蒼き青春の軌跡 25

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蒼き青春の軌跡

 

      第二章 企業戦争の中で

          (二の二)

 

店の前まで来ると松尾は急に不安になり、深呼吸をしてからドアを押した。 店内を見渡すと、一番奥の仕切りの陰になったボックスに、佳奈は座っていた。 松尾を見つけて佳奈は笑おうとしたが、急に下を向いてしまった。 松尾が向かいのいすに座ると、顔を上げてやっと笑った。

大きな目から涙がこぼれそうだった。 松尾は胸が締め付けられるような思いにかられ、

「お久しぶり」

とだけ、ようやく言った。

「本当に久しぶりね。 元気そう、でも少し痩せたかな」

佳奈は泣き笑いしながらそう答えると、 顔を伏せてハンカチで涙を拭いた。 水を運んできたボーイが、怪訝そうな顔をして二人の様子を見ている。

「コーヒー二つ」

松尾はわざとぶっきらぼうに注文してボーイを追い払った。 ボーイは返事も返さずに戻っていった。

 

「未だだいぶ黒いだろう。 アラスカ焼けがとれなくて、向こうで三回、日本に戻ってもう一回脱皮しちゃったよ」

おどけた調子で喋ってみたが、佳奈は黙ったままうるんだ目で松尾の顔を見ていた。 しばらくの沈黙の後、ぽつんと言った。

「もう私のこと、忘れてたの?」

いきなり切り出されて、松尾は言葉に詰まった。

「いや・・・・」

松尾は慌てて煙草に火をつけながら、言葉を探した。

「忘れるどころか、日本へ帰って来てからずっと電話を待っていたんだ。 なんと言ったらいいか、こちらから電話を入れるのが怖いような気がして、そちらからくれるのを待っていたんだ」

「私はさっきも話したけれど、寮には夜に何回か電話したわ。 でも、いつもいなかったから。 だけど、怖いっていうのはどういう意味ですか?」

「うーん、 うまく言えないけど遠征のように現実から離れたところに長く行っていると、元の世界に戻るのが怖いような。 自分がいない間に何もかも変わってしまうんじゃないか、変わってしまったんじゃないかって思えてきちゃって。 それを知るのが怖いという・・・・」

「待って!」 松尾の言葉をさえぎると、佳奈は強い抗議の口調で言った。

「私はあなたがアラスカに言っている間、毎日毎日あなたのことを考えていました。 遠くへ行く人より残されて待つ方がよっぽど怖いわ。 いつでも心配だし、帰ってきた松尾さんがもう私を振り向かなくなるんじゃないかって。 それは翼が生えて飛び出していく鳥を、飛べない鳥が下から見上げているようで切なかったわ」

「なんだ、佳奈ちゃんはコケコッコかい」

松尾が笑いながら混ぜっ返すと、佳奈もつられてつられて笑った。

それまでの固い雰囲気が氷解した瞬間だった。 お互いにもうそれ以上、そのことに触れる必要が無くなったと感じていた。

 

松尾はかつてのように、アラスカの自然や登頂の様子を身振り手振りで面白おかしく話して聞かせた。 佳奈は驚いたり、笑ったり、そして眉をしかめたりしながら松尾の話に身を乗り出していた。

話をしながら松尾は、刻々変わる佳奈の表情を久しぶりに楽しんだ。 気持ちの変化が素直に顔に表われ、表情の一つ一つに弾みがあった。 特にその大きな目は、驚くほどに情感豊かだった。 そうした佳奈を見ていると、松尾の心も自然に和んでくるのを感じていた。

