蒼き青春の軌跡 35

テーマ:

蒼き青春の軌跡

 

      第二章 企業戦争の中で

          (五の三)

 

連休明けの五月十日、佳奈の父栄三は個室に移った。 もう自力では起き上がることも出来ないほどに、体力は弱っていた。 個室に移った翌日にお見舞いに顔を出すと、栄三は珍しく松尾とよく喋った。 佳奈は子供の頃すごいお転婆で、よく母親に叱られていたことや、とても兄弟思いで兄がけんかで負けたりすると、女だてらに上級生にも食ってかかっていったことなどを、笑いながら懐かしそうに話した。

それでも時々、腹部に痛みが走るのだろう、顔を歪めていた。 最後に松尾が部屋を辞そうとした時、栄三は松尾の手をしっかり握って、見据えるようにして一言だけ言った。

「頼んだよ」

松尾は胸をつかれ、涙が出そうになったが何も言わず大きく頷いて見せた。 栄三は既に覚悟を決めていたのだろう。 別れを告げドアを出ようとしてもう一度振り返ると、栄三はじっと天井を見つめていた。

 

四日後、栄三は静かに息をひき取った。

予期していたこととはいえ、悲しみの深さには何の変わりもなかった。 分かり過ぎるほどに分かっているものが現実になった時のほうが、ずっと辛いのかも知れない。 自分のすぐ隣に存在していたものが、ある時を境に影も形もなくなってしまうことに、松尾は今まで無頓着だった。 山で何度も目撃した死は、所詮他人事であったし目にする遺体は既に物体に過ぎなかった。 栄三の死は、松尾に別の形の死というものを考えさせずにはおかなかった。

 

栄三の遺体は解剖されたという。 それは栄三が、生前に何かの役に立てればと、医師に申し出ていたかららしい。 葬儀の直前、佳奈はあふれる涙を拭きながら松尾に語った。

葬儀は本人の意思を尊重して密葬の形で行われ、近親者だけが参列していた。 喪服姿の佳奈は、参列者がみえてからは涙も見せず健気に振舞っていた。 松尾は悲しみに耐えている佳奈を見て、

<悲しみには黒が似合うな>

と思った。 同時に愛おしさが込み上げてきて、誰憚ることなく佳奈をしっかりと抱きしめてやりたいと心から思った。

 

佳奈の悲しみを少しでも和らげたいと、松尾は時間があれば出来るだけ寄り添うように努力していた。 一方で仕事の方は順調に推移していた。 梅雨が明け、強烈な夏の日差しが照りつける頃には、ポリイミド採用の為の最後の量産確認試験に入っていた。 既に製造条件は詰められており、ダメを押す為の試験であった。

仕事とは別に、係長クラスに昇格する為の係長登用試験を受験する資格が、今年から松尾にはあった。 課長は必ず受験するようにと、松尾を強く説得していたが、松尾には全くその気がなかった。 去年はアラスカに一ヶ月以上遠征に行き、同僚や会社には迷惑をかけている。 これからも、チャンスがあればそういう遠征を目指すだろう。 そうなれば、名実共に部下を指導する立場になった場合の壁は大きい。 そんなことを考えて一切勉強はしなかったが、課長の立場も考えて、一応受験申し込みだけはしておいた。

 

今の松尾にとっては、いい仕事が出来て自分が満足できれば、地位とか立場とかはどうでもいいことだった。 そんなことよりも、一刻も早く今の仕事を軌道に乗せたかった。 量産試作したパネルが出来上がると、実際の機能試験のために残業に追われる日々が始まった。 歩留まりを集計したり、工程中で発生した不良内容の解析も並行して行われた。

デジタル時計には他業種のメーカーも何社か参入し、心配されていた低価格競争はその激しさを増していた。 新発売当時には十万円もしていた時計が、四年後の今では、二万円台で手に入るようになっていた。 それだけに、低コストで性能がよく品質の安定した液晶パネルの供給は、必須条件だったのである。 今度のポリイミドにより配向させたパネルの量産がうまくいけば、しばらくはコスト競争に負けない製造体制が確立できるーー松尾の仕事への完成意欲はいやが上にも高まっていた。 夏も終わりを告げる頃、問題になると思われる全ての課題は潰された。 忙しさに紛れたせいもあって、結局係長登用試験は受けず仕舞いになってしまった。 後に受験しなかったことが課長に知れて、こってりと油を絞られたが松尾は充実感に満ちていた。

 

九月になり、いよいよパネルの一部がポリイミド配向剤に切り換えられた。 しばらくは何か大問題が発生しないかと不安であったが、順調に一ヶ月が経過し問題は発生しなかった。 歩留まりは従来品よりも、十パーセント近くも向上しており、松尾はまた一つ大きな自信を得ていた。 そして次の仕事への準備を進めていった。

 

父の栄三が亡くなってから半年が経ち、佳奈は元の明るい娘に戻っていた。 仕事の忙しさに紛れ、ここ数ヶ月思うように会えない時が多かったが、仕事に一区切りがついて松尾は佳奈とのデートを楽しんだ。

あの冬の諏訪湖畔での口づけ以来、佳奈の態度には明らかに変化が見られた。 父親が死んだ寂しさもあるのだろうか、佳奈は松尾に甘えるようになっていた。 それは松尾にとっては新しい発見でありすごく嬉しいことでもあった。 強情なしっかり者から、甘えん坊で寂しがり屋の佳奈となり、松尾の心の中でイメージは徐々に変わり始めていた。

諏訪湖を囲む山々も、秋から冬の景色に入れ替わろうとしていた。

 

(つづく)

 

 

 

 

 

 

 

AD

蒼き青春の軌跡 34

テーマ:

蒼き青春の軌跡

 

      第二章 企業戦争の中で

          (五の二)

 

翌朝はグッと冷え込んだが四時には小屋を出発した。前日の雨で岩場は濡れていたが、滝谷での最初の関門、雄滝はフリーで越えて先を急いだ。 登攀開始が遅くなると、涸沢側から登ってくるパーテイが滝谷の岩場に取り付いて、落石が多くなり危険なのだ。

