東宝
愛を乞うひと

照恵は、亡父の遺骨を探しますが、なかなか見つけられません。娘の深草の提案もあり、亡父の故郷、台湾へ行き、手がかりを辿りますが、その過程の中で、照恵は、母の豊子から酷く虐待された過去を甦らせます。ついに、亡父の遺骨とめぐり合った照恵は、心の中でその存在を消し去ろうとしていた母、豊子を訪ねることを決心し...。




[以下、ネタバレあり]







虐待の場面など、目を背けたくなる場面もありました。確かに、子どもの存在が鬱陶しくなる時はあるでしょう。子どものすることにイライラすることもあるでしょう。言うことを効かず腹が立つことも、情けなくて泣きたくなることも、叩きたくなることもあるでしょう。けれど、泣いて逃げる子どもを追いかけて怪我するほど叩き殴り蹴り続けるというところになると、やはり、理解を超えてしまいます。子どもへの虐待が、実際に、現在の私たちの社会の中でも相当数起こっているということは事実なのですが...。


豊子に虐げられ続けた照恵は、悲惨な子ども時代の中から立ち上がり、豊子の元を逃げ出し、自分の人生を歩んでいきます。やがて、娘を授かり、ぎこちなさは見せながらも、娘を虐待することなく、愛情を持って育てます。そこには、被虐待児が徐々に力を付け、自分の人生を生き抜いていく姿があります。人間の負の遺産をプラスへ転化する可能性が表現されていて、この作品の特に前半部分を占める重い雰囲気を多少なりとも和らげています。


豊子の虐待から逃れる術を持たなかった照恵は、自分の収入を得られるようになったことで、豊子から離れる力を得ます。自分を受け入れてくれる男性と出会い、娘を授かり、やがて、過去と向き合う力を得ます。亡父の遺骨を探す旅は、自分の人生を確認する旅でもあり、母の自分への愛情の欠片を探す旅でもありました。そして、過去と向き合うことにより、豊子を赦せるようになります。


誰かに辛い目にあわされて、酷い仕打ちをされて、人生を歪められて...、それでも、恨みを抱き続けている限り、人は幸せにはなれないものなのかもしれません。どんなに悔しくても、その相手を許すことでしか始まらないものがあるのでしょう。


恨み続けるということ、憎み続けるということは、その相手と心中する、その相手と長い人生を共にするということなのかもしれません。その相手から自由になるには、どんなに辛く大きな不幸を背負っていたとしても自身の人生を受け入れ、相手を許すという過程を避けては通れないのかもしれません。


照恵は、豊子に会い、豊子への恨みではなく、豊子との幸せな想い出を語ります。それは、豊子を許す行為であると同時に自分自身を受け入れるために必要な行為であったに違いありません。自分を産んだ母が自分を好意的に受け入れてくれた事実があったこと、そのことは、人が自分自身を受け入れるために、自分自身を大切に思えるようになるために、避けて通れないことなのだと思います。


照恵の言葉を聞き、照恵と深草の姿を見た豊子は、何を想ったのでしょう。


ラストの場面で、照恵は、豊子が穏やかに夫婦二人の生活を送っているであろうことを知り、豊子は、照恵が可愛い娘を持つ幸せな母となったことを知ります。強烈な確執を経験した母娘が、別れ、長い年月を経て、再開する。そこには、大きな不幸を乗り越えた二人の姿が見えます。最終的には、豊子は、望んでも望んでも得られなかった「夫との幸せな生活」を、照恵は、夢見ながらも叶えられなかった「幸せな母娘の生活」を得ることができたのです。そして、二人の再会の時は、自分の不幸の原因を娘に見出すことしかできなかった母とその母の呪縛から逃れることのできなかった娘。この二人が、互いに相手から自由になり、一人の人間として自立することができたことを確認しあった瞬間だったように思えました。


赦しについて、母娘の関係について、女性の生き方について、考えさせられました。


それにしても、原田美枝子の演技は印象的でした。鬼のような虐待母、豊子と、深草を慈しむ照恵の二役を見事にこなしています。ラストの照恵と豊子の対決は息を呑むような迫力がありました。





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