウォルフレンだった。とパッカードは書いている。

ウォルフレンが描きだしたのは、危険なほど手に負えなくなっている輸出機械と化した日本だった。頂点には誰もいない、政治責任の中心がない、ブレーキのない絶対的なシステム(ジャガナート)だった。ウォルフレンだけは、この謎めいたシステムがどのように機能するか、ちゃんとわかっている、という。それに危険な存在で、現在の進路にそのまま置いておけば、アメリカを圧倒しかねない。ということだった。ウォルフレンはライシャワーとの対談中(対決中)にラジオ局で逆切れして契約書を破り捨て、その録音は放送されることはなかった。


・・90年代初め、ウォルフレンの著書に影響を受けていた日本人は一部いたように思います。「人間を幸福にしない日本というシステム」が平積みされていました。売れる本がまともな本とは限りません。この人の言っているシステムとは自民党のことかと思いましたが、極端な単純化、偏った決めつけでまとめていました。


GMのCEOスミスJrは1995年にこう語った。

「アメリカの貿易赤字は、おもに、アメリカ自身の慣行のせいで起きているのだから、日本をそのスケープゴートにするべきではない。アメリカの貿易赤字は主として、貯蓄と投資のはんはだしい不均衡を反映している。ジャパン・インクなど存在しないことをアメリカ人は知るべきである。ジャパン・インクというのは、アメリカが日本の競争力と対応するのを避けるための便宜的手段だったのだ。日本の重商主義的な行為によって、日本の貿易相手国よりも日本のほうが、はるかに痛手をこうむっている、と私は確信している」


ライシャワーは著書「ザ・ジャパニーズ」で、日本人へ3つの心からの緊急メッセージを送っている。

第一に、英語学習の点での日本の弱さを嘆いている。

第二に、日本人のナショナル。キャラクターに対する病的なこだわりが根強いことを嘆いている。

第三に、日本政府が、とくに東南アジアで、その富と強さが保障するリーダーシップを発揮していないことに落胆していた。


パッカードは、亡きライシャワーを代弁するーもし、彼がいま生きていたならば、なぜ日本は、2003年に、イラク侵攻というブッシュ大統領のはなはだしい過ちを屈従的に支持し、支援の証しとして600人の自衛隊の派遣までしたのか。なぜ小泉首相は、一方的な侵略を支持せずに国連決議に委ねることを望んだシラク大統領や、シュレーダー首相の向こうを張ることができなかったのか。ライシャワーは、対等なパートナーシップの必要性をあらためて訴えるにちがいない。

沖縄から米軍の大半を撤退させ、陸上基地と海軍基地を自衛隊と共同使用することを、彼は求めるだろう。ワシントンが米軍のサイパンへの移動費用の一部負担を日本に要求していることに困惑するだろう。普天間を閉鎖し、米空軍を嘉手納へ移すことを支持し、北朝鮮からの侵略を抑止するために米空海軍を当てにするはずである。


国際的な視野と器量を持ち、英語を流暢に話し、世界のリーダーのあいだに影響力を持つ政治家が先頭に立つ日本を思い描いていた。





日本は保護貿易主義で侵略的な貿易慣行を使い、市場を多く閉鎖し、アメリカ製品の輸入を妨げる非関税障壁を使っていた。
京都を爆撃から救ったのは、Otis Cary教授(同志社)の研究でつきとめたところでは、陸軍長官ヘンリー・L・スティムソンである。彼は1925年に新婚旅行で京都を訪れており、京都が破壊されることが耐えられなかったという。