1961年3月、スタンレー・ミルグラムは、イェール大学で、ホロコーストのメカニズムを解明しようと、ある実験を始めます。被験者に、"生徒"が質問に不正解の場合、電気ショックを与えるよう指示を与えます。不正解が増えると徐々に強いショックを与えるように言われ、最終的にはかなり危険なレベルまで強くしていきます。その度に、罰を与えられた"生徒"は苦痛を訴えるのですが(実際には"生徒"にショックは与えられておらず、苦痛を訴えるのは演技)、その時、被験者は、それでも指示に従って電気ショックを与えるのか、指示に抗い電気ショックをやめるのか...。予想に反して、多くの被験者は、危険なレベルの電気ショックを与えました。その結果は、社会に衝撃を与え...。

 

私たちにとっての"不都合な真実"が、示されています。ごく当たり前の人が、脅迫されたわけでもないのに、人に危害を加える行為をしてしまう。冷静に考えれば、指示に反したところで実験をする側に危害を加えられるはずのないことなど明白です。それでも、指示に従い、恨みなどあるはずもない相手痛めつけてしまう。困ったような表情で指示者を見たり、指示者に対し弱々しく反論したりすることはあっても、結局は従います。それも、左程、罪悪感を持たずに。

 

被験者たちは、実験に参加することを選択した時点で、指示者に従おうという気持ちにはなっていたことでしょうか。報酬も受け取るわけですし、協力しようという意思を持って参加していることでしょう。真面目で誠実な人ほど、指示者に従おうとするものなのかもしれません。例え、そのために苦しむ人がいるとしても、それを無視するよう指示されれば従ってしまう。自分が誰かに苦痛を与えているという負担から逃れるには、判断を指示者に委ね、思考停止するしかないということなのかもしれません。

 

モサドに囚われ裁判を受けるアイヒマンは、世紀の大悪人というより、その辺に当たり前にいそうな普通のおじいちゃんでした。残酷な犯罪をごく一部の特殊な特性を持つ者の問題と決め込んでしまえば、私たちの心理的な負担は軽くなることでしょう。けれど、例え、痛みを伴うことであったとしても、私たちが私たち自身の中の悪の可能性に向き合わない限り、組織的な残虐行為が途絶えることはないのだと思います。

 

本作の中心となっているアイヒマン実験の他、スモール・ワールド実験など、独創的な実験についても取り上げられています。アイヒマン実験とその社会的な影響、ミルグラム博士の半生、他の研究成果について、いろいろな要素が取り入れられていて、やや焦点がぼけてしまい、ちょっとごった煮な印象を受けました。

 

それでも、アイヒマン実験について、こうした形で取り上げるは、大きな意味を持つことでしょう。時として"右へ倣え"的な行動が現実世界よりも起こりやすいSNSの世界の影響力が強くなっている今、私たちはミルグラム博士が提示した問題に真剣に向き合うべきなのだと思います。

 

一度は観ておきたい作品だと思います。

 

それにしても、この邦題。これでは、ミルグラム博士がアイヒマンの後継者だと言っているようで、違和感がありました。かなり、誤解を生むのではないでしょうか。

 

 

公式サイト

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