日本三大山城の一つ備中松山城は、標高430mの小松山山頂にあります。
城見橋公園駐車場よりシャトルバスがピストン輸送してくれるので、
ふいご峠でバスを降りてから、徒歩でゆっくり登ります。
要所には登城心得の立て札があり楽しめます。
この先足元悪しきにつき 気をつけて歩むべし 城主
崩れそうな道や石段が続いています。
この石垣は上太鼓丸跡
登城心得
この辺りがちょうど中間地点である しばし休まれよ 城主
お城の石垣が迫って来ました!
2本の木が植わってる場所は三の丸です。
これを登ると二の丸です。
ふいご峠から20分程登ると、お城が見えて来ました!
現存天守と平成9年には櫓も2棟復元されて、随分見栄え良くなっています。
このお城に登ると山登りの達成感があるので、皆さんにもお勧めします。
二の丸跡には与謝野寛(鉄幹)の歌碑がありました。
眼下を眺めると、やはり短歌のとおりに朝霧で覆われて白くなっています!
秋空の下、天空のお城にはピンクの秋明菊が咲き誇っていました。
歴代の備中松山城主は下図のとおりです。
鎌倉時代に、地頭の秋庭氏が臥牛山の大松山に砦を築いたのが始まりで、
城を築いた水谷家は三代目が急死して無嗣断絶となり、
城受け取りに来た浅野家は、7年後に赤穂事件でお家断絶となりました。
これは皮肉な巡り合わせとしてよく知られてますね。
幕末の藩主板倉勝静は松平定信の孫(8代将軍徳川吉宗から数えれば玄孫)で、
老中の一人として五稜郭まで行って戦いましたが敗北します。
エピソード (Wikより)
生前に板倉勝静とは身分を越えた友人であった勝海舟は、
「あのような時代(幕末)でなければ、祖父の(松平)定信公以上の名君になれていたであろう。
巡り会わせが不幸だったとしか言いようが無い」と語っている。
幕末の幕臣としては、最後まで忠誠を尽くした忠臣と言えよう。
旧主の慶喜が赦免後に幕府のために命を捧げた家臣たちのことも考えずに、
悠々自適の生活を送っていると知ると、
勝静は激怒して、「あのような主君に仕えた自分が誤っていた。」と、語ったという。