雪渓を息を切らしながら、それでも休むことなく登っていくと、上部からガラガラッという物凄い落石の音が聞こえてきた。 周りの岩に反響し、不気味な振動が空気を伝わってくる。 慌てて岩陰に身を寄せると、畳半畳ほどもある大岩がブウーンと周りの空気を震わせて、二つ、三つと雪の上を大きくバウンドしながら落ちて行った。 若井と顔を見合わせて、落石が完全に収まるのを待つことにした。 五分間ほど岩陰で待ち完全に収まったのを見届けてから、再び静かになった雪渓を登り出す。

九の字に曲がった岩の裏手まで周り込んで登ると、三人の男たちがすぐ上の岩場よりの平らになったところに立っている。 嫌な予感を覚えてさらに近づくと、彼らの足元には人間とおぼしきものがうずくまっていた。

「落石にやられたのか?」

と松尾が声を掛けると、後ろ向きに立っていた男たちが振り向いた。

「いや岩と一緒に落ちてきたんですよ。 完全に死んでいる」

三人の足元には、ピクリとも動かない物体と化した男が、足を折るようにして横たわっていた。 タオルをかけた頭の横には、脳髄の混じったドロリとした赤い液体が雪に吸われずに溜っていた。

「どうしたもんですかねぇ」

三人のうちの一人がつぶやいた。

「そちらはこれから登るの?」

「いやぁ、さすがに登る気力を無くしちゃって。 みんなで下るつもりです」

「そうですか。 じゃあ俺たちは上に抜けるんで、北穂の頂上小屋に連絡を入れるよ。 とにかく、遺体をこのままという訳にも行かないだろうから、そこの岩窪に運んで置きましょうか」

足と両手を五人で持って運んだが、遺体はグニャリとしていて腕や足も骨折しているようだった。 手袋の脱げた手には、まだかすかな温もりが感じられた。

「お宅たちはちょっと遅れてきてよかったですよ。 こうしてタオルをかけているけど、もうメチャメチャで顔なんか無いですよ」

遺体を運びながら青ざめた顔の一人が、口の中が酸っぱくなるような表情で松尾に言った。 三人は遺体の特徴をメモし、ザックに入っていた手帳を抜き取って確認し、雪渓を下っていった。 遺体を片付け遺留品を傍らにおいた後、松尾と若井は上に向けて出発した。

 

ところどころ、雪上に一メートルくらいの長さの血の帯が付着していて、小さな肉塊のようなものが落ちている雪渓を登る。 さすがに若井も顔をしかめながら歩いていた。 四尾根と呼ぶ岩稜の末端に取り付き、ザイルで確保し合いながら、さほど難しくない岩場を登りきった。 そして北穂高岳の頂上に辿り着くと、涸沢側から登って来た上條たちのパーテイが待ってくれていた。 稜線から松尾たちが登っているのが見えて、ずっと待っていてくれたらしい。

北穂の頂上小屋に事故の報告をしに行くと、事故直後に落ちたパーティの人間が来て、もう必要なところには連絡を取ったと言う。 小屋の人と話をしながら、松尾は

<最近、やけに身近に事故や死の影が多いな>

と何か嫌な予感がしたが、そのことを自分自身と結びつけることは決してなかった。 自分が山で死ぬかもしれないなどとは、思いも寄らぬことであった。 これほど身近に幾つかの死を経験しても、松尾の山に対する自信は揺らぎも無かった。 この頃では山での死に対して、不感症になってしまっている自分に気づく事はなかった。

自分のことよりも、佳奈の父親の顔が松尾の脳裏をかすめていた。

 

五月連休最後の子供の日、山から下りて来た松尾はすぐに佳奈の家に電話を入れた。 母親は病院に出掛けていて、佳奈一人で留守番をしているという。 久しぶりに松尾は佳奈の自宅を訪れた。 家の前にある大きな庭にはサツキの花が満開で、遅い春を謳歌しているかのようだった。

合宿での話や、ヒッチハイクでの可笑しな出来事を話したりで一時を過したが、事故のことはあえて話さなかった。 佳奈は最近「死」について神経質になっており、松尾も死については極力触れないようにしていた。 父親の栄三は個室が空き次第、四人部屋から移ることに段取りされていた。 そんな時にたとえ事故であっても、死についての話は無神経過ぎる、と思うくらいの心配りは松尾にもあった。

 

むしろ今の松尾には、佳奈の悲しみが嫌というほど理解できた。 山で突然襲ってくる死とは違い、座して死を待つことはいかにも辛いことだろうと慮った。 自ら求めていって降りかかる突然の死と、じわりじわりと確実な足どりで近づいてくる死には、同じ死でも大きな違いがあると思えた。 そしてそれを傍らで見ていることは、もっと辛く苦しいものに違いない。

突然やってくる死に慣れっこになっている松尾にも、死を待つだけになった栄三の姿はやはりやりきれなかった。 それ以上にーー佳奈の心痛を思うとやりきれなかった。

 

(つづく)

 

滝谷四尾根上部から見下ろすと・・・ 登攀の様子も観察できます

そして、滝谷出会いも見えてますね

 

 

 

 

 

 

 

AD

蒼き青春の軌跡 33

テーマ:

蒼き青春の軌跡

 

      第二章 企業戦争の中で

          (五の一)

 

五月連休の合宿で、松尾は若井と二人で滝谷へ向かった。 いつも利用する上高地ー涸沢経由のコースではなく、岐阜県側の新穂高温泉から入山するコースを採った。 二人でいろいろと考えた末に、上高地入り口にある中の湯までは若井の車で行き、そこからはヒッチハイクで安房峠を越えて金を掛けずに新穂高まで行こうという事になった。 下山は涸沢経由ー上高地下山を目論んでいたのである。 若井は「ザックなんか背負っていて車が捕まるかなぁ」と心配していたが、学生時代にヒッチハイクの体験が豊富な松尾には自信があった。

 

中の湯の庭先に車を止めて、「俺に任せて置け」とばかりに勇躍国道に飛び出したが、昔と違って車が通ってもサッと手が出ない。 手を挙げることに躊躇いがある事実に、松尾は道路に出てみて初めて気が付いた。 学生だった頃と社会人になってからでは、社会に対する考え方が全然違っていた。 自分は一人前だというプライドがためらいを増加させていた。 「まいったな」という顔で若井を見ると、若井はニヤニヤ笑っている。