一通り話が終わると、松尾は急に空腹を覚えた。 佳奈を夕食に誘おうと思ったその時、聞き役だった佳奈が口を開いた。

「私これから日赤病院に行かなきゃいけないの。 実は父が、だいぶ前から入院しているんです」

「ああ、ほんとに? 全然知らなかった。 いつから? 何の病気なの?」

「松尾さんたちが出発して、二週間ほどしてかしら。 ほんとに急だったんだけど」

「じゃあもう随分と長いね。 どこが悪いの? 兎に角一度、お見舞いに行かないと」

「お見舞いはいいんですけど、実はーー」

佳奈はちょっと口ごもったが、思い切ったように松尾の目を見て言った。

「父はガンなの。 胃をやられてしまっていて。 発見が遅かったので腸の方にも転移が進んでいるみたいで・・」

「手術はできたの?」

「開いてみたけどもう手遅れだったとかで、そのまま閉じたらしいわ。 毎日勤めの帰りに病院に寄っているんです。 だから、あまり電話もできなくって・・・」

松尾は先日の、電話での佳奈の母親の口調をようやく納得した。

<そうか、ずいぶん辛い思いをしたんだな。 それなのに俺は>

そう思うと松尾は佳奈に、謝らずにはいられなかった。

「本当にごめんよ。 そんな事だとも知らないで、おかしな意地を張っちゃって。本当に悪かった」

佳奈はにっこり笑うと、黙って首を横に振った。

 

(つづく)

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蒼き青春の軌跡 24

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      第二章 企業戦争の中で

          (二の一)

 

佳奈の家に電話してから数日、松尾はすっかり落ち込んでいた。 佳奈が何か決定的に遠い存在になってしまったように感じられた。 ついこの間までは、意地を張っていてもいつかはまた、遠征前の二人に戻れる気がしていた。 だがあの晩の、佳奈の母親との電話のやり取りは、松尾を絶望的な気分にさせていた。仕事にも身が入らず、何をする意欲も湧いてこなかった。

ここしばらくは仕事に熱中していて、会社の帰りに飲み屋に寄ることもなかったが、電話をした翌日からは、同僚や山仲間と赤提灯に通い詰めになっていた。 したたかに酔ってやっとのことで寮にたどり着くと、ただ布団を被って寝るだけだった。 朝、目が覚めると二日酔のズキズキする頭と体のだるさに、やりきれない自己嫌悪を感じながら、ノロノロと出勤する日々が続いた。

一週間が経ち、幾分気持ちにも張りが戻ってきた。

<いつまでもこんなことじゃいけない>

と、自分自身を叱咤して、部下の田崎と藤森を呼んだ。 仕事上のデスカッションをするためにである。 技術グループに移り数ヶ月が経とうとするのに、どうしても寿命と配向性の両方の特性を満たす材料が見つかっていなかった。 今までのやり方や考え方に、何か誤りがあったのかも知れない。 松尾の自信は大きく揺らぎ始めていた。 こうしてデスカッションをすることで、必要な軌道修正をして今後の方向をもう一度検討したかった。

今までに調査や実験を重ねた材料のデータを並べ、個々について見当を加えたが新しい事実やアイデアは出てこなかった。 今日も突破口は見つからなかった。

 

昼休みになり、みんな昼食に出掛けて職場には誰もいなくなった。 松尾は二日酔で食欲もなく、寮から持ってきた朝刊に目を通していた。 別にたいしたニュースもなく新聞をたたむと、窓辺に立ってガラス越しに、葉を落とし始めた裏山の木々を見つめた。

