ナチス・ドイツの戦犯、アドルフ・アイヒマンの裁判をTV放送し、世界にホロコーストの実態を知らしめようとした人々の姿を実話をもとに描いた作品。

ホロコーストに関与し、数多くのユダヤ人を強制収容所に送り込んだ元ナチス親衛隊将校、アドルフ・アイヒマンが、15年の逃亡生活の後、1960年にアルゼンチンで逮捕され、翌1961年、イスラエルで裁判が行われることになります。テレビプロデューサーのミルトン・フルックマンは、レオ・フルヴィッツに撮影監督を依頼し、裁判の模様を世界に向けてテレビで放送しようとますが...。

"ユダヤ人問題の最終解決(=ユダヤ人の大量殺戮)"を指揮したとされるアイヒマンが逮捕され、彼が虐殺したユダヤ人が建てたイスラエルで裁判を受けるわけですから、現代史において大きな出来事であることは間違いありません。作中でも示されますが、アイヒマン裁判が始まったのが4月11日、ガガーリンの地球一周が翌日の4月12日、1962年のキューバ危機の原因となるピッグス湾事件が起こるのが4月15日。東西冷戦が激化していく頃で、アイヒマン裁判以上に人々の関心を引く出来事が起こっています。

この裁判を傍聴し、残虐極まりない悪魔のようなアイヒマンを"凡庸な人間"と考察したのが哲学者ハンナ・アーレントで、彼女についての映画も、以前、見ています。アーレントは、そのことで非難されますが、当時の空気の中では、アイヒマンを"悪魔"だと考えるのが一般的で、それを"普通の人間"だと捉えることは、人間に対する裏切りというか、アイヒマンの"悪"を擁護していると受け止められ、非難される行為だったのでしょう。

本作でも述べられていますが、アイヒマンは家庭では子煩悩なよき父親だったと言われています。そして、アルゼンチンで偽名を使って平凡な一市民として生活していた彼がアイヒマンであるとイスラエルの諜報機関が判断した直接の証拠は、妻の誕生日に花屋で妻に贈る花を購入したこと。そんな彼が、大勢のユダヤ人の子どもたちをガス室に送り込み、逮捕されてからもそれを後悔する様子を見せなかったというのです。

"ミルグラム実験"と呼ばれている実験があります。アイヒマンの裁判の翌年の1962年、"アイヒマンはじめ多くの戦争犯罪を実行したナチス戦犯たちは、特殊な人物であったのか、家族の誕生日に花を贈るような平凡な市民であっても、一定の条件下では、残虐行為を犯すものなのか"という疑問が提起され、それを検証しようと実施されたもので、"アイヒマン実験"とも言われています。そして同様の実験に"スタンフォード監獄実験"と呼ばれる実験があり、映画「es」や「エクスペリメント」でも取り上げられていますが、いずれの実験でも、ごく普通の人間でも、一定の状況下に置かれれば、非人道的なことを行うものであることが実証されています。そして、意外なほどに、自身の"残虐的な行為"に対して後悔や反省がないものであることも。残念なことに、人は、閉鎖的な状況で、命令を受ければ、意外なほど、平気で残虐なことを行い、躊躇することさえないものだということ。自分自身で考え判断してユダヤ人をガス室に送り込むことは難しくても、自身が従うべき相手であるヒトラーの意思に沿うためなら残酷な判断を下すことができるのです。その冷徹な事実に、私たちはどこまできちんと向き合えるのか...。

この"凡庸な人間であったアイヒマンが、大量虐殺を積極的に推し進めたのは何故か"という疑問へのフルヴィッツの拘りは、彼のセリフから伝わってくるのですが、彼が、何故、そうした疑問を抱くようになり、その"何故"をどのように解明しようとしたのかが、今一つ実感できませんでした。彼の疑問を解明するためには、ナチスという組織の性格やアイヒマンの置かれた状況などに対する考察が必要なわけで、アイヒマンの表情を映すだけでは、難しいと思うのです。裁判で、その辺りのことに対する遣り取りがあったのかどうかは分かりませんが、ナチスの行ったことの映像と、被害者の証言でその謎に迫るというのは、そもそも無理があるのではないかと...。

"難しい条件を克服し、様々な妨害にも屈することなく、ジャーナリストの責務として、歴史上の大きな出来事を記録した"という部分、そして、隠されていた事実が事実として表面化されることで、被害を受けたものも救われていくという部分に焦点を絞った方が良かったのではないかと思います。フルックマンやフルヴィッツが行ったこととそのことの意義について、もう少し、丁寧に描いて欲しかったような...。アイヒマン裁判から55年経った今、公開される作品である以上、彼らのしたことが歴史の中でどのような意味を持つのか、その辺りの考察も欲しかったです。

段々、"ナチスが何をしたか"にテーマが移っていき、"フルックマンやフルヴィッツの行為の歴史的意義"という部分が薄くなってしまった感じがします。もちろん、ナチスの行為については、それはそれできちんと描かれるべきことなのですが、本作はそこが中心ではないと思うのです。

本作を観ていると、フルックマンやフルヴィッツが何をしたかということよりも、アイヒマン裁判の映像を観た当時の人々を追体験しているような感じがします。最初は、フルックマンやフルヴィッツに当てられていた視点が、アイヒマン裁判そのものに移っていき、やがて、記録映像を観るアイヒマンの視点と重なっていきます。それはそれで、描き方の面白さは感じられたのですが、映画作品としては焦点がぼけてしまったような...。

描かれている内容自体も本作に登場する記録映像も、私たちにとって知っておくべきことであることは確かです。そして、ホロコーストのような大きな出来事も、時として、事実として受け止められるまで紆余曲折があるものだということも認識すべきことなのでしょう。

一度は観ておくべき作品だと思います。


公式サイト
http://eichmann-show.jp/


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