「このプランを言い出したのは松尾さんだよ。 さあさあ、みごとに車を止めて下さい。 さっきの勢いがどっかへ行ってしまっちゃ困るからね」

「まあまあ、少し気持ちを落ち着けてからね。 止まってくれる車は、手を挙げる前から勘でわかるものです。 今、止まってくれそうな車を見定めてるところ」

からかわれて松尾は度胸を決めるしかなかった。 学生時代にヒッチハイクで九州まで行った時には、止まりそうな車には何となく勘が働いて、相当の確率で一発で止まってくれたものだった。 何台かをやり過ごした後、青いメタリックのスバルが登ってくるのを見て、松尾は手を挙げた。 車はちょっとスピードを落としたがそのまま行きかけた。

松尾は心の中で、<ああ、だめか>と思ったが、二十メートルほど先で、車はスーッと止まった。

「やった」

松尾は若井の顔をみて、満面の笑みで笑いかけ、登山靴を引きずりながら急いで車に駆け寄った。

「すみません。平湯の方までお願いできますか」

精いっぱいの愛想笑いをしながら聞くと、運転席の男は黙って頷いてエンジンを止め、キーを松尾に手渡した。

「ザックはトランクに入れていいよ」

「はい、どうも済みません、有難うございます」

こんなにうまくいくとは、と思いながらトランクに重いザックを押し込んだ。 二人は互いに顔を見合わせて、愉快そうに「ククク」と小さく笑いあった。 平湯に着きザックを下ろすと、頭を下げる二人に青いスバルは”プッ”と短く警笛を鳴らして、高山方面に走り去った。

事がうまく運び、もう松尾は鼻高々であった。 今度は新穂高温泉方向に少し歩いて町外れまで行き、町並みの途切れたところで次の獲物を待った。 二人はご機嫌で鼻歌交じりで道端に立っていたが、十分を過ぎても車は一台も通らず、二人は道から少し外れた岩の上に腰掛けて時間を潰した。 さらに十分ほど経過して、車の走る音で松尾は慌てて岩を飛び降りたが、道路端に辿り着く前に車は通り過ぎてしまった。

「これはいかんなー」

そう言って、若井は二十メートルほど町のほうへ戻って、緩いカーブになった先の車が見えるところまで行って網を張った。

「来た、来た」

やがて若井が、大声で合図してきた。 松尾はてっきり若井が手を挙げるものと思って見ていると、若井は手を後ろ手に組んだまま、車が通り過ぎるのを見送ってしまった。

「どうした」

松尾が大声で声を掛けると、若井の返事がふるっている。

「俺にはとてもあんな大胆なことは出来ないよ。 育ちがいいんだから」

 

そんなこんなで、新穂高方面に行く車を捕まえるのに小一時間かかってしまった。

登山準備を整えて新穂高温泉から歩きだす頃、陽は高くそそり立った岩山に、身を隠し始めていた。 蒲田川の右俣谷に沿って約三時間、日が暮れて辺りが暗くなった頃に、滝谷出会の避難小屋に到着した。

小屋には先客が三パーティいたが、中二階になっている場所が空いていた。 そこに陣取って、担ぎ上げたウイスキーでヒッチハイクの成功を祝った。 明日の登攀に備えてか、先着していたパーティは、早々とシュラフに潜り込んでいた。

 

翌朝起きると外は土砂降りの雨で、二人はシュラフに潜ったまま、外へ出てみようともしなかった。 昨夜飲み残しておいたウイスキーを再び開け、朝からチビリチビリとやって一日を潰した。テント泊まりでなかったことにひたすら感謝しながら、昨日のヒッチハイク体験を酒の肴にして飲んでは寝、起きては飲んでいた。 夕方になると雨もやみ、外に出てみると雲の切れ間から青空も覗き始めていた。 明日の天気は大丈夫という事で、酒が切れたのも手伝い早々にシュラフにもぐり込んだ。

 

(つづく)

 

滝谷出会いにて・・バックに大きく北穂のドームが見える

AD

しつこい転移め!

テーマ:

昨日、主治医の下に出向きリンパ節への転移、確認しました。

想定内のことですが、それでも20%ほどは、単なる腫れであって欲しいという願望が・・。

週末から入院して、抗癌剤治療に入ります。

 

小説の何回分かは既に未来記事にしてあるので、当面は維持できています。

 

月末には、退院できると思っています。 できる範囲で頑張るしかないですね。

 

では、また

蒼き青春の軌跡 32

テーマ:

蒼き青春の軌跡

 

      第二章 企業戦争の中で

          (四の三)

 

ポリイミドを配向剤にしたパネルの実験は着々と進み、幾つかの条件化で試作されたパネルが、評価段階に入っていた。 高温の状態に保った試験槽の中に放置したり、高湿度中での耐久試験、さらには電気特性試験などが行われ、各種データが揃っていった。 どのデータも松尾にとっては満足できる内容だった。

四月度の定期報告の時、松尾は課長の三井に初めてポリイミドの試験データを報告した。 三井は報告の途中で、急に思い出したように言った。

「そうだ。 そういえばこれと同じ試験を、広岡事業所の液晶チームでもやってたんじゃないかな。 先日、広岡の工場へ行った時に、ポリイミドという言葉を耳にしたな」

それを聞いて松尾は愕然とした。

「それ、ほんとうですか?」

「うん、たぶん間違いない。 確かポリイミドと言っていたな。 やっぱみんな別の道を歩いているようでも同じところへ集まって来るんだなぁ。 一応は向こうの様子も聞いて、必要なら情報交換をした方がいいんじゃないか」

