1970年に発表されたものの、子どもが生きるために人を殺し人肉を喰らうという過激な描写が賛否を巻き起こし、発禁処分となったジョージ秋山の漫画「アシュラ」を映画化した作品。


15世紀中期。相次ぐ洪水、旱魃、飢饉で荒野と化した京都では、さらに追い打ちをかけるように日本史上最大の内戦、応仁の乱が始まります。そんな時代に産み落とされたアシュラは、飢えた母親に食べられそうになったところを何とか逃れ、その後の日々をケダモノとしてサバイバルを続けながら生き抜いていきます。けれど、そのサバイバルの日々の中、法師の教えに触れ、また、若狭という少女と出会い、その優しさと愛に触れたことから、次第に人間の心を得ていきます。少しずつ、言葉を覚え、笑うこともできるようになり...。けれど、そのことによって、アシュラは、初めて苦しみや悲しみも知るようになります。やがて天災のために、人々は飢え、村は地獄のような状態になっていき...。



アシュラが人肉を食べたのは、単に、飢えを癒し生きるためではないのでしょう。母親に食べられそうになったトラウマ、そして、他人から愛されず信頼されない哀しさなのだと思います。前半では、どちらかというと、"飢え"が大きな部分を占め、後半では、"孤独や寂しさ、哀しさ"が動機となっている部分が大きいように思えます。肉体的な飢えも精神的な渇きも、アシュラを人肉食に走らせる動機になったのです。


そして、危機的な状況に追い込まれた時、切羽詰まった時の人間の残酷さ、醜悪さ。けれど、生きるために誇りも道徳心も捨ててとことん醜くなれるのは、人間の強さでもあるのです。何があっても何としても生き残る。その意思は、時として不道徳で不法な行為を生みだしてしまいます。けれど、誰が、その行為を責め、罰することができるのか...。


さらに、アシュラと他の人々との関わり。他の人間が単に敵だったり、"食べ物"だった時には、人を殺し、食しても躊躇いも、苦しみも感じなかったアシュラが、法師や若狭と関わる中で、生きる苦しみにのた打ち回る姿を見せるようになります。けれど、アシュラは法師や若狭と出会わなかった時の方が幸せだったわけではありません。人は他人との関係の中で苦しみもし、傷つけられもするものですが、それでも、それが本当の意味で癒されるためには、人との関わりが不可欠なのです。


人との関わりの中で変化していくアシュラの表情と画期的に伸びていくコミュニケーション能力。改めて人は人の中でこそ人間として生きるのとができるものだということを実感させられました。


若狭によって救われたアシュラは、若狭によってさらに苦しむことになり、人間の哀しさを知ります。若狭と七郎の関係を知った時のアシュラの嫉妬、荒れ狂う心。呼び覚まされるアシュラの中に眠っていて攻撃性。この辺りのアシュラの内面の変化が痛々しく、胸に沁みました。


若狭の命を救おうと馬の肉を届けても、若狭はその肉を人肉だと疑い食べようとしません。若狭が、何故、そこまで、アシュラの気持ちを拒否したのか。七郎を攻撃したアシュラがそこまで許せなかったのか。


人肉食の部分が強調される様な形での前評判がたっていますが、それよりも、社会における格差や差別、貧困や飢えにより産みだされる精神の荒廃、有史以来、なかなか解決されることのない人間社会における問題を描きながら、人間が生きることそのものを問おうとしている作品のように思えました。


ラストのアシュラの姿に至る過程が省かれてしまったのは、あまりにもったいない気がしました。法師との邂逅があっても、若狭との幸福な時間があっても、それだけでは、自分の中の攻撃性を完全に消すことはできなかったアシュラが、どのような過程を経て、仏の道を歩むようになったのか。そこは、やはり、本作のキモとなるべき部分だと思います。75分という上映時間の短い作品です。もっと長い作品になったとしても、そこは、描くべきではなかったかと...。


その辺り、原作ではどうなっているのか気になります。原作も読んでみたくなりました。



公式サイト

http://asura-movie.com/