2009年にイギリスで出版された、ジャーナリストのマーティン・シックススミスが、フィロミナ・リーとともに、彼女の息子探しをした経緯を書いた「フィロミナ・リーの失われた子供」を映画化した作品。原作は未読です。


1952年、アイルランド。、結婚せずに身籠ったフィロミナは、ロスクレアにある修道院に入れられます。そこには、同じような境遇の女性たちがたくさん収容され、洗濯などの仕事に追われる日々を過ごしていました。それでも、1日に1時間だけ、自分の子どもに会える時間が心の支えになっていました。けれど、ある日、フィロミナの息子、アンソニーは、養子に出されることになり、アメリカ人夫妻に連れ出されてしまいます。それから、50年、アンソニーの存在を打ち明けられた、フィロミナの娘、ジェーンは、パーティ会場で知り合ったジャーナリスト、マーティンにアンソニー探しを依頼します。一旦は、断ったマーティンでしたが...。


フィロミナがアンソニーを出産した頃の時代背景や彼女を取り巻く宗教的事情を考えれば、修道院が、子どもたちを養子に出したこと自体は仕方のないことだったかもしれません。その際に、費用を取ったことも、修道院の経営を考えればやむを得ないことだったかもしれません。そして、フィロミナ自身が言うように、アンソニーは、養子に出されたことで、"より良い人生"を歩むことができたのかもしれません。それでも、母の消息を求めてやって来たアンソニーに、アンソニーに関する情報を得ようとやって来たフィロミナに、嘘をついたのは、修道院の大きな罪だったと言わざるを得ないでしょう。(実際に、1959年から89年までの間に数回、アンソニーは1977年と1993年に修道院を訪れたそうです。)


例え、フィロミナたちが大罪を犯していたとしても、聖職者だからとフィロミナたちに罰を与えて良かったのか...。人を裁き、罰する権利は、神にのみ与えられているのではないか...。そもそも、いくら聖職者であっても、神に代わって裁きを行い、罰を与えるのは、僭越というものではないか...。


けれど、フィロミナは、赦しを告げます。彼女の信仰心の篤さが、彼女の犯した"罪"の重さを深く自覚させるからこそ、赦しが可能だったのでしょう。


人は誰でも罪を負っているのだとすれば、他人の自分に対する罪を赦すべきなのでしょう。どんなに過酷な運命であったとしても、それが、神の意思に基づいているのであれば、受け入れるしかないのでしょう。修道院の悪を生みだしたのも宗教ならば、フィロミナの広い心を作り上げたのも宗教。理不尽な運命に翻弄されながらも、神を信じ、明るさやユーモアを忘れることなく、誠実に、逞しく生きてきたフィロミナを支えてきたのは、間違いなく信仰でした。


一方で、フィロミナの最後の決意。修道院の罪を赦すけれど、その事実は社会に伝える。そこに、フィロミナの決意が感じられます。ただ、無知で無垢な田舎のオバアさんというだけではないフィロミナの凛とした一面。


必要以上に感情に訴えるではなく、悪を激しく糾弾しようとするのでもなく、上質なユーモアを交えながら人生の複雑さと豊かさを描いています。そして、70歳近い女性を可愛らしく、純真でありながら、しなやかな強さを持つフィロミナを見事に実在させているジュディ・デンチがさすがの名演で、本作の味わいを支えています。出番は僅かなのですが、敵役となっているシスター・ヒルデガーを演じたバーバラ・ジェフォードも、聖職者として自制してきたことへの矜持と寂しさを醸し出していて印象的でした。


未婚の母や男性を誘惑したとされた女性たちが、修道院に収容され、洗濯などの労働をさせられていた...という話は、映画「マグダレンの祈り 」にも描かれていますが、1996年まで、こうしたことが、実際に行われていたとのこと。


一度は観ておきたい作品だと思います。



公式サイト

http://www.mother-son.jp/