「ええ、そうですね」

松尾はちょっとがっかりした気分で、気のない返事をして、それでも一応は報告を締めくくって席へ戻り、データ整理をしていた田崎のところへ行った。

「田崎君。 今、課長に報告をしに行ったら、広岡でもポリイミドの実用化を狙っているらしいというんだ」

それに対し、田崎は別段驚いた様子もなく答えた。

「そうですか。 あのポリイミドのメーカーさんは、広岡でも液晶をやっていることを知っている訳で、うちへ来るのと前後して広岡にも顔出ししているんでしょう」

「考えてみればそうだよな。 まあ他でもやっているのなら、こっちのやり方も間違ってはいなかったという証拠かな」

松尾は気を取り直して、広岡の開発部門に所属している後輩の小野に電話をかけた。

広岡事業所というのはS社の関連工場で、塩嶺峠(えんれい峠)を越えた塩尻市にある。正式には広岡精器・広岡事業所というのだが、小型プリンターを中心として非時計部門の事業を行っている工場である。 エイコーグループの中では、世界の小型プリンター市場のほとんどを独占しているユニークな企業体でグループを支える大きな柱になりつつあった。 その広岡事業所では、昭和四十九年から電卓用の液晶パネルを生産しており、諏訪の時計事業とは別に、独自の開発活動も行っていた。

その広岡の開発部門に、同じ学部を出た一年後輩の小野がいた。 電話の向こうで懐かしい訛りのある小野の声がした。 彼自身はポリイミドの直接担当ではないけれど、だいたいの今の状況を把握しているという。 松尾は翌日訪ねることを約して電話を切った。

 

翌朝、松尾と田崎は上諏訪駅前から、松本行きのバスに乗った。 まだ空気はひんやりとしていたが、春の日差しは柔らかく心地よかった。 芽吹きの始まった唐松林をぬうように、塩嶺の峠道をバスは走って行く。 峠の頂上に出ると突然視界が開け、穂高連峰がそそり立って春の陽に少し霞んで見えている。 松尾はこの風景が大好きだった。

春霞にかすむ穂高、澄んだ秋の空にシルエットを描く穂高、冷たい冬の青空に威厳をみせる雪の穂高。 どの季節に見せる山容にも、端正で厳しく人を惹きつけて止まぬものがあった。 周りの山々を圧して聳える穂高の威容は、やはり北アルプスの盟主と呼ばれるに相応しい、とつくづく思う松尾であった。

 

広岡の会社前でバスを降り、全面が黒ガラス張りの社屋へ二人は入って行った。 広いワンフロアになった工場の一角を仕切って、小野のいる液晶パネルの工場と開発試作室があった。 小野を呼び出してもらうとすぐにやってきて、データは居室にあるからと言って取りに行ってくれた。 松尾と田崎は先に食堂に向かい、自動販売機のコーヒーを飲みながら小野を待った。 広い食堂にはいろいろなメーカーの来客がいっぱいいて、見るからに活気に溢れていた。

小野は体格のいいメガネをかけた若い男を伴って、書類を小脇にかかえてせかせかとやって来た。 メガネをした男はポリイミドに関する実験を担当している男だ、と紹介された。 松尾は諏訪で開発を担当している者ですが、と説明して自分たちが取り組んでいる仕事との情報交換を依頼した。 メガネの男はデータを広げながら、ボソボソと説明を始めた。

彼の説明によると、かなりの枚数をパイロット・ラン的に流してデータを取ってはあったが、大量に流すとどうしても品質にバラツキが出て、今一歩のところで足踏みをしている状態だという。 数をまだあまり流していない松尾たちにとっては参考になるデータではあったが、基礎的な内容に関しては、松尾らの方が細かいデータを持っていた。 その辺は田崎が説明をして、今後とも情報を交換し合うことを約束して広岡事業所を辞した。

諏訪へ戻ると、借り受けてきたデータを他のメンバーも加えて、一緒に詳細に検討した。 その結果、ポリイミドに浸漬した後のベーキング(乾燥)方法によっても、品質に差が出そうだということが判明した。 松尾は試作時に、その点を十分に注意して扱うよう指示を出して検討を終えた。 広岡での実験結果から、幾つかの問題点が提起されたが、それは決して致命的なナ者ではなく今後に十分な可能性を示唆するものであった。 松尾ははっきりと、この線はいけるという確信を持った。

 

(つづく)

 

 

蒼き青春の軌跡 31

テーマ:

蒼き青春の軌跡

 

      第二章 企業戦争の中で

          (四の二)

 

その夜、松尾は久しぶりに日赤病院へ行った。 一度は病状が安定し、自宅へ帰っていた佳奈の父が、再度入院したのだった。 佳奈は幼稚園を終えると病院に寄るのが、また日課になっていた。 薄暗い病院の玄関に入ると、ちょうど佳奈がいた。今来たばかりだと言った。 松尾はもし病室にいっても、佳奈がいなければちょっと気詰まりだな、と思っていたので内心ホッとした。 連れだって病室に行くと前回とは違い、今回は四人部屋であった。

佳奈の父は見る影もなく痩せていて、以前にお見舞いに来たときよりもさらに十歳も年を取ったように見えた。 元々痩せ気味の人だったが、腕や足がさらに細くなり目は落ちくぼんで、病状が相当に悪化していることは、松尾の目にもはっきりと分かった。 まだ五十歳半ばだというのに、まるで七十歳を過ぎた老人が横たわっているようだった。

痛々しさに耐え切れず、お見舞いを言ってすぐに部屋を辞すと、玄関まで見送る途中の廊下で佳奈が小声で言った。

「大部屋にいる間は心配ないらしいわ。 個人部屋に移されるときは危ない時なんだって」

「なあに、まだしばらくは大丈夫だよ。 世の中、医学は進歩しているんだし」

空しいと分かっていながら、松尾はそう励まさずにはいられなかった。 佳奈は何も答えず、黙って前を向いて歩いていた。 玄関まで来て、松尾は急にこのまま別れ難い気持ちにとらわれて言った。

「今日は特に用もないから、駅まで送っていくよ。 そっちの用が済むまで前の喫茶店で待っているから」

「じゃあ、出来るだけ早く用事を済ましてくるわ」

佳奈は嬉しそうに大きく頷いて、小走りで病室に戻って行った。

 

