エリートFBI捜査官ケイトは、巨大化するメキシコの麻薬カルテル殲滅のため、国防総省の特別部隊への"自主的な参加"を命じられ、謎のコロンビア人、アレハンドロとともにアメリカとメキシコの国境付近を拠点とする麻薬組織撲滅の極秘作戦に参加します。けれど、仲間の動きさえも把握できない常軌を逸した作戦内容や、人の命が簡単に失われていく現場に直面し...。

 

"正義"を行うために"不正義"を行っても良いのか、

"無法者"に対しては"無法"も許されるのか、

多数を守るためであれば少数を犠牲にしても良いのか、

考え始めても、グルグルと彷徨ってしまい、答えに辿り着くことが難しい問いです。

 

"不正義"を行う側にも、時として、致し方ない事情があったりします。人が生まれる環境を選べない以上、誰にでも、犯罪によってしか日々の糧を稼げない状況に置かれる可能性があったワケで、犯罪者だけを叩いても効果は得られないのでしょう。犯罪を犯罪として処置すると同時に、犯罪が生まれにくい環境を作らなければ、結局、誰かが捕らえられた者の後釜に座り、犯罪そのものは受け継がれていくのでしょう。

 

そして、多数を守るために少数を犠牲にしても良いのかと問う時、では多数の方が犠牲になるべきなのかという反論があるワケですが、その前に、本当に、少数を犠牲が必須なものなのか、或いは、少数が犠牲になることで本当に多数を守れるのか解決するのか、改めて問い直すべきなのではないかと思います。

 

本作のような場合でも、大物犯罪者を捕まえたり、殺したりしたところで、結局、他の誰かが取って代わるだけだったりすることが多いですし、逆に、事態を深刻化させることが少なくないというのも、私たちは歴史から学ぶことができるのです。

 

正義か悪か、正義のための悪は許されるのかという問題もあるのですが、その正義は本当に正義なのか、潰そうとしている悪は本当に悪なのか、潰すことで何とかなるものなのか、その部分に対する問いかけがもっとなされるべきなのではないかと思いました。

 

法が機能しない世界というのは確かに存在し、その中で身を護るためには非合法的な手段を取ることもやむを得ない...という状況は確かにあるのでしょうけれど、法を執行する立場にある者が、非合法的手段を前提としてしまうことの危うさにもっと敏感になる必要はあるのだと思います。

 

アルハンドロに抵抗するための十分な力を持ちえないながらも、必死に、抗おうとするケイトの姿が印象的です。暴走する"正義"に対し、私たちは何ができるのか、どうしようもない面があるにしても"正義"の暴走を歯止め無しに認めてしまったら、それは、いつか、普通の人の日常をも脅かすものになるのではないか...。

 

重く、モヤモヤとした空気に覆われた作品で、ちっともスッキリせずに終わってしまうのですが、正義が暴走しやすい今、本作のような視点を私たちは忘れてはならないのだと思います。

 

気力、体力を消耗する作品ではありますが、一度は観ておきたい作品だと思います。