文芸評論家の川本三郎が、自身の新聞社入社し、ジャーナリストとして過ごした1969年から72年までの日々を綴ったノンフィクションを映画化した作品。


1969年1月18日から19日にかけて、大学から依頼を受けた警視庁が、暴力的手段により東京大学本郷キャンパスを占拠していた全学共闘会議及び新左翼の学生を排除した"東大安田講堂攻防戦"。それを見ていて、ジャーナリストを目指した沢田は、新聞社で週刊誌記者として働きながら、活動家たちを追いかけていました。その取材の中で、沢田は、梅山と名乗る男から接触を受けます。沢田は、先輩記者に梅山との接触について警告を受けながらも、彼に惹かれていき...。


口先だけで行動は起こさない、事を起こして失敗してもその責任は負わず他人のせいにする、それでありながら、威張り散らし、周囲を威圧し、自分に従わせようとする。安っぽい偽者感を漂わせる梅山の浮ついた雰囲気を松山ケンイチが見事に表現しています。


その梅山に騙される沢田。けれど、沢田も梅山の胡散臭さに全く気づいていないわけではありませんでした。後から振り返ってみれば、何故、騙されてしまったのか、彼自身が一番不思議だったのではないでしょうか?こんな簡単なペテンに引っかかってしまったのは、沢田にも隙があったから。"ジャーナリストとしてスクープをものにしたい"、それも、活動家関係でという沢田の夢。それは、彼を仕事に向かわせるエネルギーではありましたが、同時に、彼にとっての最大の弱点で、そこのとへの自覚がなさ過ぎたのでしょう。そして、信じたかったものを信じてしまった...。


自衛隊基地への侵入について、マスコミに取り上げてもらいたかった梅山は、沢田に言います。「あの記事が載れば、僕たちは本物になれるんだよ」と。そう、梅山は、分かっていたのです。自分が本物でないことを。だから、本物になりたいと切望したのでしょう。本物であった活動家たちは、そんな風に自分たちをマスコミに売り込んだりはしませんでした。


その"自分が偽者であることの自覚"が、沢田の方が薄かったのかもしれません。その差が、梅山をして"騙すこと"を成功させ、沢田を"騙される側"に置いたのかもしれません。


そして、梅山は活動家としては偽者だったけれど、何か大きなことを成し遂げたいという気持ちは本物だったのでしょう。その本物が彼の嘘臭さの中から顔を覗かせていたから、沢田もそこに賭けたいという気持ちを抑えることができなかったのかもしれません。


CCRの「雨を見たかい」とか、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」とかで共鳴しあう姿が出てきますが、そんなところにも、夢を手に入れられない苛立ちを感じながら、仲間を求め合う若者の心情が上手く表現されていたと思います。


学生運動が盛り上がり、若者たちが熱狂した時代、自分たちが世の中を変える力になれるかもしれないと信じられた時代の熱さを感じながら、少々、乗り遅れた梅山と沢田。だからこそ、強く憧れ、"本物"になりたいと願ったのかもしれません。


その時代の熱狂をリアルには知らない世代に属する私から見ると、政治がどうこうとか、社会を良くしようとか言うよりは、その熱狂の渦に浸る興奮の魅力に絡め取られていただけのようにも見えます。それから時を経たバブル時代の熱狂と比較しても、その2つの間に大きな質の差が感じられません。もしかしたら、全共闘の時代から遡った戦争前の熱狂もこれと似たものがあったのかもしれない...とさえ思えてきます。


ラスト。沢田は、最後に涙を流します。「泣く男」を否定していた沢田が。作中で、表紙モデルの女子高生と梅山が違った角度から「真夜中のカウボーイ」でダスティン・ホフマンが泣くシーンについて語ります。そして、このラスト。沢田は、ここで泣いて"本物"になったということなのかもしれません。印象的なラストシーンでした。


本作が、どの程度、その時代の空気をきちんと表現しているのか、伝えているのかについては、その時代を経験していない者としては判断しかねるところです。けれど、いつの時代の若者にもある危うさと儚さのようなものが丁寧に描かれていたと思います。


本作の始まりは1969年1月の安田講堂の攻防戦、終わりは中上健二原作の映画「十九歳の地図」が公開された1979年。作中で、約10年間の年月が流れています。たったの10年で熱狂は忘れられ、多くの活動家たちは、資本主義を担う立場に立ち居地を変えています。世の移り変わりの儚さが感じられます。


きっと、多くの人が何らかの形で巻き込まれたり、直接的にではなくても影響を受けた全共闘運動。そこには、沢田や梅山のように地に足着かない夢に翻弄され傷ついた若者も大勢いたはず。騙した梅山も騙された沢田も同じ時代の熱狂を共有したのです。


でも、一番、大がかりに騙したのは、その若者たちの運動を潰し、社会の仕組みの中に取り込み、その彼らを資本主義の担い手として汗水流させ、高度経済成長を成し遂げる原動力とし、経済成長の甘い汁を吸った"狡猾な大人たち"だったのかもしれません。


そこが描かれていたら、かなりな傑作になっていたのではないかと思ったり...。



公式サイト

http://mbp-movie.com/



マイ・バック・ページ@ぴあ映画生活