小一時間経って、佳奈は大きな紙袋を提げて喫茶店に現れた。 洗濯物だという。

「ごめんなさい。 遅くなってしまって」

そう言って席に着いたが、その顔はすごく嬉しそうであった。 松尾が、久しぶりに見通しが明るくなるかもしれない仕事の話をすると、佳奈は一緒に喜んでくれた。 しかし、笑顔の中にも父の容態に対する憂いの色が見て取れた。 佳奈自身にも看病疲れが出ているのか、心なしかやつれている様でもあった。 どうにかして佳奈の心を引き立たせてやりたいと思っても、何もしてやれないという気持ちが松尾を苛立たせた。

店から外に出ると、冬の月がこうこうとあたりを照らしていた。 凍てついた透明な空気が、張りつめたように周囲を押し包んでいる。 二人はコートの襟を立てて、どちらからともなく寄り添うように歩いた。 何も言わず黙って二人は歩き続けた。

 

松尾はこのまま佳奈を帰したくなかった。 佳奈にもその気持ちは伝わっているかのようだった。 ごく自然に佳奈の右腕が松尾の左脇に入ってきた。 それは初めてのことだったが、松尾は何も言わずに歩き続けた。 そして佳奈に対して、今までにない優しい気持ちになっていた。

「寒い?」

「ううん、ずっとこうしていたい」

「うん」

松尾の肩に、佳奈の頭がそっと寄せられた。 佳奈の髪から甘いにおいがした。 そのにおいが、松尾をとても幸せで、そしてちょっぴり切ない気分にさせていた。 なぜ切ないと感じるのかよく分からないが、とても懐かしくて、とても新鮮な佳奈の温かみがそこにあった。

二人はいつの間にか湖畔へ出ていた。 岸辺には湖面の氷が、薄い板状に何枚も重なって打ち上げられていた。 それが青白い月光に照らされて、キラキラと光っている。 立ち止まって青白い光の破片を拾うと、松尾は「ホラッ」と佳奈に手渡した。 佳奈がその光を凍った諏訪湖めがけて放り投げると、カラカラ・・・・と乾いた音とともに光が湖面を滑っていった。

 

音が消えたあとに一瞬の沈黙が流れ、松尾は佳奈の体を引き寄せた。 佳奈は松尾の動きをよてい予想していたかのように無抵抗だった。 松尾がふっくらとした頬に掌を当てて、優しく上向かせると、佳奈の目は閉じられていた。 高鳴る鼓動を意識しながら、松尾は背をかがめるようにして唇を重ねた。 冷たくて柔らかな感触が松尾の唇に残った。

「もう離さないよ」

松尾が言うと、佳奈は頭を松尾の胸に強く押し付けて、いやいやをするように首を振った。

しばらくして松尾を見上げた目には、涙が滲んでいた。

「お父さんに、もう少し長生きしてほしい」

小さな声で言うと、もう一度頭を、松尾の胸に押し付けた。

 

(つづく)

 

 

 

蒼き青春の軌跡 30

テーマ:

先週、CT検査で食道上部に腫れが見つかりました。
状況は良くなさそうで、明日PET検査です。 ドクターは目が良いので転移ありそうです。
予断を許さない状況ですが、何とかこの本は書上げたいと。

_________________________________________________

 

蒼き青春の軌跡

 

      第二章 企業戦争の中で

          (四の一)

 

富士山での訓練が終わり、いよいよ冬山合宿に向けての計画に入った。 ところが富士山に行く前までは、「是非とも冬山に入りたい」と言っていた生坂と中島が参加を辞退した。 富士山で見たアクシデントが、尾を引いていることは明らかだった。

冬山合宿に向けての打ち合わせの後、上條や若井、そして沢口と連れ立って1杯飲みに出かけた。 「甚六」と書かれた戸を開けて入ると、カウンターの奥に懐かしい顔があった。 松美だった。 彼はこちらを向くとニヤリと笑って、軽く手を上げた。 皆は店の入り口近くのテーブルに陣取ったが、松尾は松美と話しをするために、カウンターの奥まで行った。

松美は以前、諏訪岳友会にいた男であった。 今はフリーで国内の大きな登攀や、ヨーロッパアルプスでの新ルート開拓などで、山仲間では今や有名な存在になっていた。 普段は柔和で穏やかなムードを漂わせているが、いざ山のこととなると、自分の信念を貫く意地と情熱を秘めていた。 山屋としても人間としても、松尾が心から尊敬できる数少ない一人であった。

 

「お久しぶりです」

松尾が声をかけると、松美はニコニコとした笑顔を崩さずに

「やあ、本当に久しぶりだね。 アラスカじゃ頑張ったようで。 今日は例会だった?」

と、テーブルに座った三人と松尾の顔を等分に見ながら聞いた。

「はい、冬山合宿の件で・・・。 今年の冬はどっかに入りますか」

「いや、入ってもせいぜい一日。 八の(八ヶ岳の)氷をたたきに行くぐらいだね。 そっちはどうするの?」

「今回は鹿島槍です。 しばらく穂高が続いたので、目先を変えてと思って」

ひとしきり山の話をした後、年が明けたわ一緒にどこかの氷をたたきに行こうと約束をして、松尾は自分の席に戻った。

 

テーブルでは熱燗を飲みながら、上條が先日の富士山での事故の模様を話していた。

「それにしても中島はえらく怖気図いてしまったしまったみたいだなぁ。 この前会ったら、もう山が怖くなったと言ってたワ」

「最近は軟弱な男が増えてるからねぇ」

「だけど、山をやってりゃあれぐらいのことはあるし、そういうことを乗り越えてこそ精神的に強くなって、本物の山屋に育っていくはずなんだが」

「ああならない為にも、自分の技術なり体力を磨こうっていう気にはならないのかねぇ。 これからはああいうタイプの人間は増える一方かな」

「まあ駄目な奴はダメだし。 いろいろ言っても、そいつの持った性格というものがある」

「だいたい今時、山を真剣にやろうなんていう考えの方がおかしいんですよ。 僕もこれから堅実で、安全な生活設計を立てなくっちゃ」

また若井が茶化して、山の話は打ち切られた。

確かにこの頃、山岳会に入ってくる若い新人の数はグンと少なくなり、入ってもすぐにやめていく者や、俺はハードな山は無理ですから、というタイプの若者が増えてきている。 時代の変わり目にあるようだということを、松尾は山を通じても感じ始めていた。 戦後の豊かな時代に育った若者達には、重い荷物を背負って自ら求めて苦労をしに行くような山登りは、フィーリングに合わなくなって来ているのであろう。 後に続く連中がいないというのは寂しくもあったが、そんな中で、時代の流れに抗って生きてみるのも面白いかも知れない、と松尾は折に触れ考えるようになっていた。

