「国防」の義務がない日本 | 同床異夢

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 世の中、徴兵制、徴兵制と騒いでいるようだが、なぜなのか?

集団的自衛権の解釈変更が閣議決定したら、国会の前では主催者発表で2000人の人が集まったデモが行われたり(実際は140人)マスコミは連日「徴兵制になる」などと騒いでいる。

騒いでいるのは、赤字経営で苦しむアカヒ系列と毎日系列である。
集団的自衛権と徴兵制がどのように繋がるのかよくわからないが、彼らの理論は

集団的自衛権により他国の戦争に巻き込まれ、そこで自衛隊員の死者が出ると、現役隊員が辞めて隊員の数が足りなくなるので、必然的に国民が兵隊になる必要がある」

まず思ったのは、今まで、「自衛隊は違憲だ!」と主張していたのは誰だったのか・・・ということだ

そして、「集団的自衛権」がどういうものかという説明はなく、突然「徴兵制!」という言葉を際立たせる。「特定秘密保護法」「原発再稼働」も同じやり方だった。

集団的自衛権はどこの国も保持していて、国連憲章にも明記されている。
因みに特定秘密保護法も他国では、もっと厳密な法律があり、原発もドイツですら稼働している。
この事を考えただけでも、日本の世論が異常であることがよくわかる。

集団的自衛権とは佐藤内閣の時に「その権利は持っているが、行使は出来ない」という解釈を法制局が行った。これをわかりやすく言えば、
「あなたの指定席は用意してありますが、そこには座れません」
と言っているような解釈である。

それをこの度、限定的に解除して一部の事例において行使出来るようにしたわけである。
矛盾しているおかしな解釈を是正しただけだ。それも、全部ではなくごく一部。

他国で限定的容認などとしている国はどこにもない。
それが行使されると、なぜ徴兵制になるのだろうか?
皆で協力して困難を乗り切ろうという考え方を、日本だけ

「命がほしいから、協力出来ません」「でも、私の命は守ってね」

と言っていたのだ。とても厚かましく情けないことである。

因みに、この閣議決定を批判している国は、普段反日をしている中国と韓国である。
そして、日本の朝日と毎日・・・偶然だろうか?

アメリカは現在も志願制である。イラクで多くの兵隊が亡くなっているが徴兵制になっていない。
集団的自衛権と徴兵制というのは、全く結びつかない事が頻繁に戦争をしているアメリカを見てもわかる。それに、他国はオーストラリアにしろニュージーランドにしろタイにしろ集団的自衛権の行使をしているが、他国の戦争に巻き込まれていない。

国連の平和維持活動に参加していて、今までは日本は国連の職員を守る事も出来なかった。
他国から見れば、日本だけなぜ危ないことをしないのか?と不信に思うだろう。

とにかく自分の命が大事、自分が生きるためなら国がどうなろうと関係ないし、自分のために人が死ぬのはよいが、人のために自分が犠牲になるのはゴメンだ。

この考え方を戦後、長きにわたって教育されてきてしまったので、日本人に国を守るという意識が
喪失している。どこの国でも国民には「国防」の義務がある。
その義務がないと、国が滅んでしまうからだ。しかし、現在の多くの日本人にはその国家観がまるでない。
つまり、「徴兵制」と聞いてアレルギーになる国民が圧倒的に多いことに、問題があると思うのである。もし国に危機が迫った時は、国民が立ち上がってそれに対応しなければならないのに、そういう意識はないのか?と疑問に思う。

「徴兵制」が大問題のように言われるが、隣の台湾や韓国は今でも兵役の義務がある。
ドイツやスイスはこの間まで徴兵制だったし、イスラエルは現在もそうである。

「集団的自衛権」と「徴兵制」とは全く関係がないが、「徴兵制」という言葉に拒否反応を示す国民が圧倒的に多いのは問題ではないだろうか?

教育勅語の一説に「一旦緩急あれば義勇公に奉じ」というのがある。

国家に危機が迫ったら、国民が勇気を奮い立たせて協力して対処しよう。
という意味だ。
私は、至極まっとうなフレーズだと思うが、現在の日本ではこの意志が薄れているようだ。
国家として生存していく気持ちが薄らいでいると言ってもよいかもしれない。

極端な話だが、

日本が危機的な状況になった時に「徴兵制」になって何か問題ですか?

くらいの意見が主流にならなければ、普通の国とは言えないように思う。
こういう事を書くと「右翼!」などと言われるのだが、戦前、戦中の兵隊さん達の遺書を読めば
その気持ちが、溢れんばかりに書かれている。
皆、純粋に日本の事を大事に思っていたことがわかる。

翻って現在、そのように考えている日本人が国会議員も含めてどの程度いるだろうか?
日本を大事に思うことが「右翼」としてレッテル張りをされて、忌み嫌われるのであれば、日本は日本でなくなるであろう。