フィリップ・モスは、娘の誕生日に成長の様子を撮ろうと8ミリカメラを買いますが、妻のイルカは、給料2カ月分もの大金をかけてカメラを買う気持ちを理解できませんでした。ある日、フィリップは、上司のオスチュとともに、工場長に呼ばれ、工場の25周年式典の様子を撮るように言われます。フィリップは、その命に忠実に、自分なりに工夫をしながら撮影、編集をこなします。工場長に数箇所のカットを命じられますが、そのフィルムが、たまたま中央のアマチュア映画協会のアンヌに気に入られ、コンクールへの応募を勧められます。このコンクールで入賞したフィリップは、映画作りにのめりこむようになり...。


何か"作品"を作り上げ、それを人に見せる、特にTVのように社会的に知らしめるような形で発表するということは、大きな波紋をよぶことになります。


ごく内輪の人々のためのものだったはずの映画製作。それが、ひょんなことから、多くの人の目に接する作品の制作"に変わっていく時、その作品で行われている表現が、製作者の思惑を超えた形で周囲に影響を与えていきます。


モスは、純粋に、現実をとり、真実を伝えようとしたのでしょう。それは、確かに正しいことであり、善きことであったに違いありません。モスの行為は正しいものだったでしょう。けれど、時として、真実が明らかにされない中での方が、安穏と生きていられるもの。真実がさらけ出されるより、安心感が失われ不安が呼び覚まされることは珍しくないでしょう。少なくとも、短期的に見えば、臭い真実には蓋をしておいた方が、安心できてしまったりするもの。それを覆される不安により、人々は真実から目を背けようとし、問題を先送りしてしまうのでしょう。


モスは、8ミリカメラという表現手段を得たことで、その力に気付かぬままに、社会の暗部をつついてしまうのです。それは、人々の生活の背景にある闇に光を当てる行為ですが、それだけに、周囲の反発を生みます。


モスの映画のために退職に追い込まれる上司、オスチュの言葉が印象的です。モスも貫き通せば、何かを変えられたかもしれませんし、何かを救えたかもしれません。けれど、モスにその覚悟をする強さがあったのか?


表現をし、それを人に伝える、多くの人の目にさらす、それを貫き通すためには、どれ程の覚悟が必要か。モスの悲劇は、そこにあまりに無自覚だったところにあったのかもしれません。


本作は、キェシロフスキ監督の"表現者"としての覚悟の表現でもあるように思えました。


ラスト、カメラの前で語るモスの何とも言えない表情が脳裏に残ります。"作品"を生み出すこと、それを広く公表すること、そのことの力の大きさと恐ろしさ、そして、自分を表現できることの喜びについて考えされられます。


一見の価値アリです。



アマチュア@映画生活