 

昭和五十一年の正月は天候も穏やかで、一隊は爺ヶ岳東稜から、ベテラン隊は鹿島槍東壁から登頂を目指した。 そして全員が同じ時刻に、鹿島槍ヶ岳の頂上を踏んで冬山合宿は無事に終了した。

しかし年が明けても、松尾の会社での苦しみは続いていた。 現在行われているスパッタリング以外の方法で、酸化シリコン膜を塗布するという技術は別のグループが開発を担当していた。 だがそれだけでは液晶の分子を配列させる力は弱く、その上に何か配向力の強い物質を上塗りする必要があった。 その配向剤に決定的なものがどうしても見つからなかった。

考えられる限りの物質を取り寄せては実験を繰り返したが、それぞれに一長一短があって決定力に欠けていた。

 

瞬く間に一月が過ぎ、二月に入って諏訪湖が全面結氷したというニュースがあった日の朝、部下の田崎が松尾のところへ来た。

「昨日、ある化成メーカーと話をしたんですが、電気絶縁皮膜に使っているポリイミドという名の材料のことがでましてね。溶液でも売っているそうなんですが、ここにカタログがあります。こんなのは使えませんかね」

そう言ってカタログを松尾に示した。松尾はあまり気乗りはしなかったが、サンプルをもらえるなら一応取り寄せて置くように指示して、実験室に入った。 新しい材料の話が出る度に期待をしてはがっかりするばかりで、最近ではあまり期待を大きくしないよう心掛ける習慣が身についていた。

一週間後、そのサンプルを持って化成メーカーがやってきた。 松尾も田崎と一緒に話を聞くために、応接場所へ向かった。 型通りの名刺交換が終わり説明に聞き入っていたが、松尾は次第に「これはいけるかも」という気になってきた。 第一に耐熱性が極めて良く、適度に軟らかくてシール剤に用いる酸化シリコン膜との相性も、悪くなさそうである。 久々に可能性の高い材料かもしれないという直感が働いていた。

化成メーカーが帰ると、松尾は「明日からすぐに実験を行う」よう、田崎に指示を出した。 そして自分は図書館に立てこもって、ポリイミドの材質に関連する文献や資料を探しては読み漁った。 読み進めるに連れ、次第に確信に近いものが松尾の心に芽生え始めていた。

理論的にこうだからというのではなく、ただ何となくいけそうだ、という長い間苦しんだ者だけが分かる直感が働いていた。 むろんそれは、勘という類のものなのだろう。 今まで積み重ねてきた失敗や経験によって培われた本能的なものかも知れない。 松尾は図書館の中で、体全体が興奮してくるのを抑えることが出来なかった。

 

(つづく)

 

 

 

 

蒼き青春の軌跡 29

テーマ:

蒼き青春の軌跡

 

      第二章 企業戦争の中で

          (三の四)

 

途中何度か順番を交代しながら五合目の佐藤小屋に辿り着くと、小屋の主人がジープを用意して待っていた。

「ご苦労さんです。 一旦ここにケガ人を置いてくれや」

主人の後ろにいた年をかなりくった警察官らしい男が、松尾たちに指示した。 その警察官は怪我の様子を一通り確認すると、後はジープに乗せるよう救助隊員に指示した。 小屋の主人が運転するジープは、例の若い警官を一緒に乗せるとすぐに出発した。

年配の警官はジープを見送りながら、誰にともなく小声で言った。

「ありゃ相当ひどく、内臓をやられているわな。 もうだいぶ腹が膨れとったで、もたんかも知れんな」

松尾はやはりそうかと思いながら、岩に叩きつけられ空中にバウンドした時の光景を思い浮かべていた。 映画の一シーンでも思い出すようで、乾いた光景が頭の中に拡がるだけだった。 不思議なほど残酷だとか可哀想とは感じなかった。

 

「救助して下さった方々はご苦労様でした。 小屋に入ってお茶でも飲んでいって下さい。 事故の様子もちょっとお聴きしたいですから」

ジープを見送ると年配の警官はそう言って、松尾たちを手招きして、食堂になっている棟へ入って行った。

松尾は新人達のことを思い出して、小屋の脇でボソボソと話をしている中島や生坂に、先にテントに戻って夕飯の用意をするように言いつけた。 食堂の中に入っていくと、年配の警察官は調書らしきノートを机の上に開いていた。 彼は一つ咳払いをして切り出した。

「私は富士吉田署の水上といいます。 事故報告書の作成が必要なので、申し訳ないが皆さんの話をお伺いしたい」

事故の発生場所や時間、状況などについて主に上條が答えた。 松尾はジープで病院に運ばれていった男の名前が分からないのが妙に気になって、横に座った横浜の港登高会の男に尋ねてみた。

「滑落した人の所属や名前は、まだ分からないのですかね」

「さっきジープで一緒に下りて行った若い警官が、所持品をチェックしてたけど手がかりは無かったみたい。 単独で登ってたことは、間違いなさそうだったね」

「家族がいるなら早く知らせてあげなきゃ。 結婚でもしていたら大変だ」

小声で話し込んでいるとやがて聴取も終わり、救助に当たったメンバー全員の、所属と住所氏名が聴かれた。

 

「水上さん、署から電話が入っているよ」

小屋の女将が赤ら顔をのれんから出して警官を呼んだ。 「ちょっと失礼」と言って席を立った彼は、やがて額にしわを刻んで戻って来た。

「残念ながら病院に着いた直後に、息を引き取ったようです。 これから解剖するようです。

皆さんにはご苦労をかけたが、あの状態だったからね」

水上は机の上の調書を閉じて、綴じ込みの上を指で二、三度強く押し付けた。 しばらくの間、室内にやりきれない沈黙が支配したが、やがて一人、二人と小屋を出て行った。 老警察官は一人ひとりに「ご苦労様でした」と声を掛けていた。

 

