夜明け前、ベッドをそっと抜け出し、友だちとサーフィンに出かけたシモンですが、帰り道に交通事故に巻きこまれ、脳死と判定されます。報せを受けた彼の両親は、その現実を受け止められないでいました。移植コーディネーターのトマはシモンは、移植を待つ患者のための臓器提供をついて両親に相談します。両親は、トマの話に戸惑います。臓器を良い状態で移植するためにも、翌朝までには結論を出さなくてはならないのですが...。

 

移植を待つ側にも提供を求められる側にも、そこに至るまでにそれぞれの生活があった訳で、「もう生きることはできないのだからせめて臓器を生かし、救える命を救おう。」なんて、簡単に割り切れるものではありません。そして、移植を待つということは、健康な臓器を持つ人の死を待つということでもあります。

 

合理的に考えれば、意思を持って生きていける可能性がない人の健康な臓器を利用することで、一部の臓器の不調のために失われようとしている命が救われるのであれば、全体としてみてプラスということになります。臓器を提供する側も、そのことにより何か特別に損をするわけではありません。臓器を自身の力で活用できる状態にはないわけですし、臓器を取り出されることに痛みを感じることもないのでしょうし、葬られる遺体に一部の臓器が欠けていたとして何か特別に困るわけでもないでしょう。そして、受け取る側はより長く、或いは、より良く生きられることになるのです。提供する側のデメリットに比べ、受け取る側のメリットはあまりに大きいのです。

 

場合によっては、受ける側その人は、誰かの死を待ってまで自分が生きることに抵抗を感じるかもしれません。けれど、身近な親しい人には、誰かの臓器をもらっても生きて欲しいと願うものでしょう。

 

けれど、それでも、脳死状態になった人物と近しい人々にとって、臓器を取り出すことを受け入れるのは簡単なことではないでしょう。心臓が動いて体温も保たれている身近な人物を意思を持って生きる可能性がないものと捉えることは難しいことだと思います。

 

臓器移植という技術を持ったことで選択肢は広がった訳ですが、そのために悩みも増え、その選択肢を選べる者と選べない者と、格差が生じ...。IT技術が普及する前はITリテラシーの低さはハンディではなく、携帯電話が普及する前は携帯電話を使いこなせないことはハンディではなく、普通の人たちが文字を使えるようになる前は読み書きをできないことはハンディではありませんでした。新しい技術は、人の世に便利さや利益をもたらす一方で、恩恵にあずかれる者たちとそうでない者たちを分けてきましたし、その技術を活用すべきかどうか人々を悩ませてきました。

 

本作は臓器移植という現代的な課題について、そこに係る人々の日々をそれぞれの立場から描き、問題の深さ、厚みを提示しています。全体に表現が冗長な部分や無駄な部分が目立ち、そこは気になりましたが、本作の提起する問題は、進んだ医療技術の恩恵を受けられる可能性のある立場にある私たちにとって、考えておかねばならない問題でもあり、一度は観ておきたい作品だと思います。