世間体ばかりを気にする父親と上辺だけの愛情しか持てない母親。そんな両親に育てられ、親からの愛情に飢えている真人。そんな真人は、生まれて間もない頃に自分を誘拐した女性を訪ねて沖縄へバイクを飛ばします。真人は入院中の夫を看病しながら地方で小さな食堂を営む愛子の元で、愛子がかつて自分につけた良介という名前を名乗って住み込みのアルバイトをすることになります。いつも寂しげで滅多に他人に心を開こうとしない愛子でしたが、二人の間には、徐々に、親子とも恋人ともいえない奇妙な愛情関係が生まれ...。

真人の、そして、愛子の寂しさ、愛情を求める気持ちが切ないです。


親子とは何か。もちろん、血の繋がりだけではないことは確か。血の繋がりはあっても心は離れた親子もいれば、血は繋がらなくとも心は繋がる親子もあるわけで...。


けれど、結局、何も解決されないままに映画はラストを迎えます。真人と愛子の関係も、愛子とミカの親子関係と愛子とその夫の夫婦関係も、真人と父親との関係も、様々な問題を抱えたまま、物語は終わってしまうのです。


愛子という母親からの旅立ちを思わせる場面で終わっても良かったと思うのですが、その後に、その数年後の場面が映されます。東京でミカに再会するもののミカの態度は相変わらず。思い立って沖縄を訪ねても、かつて、愛子がいた場所は廃墟となっていて、愛子の行方も分かりません。(何故、愛子の友人がママをするスナックを訪ねなかったのかという疑問が残りますが...。)真人には、甘える場所も頼るものもなくなったのだと印象付けられます。そして、観る者は、その後の真人や愛子の生き方を考えさせられます。


この先、真人は、ミカは、どんな人生を生きるのか。真人は、実の両親の行き方を受け入れることにより本当の意味で大人になり、ミカは、愛子の人生を受け入れた時に初めて大人になれるのではないかと思います。そういう意味では、二人とも未だ子ども。まだ、青春の日々が続くのでしょう。だからこそ、何も解決されないままに終わったのかもしれません。


残念に感じたのは、真人の実の母の描き方。あまりに、愚かな冷たい母親に見えました。けれど、本当は、真人が誘拐された時間が彼女に与えた傷の影響があったのでしょう。子どもが生まれれば当然のこととして子どもを可愛く思える。そんなものではありません。「母性神話」というものは根強くこの世を覆っているわけですが、母性は本能ではありません。一緒に過ごす時間と密度により絆は作られていくのです。それが上手くいかなければ、親が子に、子が親に、どうしようもない憎しみを抱くことは、悲しいことかもしれませんが、十分に起こり得ること。


考えてみれば、真人の実の母は、この「母性神話」に押しつぶされた犠牲者だったのかもしれません。引き離された時間により苦しめられ、しっくりしないものを感じながらの子育て。その過程で、自分の「母性」を証明し、自分が「良い母親」だと証明するものこそが幼い真人を無事取り戻した後の記者会見の映像だったとしたら...。


その辺りが描けていると、もっと、真人を包み込む運命の切なさのようなものが感じられたのではないかと思います。


真人も、その両親も、愛子も、ミカも、真人を沖縄まで追ってきて自殺した紗代も、ミカも、愛子の夫も...。誰もが幸せではありません。そして、本作に登場する親子、真人と実の両親、真人と愛子、愛子とミカ、ミかとその父、紗代とお腹の子、お腹のことその父親、紗代とその親...。真人と実の両親の間には暖かい感情の交流はなく、ミカは愛子に反抗してばかり、紗代はお腹の子を産むことができず、お腹の子はその父からも捨てられ、紗代は自分の危機の時も両親に救いを求められず、両親を最も悲しませるであろう行動をとります。この中で、唯一、親子らしい愛情のある関係を築けたのが真人と愛子。その真人と愛子を結びつけるきっかけが、犯罪だったとは、何とも皮肉です。


その人々の不幸を包み込むような沖縄の美しい海の映像が印象的でした。それこそが、人々を優しく育む子宮だったのかもしれません。


そして、そう考えると、自分の子宮の中に、イザという時に頼りにはならなかったオトコの子どもを宿し、はるばる追いかけた真人にも救われず、海の中に身を投げた紗代の悲劇がより迫ってくるように思えました。


地味ですが、考えさせられるところの多い作品です。


公式HP

http://www.shikyu-kioku.com/



子宮の記憶 ここにあなたがいる@映画生活