テントに戻ると三人は夕食の支度をしていたが、みんな黙りこくって元気が無い。 やはり事故に遭遇したことが、相当にショックだったのだろう。 テントに入って落ち着いたところで、上条が「滑落した男性はさっき病院で死亡が確認された」と、みんなに伝えた。 生坂の表情がいっそう硬くなるのが分かった。

「山をやっていれば、これくらいのことはあるさ。 明日は我が身だから、皆も気をつけろ」

松尾が努めて普段の口調で言うと、生坂は体まで強張らせて小さな声で言った。

「明日も登るんですか」

「だってそのために来たんじゃないの」

何気なくそう言って生坂の顔を見ると、彼女は目に涙を浮かべて、松尾を睨みつけるようにしていた。 松尾は何か言おうとしたがそのまま言葉を飲み込んだ。 夕食時に上條と松尾は努めて明るく振舞ったが、他の三人は食欲も湧かない様子で黙りこくっていた。

<明日は、予定を変える必要がありそうだな>

と松尾はシュラフの中で考えていた。

 

翌日は快晴で風もなかったが、精神状態が不安定になっている生坂にはテント番を命じて、四人で夏道をつかって頂上へ向かった。 当初は吉田大沢も選択肢と考えていたが、前日のアクシデントで中島も大島も恐怖心を持っていることは明らかだったので、上條と相談して安全な夏道に切り替えた。

それでも、山頂にある浅間大社からの下りでは、ぎこちない動作でこわごわ下りる二人をみて肝を冷やしっぱなしだった。 やはりこの時期の富士山は訓練に来る山じゃぁないと、松尾は認識を新たにした。

諏訪へ帰る車の中、「もっと精神的に逞しくならなきゃ、冬山なんか行けないぞ」と松尾は、何度も二人にハッパをかけていた。

 

(つづく)

 

蒼き青春の軌跡 28

テーマ:

蒼き青春の軌跡

 

      第二章 企業戦争の中で

          (三の三)

 

駆けつけた松尾と三人は、一瞬間、手を出すのを躊躇していた。

青いヤッケは首元までめくれ上がり顔が隠れていて、手は万歳したままだった。 松尾は皆に手伝ってもらって、めくれ上がったヤッケを胸元まで引き下ろした。顔が血に染まって、口から血の泡を噴いている。 血の匂いとともに、ゼッゼッというかすかな呼吸音が聞こえた。

「おー、生きてるぞ」

松尾は立ったままの三人に言った。 そして、倒れている男に向かって

「おい、聞こえるか、おい}

と呼びかけたが、目を半開きにしたまま応答はない。

「誰か一人、佐藤小屋へ救助を頼んできて下さい。残りのメンバーで下ろす方法を考えよう」

松尾がそういうと、三人のうち一番歳をくった感じの男が答えた。

「よし、私が下りましょう。私たちは横浜の港登高会です。お宅さんは?」

「ああ、長野の諏訪岳友会といいます。 この人は単独かどうか分からないけど、九合目付近から滑落したようです。 小屋には警察も詰めているはずですから、すぐ登ってくるよう言って下さい。 動かせそうなら、我々で少しずつでも下ろして行きますから」

「じゃあ、お前たち頼むぞ」

 

男は他の二人に言い残すと、走り下りて行った。 残った三人で滑落者を仰向けに寝かせてアイゼンを外した。 片方は途中で飛んでしまったらしく、左足しか履いていなかった。

松尾はタオルを取り出して、血に染まった顔を拭いてやった。 顔にはかすり傷程度しかなく、どうやら吐血したらしい。 とすれば、腹部を強く打っている可能性がある。 弱々しいが確かに呼吸はしていて、息を吐く度に血の泡が口から吹き出していた。

 

<さて、どうやって下ろそうか?>と、松尾は思案した。

腹部を圧迫しない為には、担架のようなもので運ぶしかない。どうやって担架を急造しようか。 残った二人と話し合っているうちに、上からも下からも人が集まって来て、いつの間にか周りは十人前後の人垣になっていた。 上條と新人達も到着して、松尾は上條に尋ねた。

「上はどう?」

「多分、捻挫かなんかだろう。仲間が背負って下りるようだから大丈夫だろう。こっちはどうだい? 助かりそうか」

「多分腹を打っていると思うんだ。 内臓をやられてる可能性が高いんで、このまま仰向けで運んだほうがいいと思う。 何か担架代わりになるものはないかな」

「弱ったなー。 このまま安静にして、担架が上がってくるのを待つ方がいいんじゃないか」

「うん、でも出来るだけ早くしないと。 おい中島、お前小屋にいって、大急ぎで担架を上げるようにいって来い。 急げ」

中島は真っ青な顔をして、少し離れて伺うように見ていたが、松尾の言葉に大きく頷いて、駆け下りて行った。 気が動転しているのが後ろ姿にありありと見えた。

「そうだ上條さん、ツェルトを持ってきてたよね。あれを担架代わりにして、両側から何人かで持って降りたらどうだろう」

「そうだな、やってみるか」

上條が同意してツェルトを出し、二つ折りにして敷いた。 そして四人がかりで男をそっとツェルトに運んだ。 男は目を半開きにしたまま、完全に意識を失っていて、やけに重かった。

松尾は新人の生坂に、自分たちの装備をまとめて背負い下ろすように命じて、居合わせた人達にもお願いして、両側からツェルトの端を持ち静かに運び始めた。 左右五人ずつで運ぶのだが、重くて足並みがなかなか揃わない。 急増担架が揺れる度に、口からは血が噴きこぼれてツェルトはたちまち真っ赤になってしまった。

 

強風とケガ人の重さでよろよろしながら下っていくと、小屋から担架を持った救助隊が四人と新人の中島も、額に汗をしたたらせながら登って来た。ツェルトに乗せていたけが人を本物の担架に移動させ、松尾は救助隊に預けたことでホッとした。 いままでツェルトを持っていた右手に、痺れと痛みを感じていた。

