蒼き青春の軌跡

 

       第三章  アダムとイブ

            (三の二)

 

 快適に登り繋いで、五ピッチ目のピナクルのあるルートを松尾がトップで登り始める。 岩が被さったようになっていて先のルートが見えず、踏ん切りがつかない。 ちょっと戻って、既に打ってあったハーケンの効き具合を確かめて再びチャレンジした。 一メートルほど登って被さった岩の上に手を伸ばすと、ちょうどホールドがあった。 ホッとしてぐっと体を引き上げる。 がっちりと掴んだはずのホールドがグラッと動いた。

 「やばい!」

叫んだのと、体が空中に放り出されるのが同時だった。 真っ逆さまになった視野に、横尾谷がいっぱいに見え松尾にグングン迫ってくる。

 「ウワアー!」 松尾は声にならない声を上げていた。

ガクンという衝撃で横尾谷が止まった。 松尾はザイルを掴んですぐに体勢を立て直そうとしたが、息が切れ膝がガクガクと震えている。 苦しい。

 「大丈夫か」

ビレーしている若井が大声で聞いてきた。 息が切れて声が出せないので、手でロープダウンするように合図した。 ゆっくりとザイルが下がっていき、二メートルほど下のテラスに足がついた。 墜落前に確認したハーケンが、がっちりとビレーしてくれていた。

 「どうする? ここまで下りるかい」

再び若井が大声で聞いてくる。

 「いや、いい。 もう一回やってみるよ」

 

 ひざの震えが収まるのを待って、再び松尾は登り始めた。 墜落して久しぶりにカッカとしていた。 岩に対する闘争心が燃え上がってくるようだった。

さっきはフリーで抜けようとしたが、今度はビレーを取っていたハーケンをホールドにした。 そしてピナクルの出口に見える小さな割れ目に、ハーケンを打ち込む。 キンキンという小気味よい音をさせて、ハーケンは岩に食い込んでいった。 ハーケンに慎重にアブミを掛け体を乗せていくと、ハーケンが少ししなった。 

 墜落の恐怖で背中に冷や汗が吹き出す。 出口から顔を覗かせると、さっき抜けた岩の跡が白っぽく残っている。 皮肉にもその僅か十センチほど上のところに、残置ハーケンが打ってあった。 急いでカラビナをかけて若井に

 「このアブミ、置いていくよ」

と声を掛けて乗っ越した。 あとは傾斜が落ちて階段状になっていた。 ザイルをいっぱいに延ばしたところに大きなハイマツの根があり、ゆっくりと座ってビレーを取った。 もう実質的に登攀は終わっていた。 ザイルを引き上げると若井は息を弾ませながらやって来た。 時々、ヘルメットを右手で押し上げるようにしながら、浮石を踏まぬように慎重に登って来る。

 「大丈夫? なかなかかっこいい落ち方だったよ」

笑いながら、若井は言った。

 「久しぶりの体験でした。 しかし屏風で落ちるとわねー。 恥ずかしいから誰にも言わないでよ」

 「証拠写真を撮っとけばよかったな。 惜しいことをした」

 

 そこからは藪漕ぎで1ピッチ延ばし、踏み跡が見える場所まで来てザイルを外した。 その時になって松尾は、自分の左手の肘から血が滲んでいるのに気付いた。 やっぱり緊張していたんだなと、傷を見ながら思った。

登攀具をしまい込むとザックはずっしりと重くなったが、冬合宿の話をしながらパノラマコースを下って帰路を急いだ。 上高地に着くころには陽はとっぷりと暮れ、シルエットになった穂高の稜線に、薄く輝く金色の縁取りが印象的だった。

 

 久しぶりの岩登りで墜落は味わったものの、松尾は気分が良かった。 登攀の充実感が松尾の気持ちを明るくしていた。 佳奈に会うのに何のわだかまりも感じなかった。

いつもの喫茶店で待ち合わせたが、逆に佳奈はあまり機嫌がよくなかった。 俯き加減で松尾が屏風岩にいった話を黙って聞いていた。 岩から墜落した話をした時だけは、さすがに顔を上げて松尾と目を合わせたが、それ以外は終始視線をそらしている。 話す方は興をそがれ、次第に話も途切れがちになっていった。 松尾もしまいには不機嫌になって、少し声を荒げて聞いた。

 「おい、いったいどうしたっていうんだ」

その言葉に佳奈はキッと顔を上げた。

 

 (つづく)

 

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屏風岩上部にて