一緒に登って来た警察官らしい若い男が松尾に向かって聴いた。

「この人の身元は分かっているんかな、同じパーティのメンバーは誰?」

男のぞんざいな口のききかたに、松尾は少しムカッとなったが、代わって上條が答えた。

「事故の目撃者は一緒に小屋まで下りてもらいたいんだが、事故の様子を聴取したい」

「落ち始めは誰も見てないよ。落ちてくるのが見えただけ。 それより小屋まで下ろすのが先決だ。 まだ手伝えそうな人は宜しくです」

松尾は生意気そうな若い警官を無視すると、担架の一端を持って小屋へと下り始めた。 けが人が口から吹き出す血の泡はだいぶ少なくなっていたが、呼吸はさらに弱まっているようだった。 上條と警官は話をしながら後からついて来る。

「ばかやろう、てめぇも運びやがれ」

松尾は周りには聞こえないような小声で、後から当然のような顔をして歩いてくる若い警官を罵った。 なぜか腹立たしくて手の痺れを忘れていた。

 

(つづく)

 

蒼き青春の軌跡 27

テーマ:

蒼き青春の軌跡

 

      第二章 企業戦争の中で

          (三の二)

 

新人の中島はかなり苦しそうで青ざめた顔をしている。 明らかにオーバーペースなのだが、松尾は素知らぬふりをしていた。

<こうして苦しみながら、次第に強くなっていくものさ>

上條も冷ややかな顔で、新人達の顔色を観察しているだけだった。

 

適当な訓練場所を見定めようと思って、松尾は一足先に出発した。 上に登るにつれ風は次第に強くなってくる。 時々立ち止まって風をやり過ごしながら七合目付近へ登ったが、雪が少なく訓練に適した場所が見つからない。 風は強いしあぶなっかしい新人を連れて、あまり上には行きたくなかった。 雪の着いた末端部でアイゼンを履き、ゼルブスト(安全ベルト)を着けて、他の連中が到着するのを待った。 再び寒さを感じ始めてオーバーヤッケを着込んでいると、上條に連れられた新人達が到着した。

「今年は雪が少ないね、風も強いし。 今日は歩行訓練と耐風姿勢ぐらいにしとかない? このちょっと上くらいで」

「そうだな。 滑落停止の訓練は今日はちょっと無理だろうな」

松尾の提案に、強風を危惧していた上條も頷いた。

 

アイゼンを着け直登、斜登行、そしてトラバースや下降などの訓練を繰り返し行った。 松尾自身はこういう訓練にはうんざりしていた。 歩くこと自体は実際の山行で黙っていても身につくはずだし、松尾自身も一度も訓練を受けたり、教えてもらうことなど全くなかった。 人は状況に適応して、自然に体が覚えてしまうはずだ、といつも思っていた。 それに対して上條は、人に教えることに情熱を持っているようだった。 というより、松尾の見るところ、人に教えるのが大好きなようだ。 松尾は数回歩いて上り下りしてみせると、小屋の陰に行ってお湯を沸かした。 ようやるわ、と思いながら練習を飽きもせず繰り返している上條や新人を見学していた。

松尾は自分自身が、人の山行を見ながら技術を身につけていった立場であり、人に山に関することを教えること自体、好きになれなかった。 むしろ、山屋として優れた人達と沢山の山に入ることが最良のトレーニングであり、勉強にもなると考えていた。 実践の中にこそ全てがあると信じていたから、上條の考え方ややり方には反発も感じていた。 ただ、それは人それぞれの山に対する考え方の違いとしか、言いようがないのだが。 松尾は、「俺は人に教えたり指導する為に山はやっていない。 学びたい奴は自分から飛び込んで来い」と、いつも若手には言っていた。 しかし上條と一緒に富士山に来た以上、新人をほったらかしにもできない。 上條が指導するのをサポートする役目にまわっていたが、たとえ一人ででもこのまま一気に頂上へ駆け上がりたい誘惑に駆られていた。

昼になり、お茶も沸いたので皆を呼ぼうと思って立ち上がると、吉田大沢の上部から黒い点が雪面を落ちてくるのが見えた。 次第にスピードが上がってくる。 それはよく見ると、石ではなく人のようだった。 強風にあおられてバランスを崩したのだろうか。 松尾は反射的に上條たちの方へ走りながら、大声で叫んだ。

「おーい、逃げろー。滑落だぁ」

上條が振り返って、松尾の方を見た。 松尾は上を指してもう一度叫んだ。

「滑落だぁ、逃げろー」

上條は上を見上げると、新人達に何かを叫んで松尾のほうに向かって走り出した。

黒い点はスピードを上げて、グングン近づいてくる。 ピッケルが飛ぶのが見えた。 上條達の上部で訓練していた一団が、滑落に気付いて左右に散った。 だが逃げ遅れた一人が、黒い塊に足を引っ掛けられて転倒した。

滑落者は大きくバウンドして右の肩口から落ちると、そのまま小さなバウンドを繰り返しながら、こちらへ逃げてくる上條達の横をビュンと唸りを上げて落ちていった。 バウンドする度に手足が空中に舞っている。 完全に意識を失っているのだろう。 傾斜が緩くなるに従い、スピードは少し落ちたように見えたが、そこで止まる気配はなく、雪面の終わりに向かってさらに落ちて行く。

「危ない!」と、松尾が思った瞬間にその体は岩に叩きつけられ、二メートルほど空中に飛び上がり砂礫の上に落ちた。 まるでスローモーションでも見るようだった。 ヒューッと風が鳴った。 松尾の背中に悪寒が走った。

 

上條の方を見ると、さっき滑落に巻き込まれて転倒した男のほうへ駆け上って行くところだった。 新人達はその場に立ち竦んで、動くのもままならないようだった。 松尾は一瞬迷ったが、上條とは逆に下へ向かって走り出した。

滑落線に沿って下りていくと、ところどころ雪の上に赤い染みがついている。 血だ。 松尾は再び背中に悪寒が走るのを覚えた。 岩と岩の間に見える滑落者はピクリとも動かない。

「もう、ダメかも知れないな」

そう思いながら、松尾は黒い塊に向かって小走りに駆けた。 すぐそばを登っていた三人パーティも、下からトラバース気味に、滑落場所に向かって急いでいるところだった。

松尾とその三人が、うずくまったままの滑落者の所へ辿り着いたのは、ほとんど同時だった。

 

(つづく)