<また冬が来るか。 今年の冬山はどこを狙おうかな>

ぼんやりとそんなことを考えていると、部屋の隅の電話が突然けたたましく鳴った。 松尾が受話器を取ると、交換手の声がした。

「松尾さんに、外から電話が入っています」

誰だろうと思いながら少し待つと、若井女性の声がした。

「もしもし、松尾さんをお願いしたいのですが」

松尾は一瞬言葉が出なかった。 佳奈の声だー 心臓が高鳴った。 思わず受話器を握り直した松尾の声は、上ずっていた。

「あの、俺、松尾です。 佳奈ちゃんですね」

「あっ、ええ。 お久しぶりです、お元気ですか」

「うん」

「先日、電話を戴いたって母から聞いたものですから。 翌日に、寮に電話を差し上げたけど見えなかったものですから。 会社に掛けるのはご迷惑かと思ったんですが」

「いや、とんでもない。 もう電話しちゃいけないような気がして、こちらからは掛けにくかったんです。 こっちに帰って来た時も連絡もらえなかったし」

「いいえ、戻られたって知って、二、三度すぐに寮のほうに電話をしました。 本当よ、でもいつも、いらっしゃらなくてーー」

佳奈の声が途切れた。 電話口の向こうの彼女の昂ぶりを察して、松尾は言葉に痞えた。 二人の間に一瞬の沈黙が流れたが、松尾は辛うじて聞いた。

「おかしいなあ。 俺もずっと電話を待ってたんだけど。 とにかく今日会えますか?」

「はい。 でもあまり長くは会えないけど」

「じゃあ、五時にこちらから幼稚園に電話をしますから」

そこまで言うと、昼食を食べ終えた連中がゾロゾロと部屋に戻ってきた。

「五時には必ず電話入れるから」

声を潜めてもう一度念を押すと、松尾は電話を切った。 さっきまでの憂鬱が嘘のように心が弾んだ。 松尾にはただひたすらに五時の終業のベルが待ち遠しかった。 気持ちがそわそわして、仕事もろくに手がつかなかった。

 

五時のベルがなると、松尾ははやる心を抑えるように、意識的にゆっくりと仕事の後片付けをして部屋を出た。 そして人目をはばかりながら、赤電話のある通路へ小走りに駆けた。 自分でも恥ずかしいと思うくらいに胸が高鳴りだしていた。 幼稚園のダイヤルを回すと、待っていたようにすぐ佳奈が出た。 さっきとは打って変わって、佳奈の声も心なしか弾んでいるようだった。 前に、よくデートに利用した並木通りの喫茶店で落ち合うことにした。

外は薄暗くなりかけていて肌寒かったが、松尾は汗ばむほどにペダルを漕いで、喫茶店に急いだ。 途中赤信号を無視して通りがかった車が急ブレーキを踏み、車の中から罵声が飛んだが意にも介さなかった。

 

(つづく)

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蒼き青春の軌跡 23

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      第二章 企業戦争の中で

          (一の三)

 

技術グループに転籍してから二ヶ月が経ち、仕事には何の進展も得られないまま、秋色が濃くなっていった。 諏訪湖畔を自転車を引きながら、松尾は歩いていた。 短くなった日はまだ五時過ぎだというのに、松尾の前に長い影をつくっていた。 遅々としてはかどらない仕事の状況が、松尾の気持ちを重くしていた。 めっきり涼しくなった風が、自転車を引く松尾にはやけに冷たく感じられた。 さりとて急いで寮に帰る気にもなれず、歩いていた方が気がまぎれるような気がして、こうして秋を肌に感じながら歩いているのだった。

目線を自分の影に集中させて歩いていると、近くで子供の声が聞こえた。 何気なく声のするほうを向くと、広場で三人の子供達がブランコに乗って遊んでいる。 夕焼けにシルエットになったその光景を見て、松尾はふいに佳奈の顔を思い出した。

<そうだ、あのブランコだった。 子供が落ちて怪我をしたのは>

松尾は出会いの時をまざまざと思い出していた。 それはまるで、昨日のことのように鮮烈であった。 佳奈の大きく瞠った目が、松尾に笑いかけているようであった。

ここしばらくは忘れかけていた、というより忘れようとしていた佳奈の存在が、突然蘇って来た。 目の前でブランコで遊んでいる子供達を見ていると、佳奈がたまらなく懐かしくなり、今まで押しとどめていた感情の渦が、堰を切ったように松尾の胸に溢れ出てきた。 先ほどから自分が引いている影は、佳奈の面影のようにも思えた。

 

松尾ははじかれたように自転車に飛び乗ると、三百メートルほど先に見えた電話ボックスまで一気にペダルをこいだ。 自転車を放り出しポケットを探って十円玉を取り出すと、頭の片隅に刻んであった電話番号をもどかしげに回した。 ルルル・・・・・という呼び出し音が鳴る度に、松尾の胸は高鳴っていった。

「はい、野口でございます」

落ち着いた初老の女性の声が、受話器から聞こえてきた。

「あっ、あのう松尾ですが、ご無沙汰しています」

「ああ、松尾さん、お久しぶりねぇ。 新聞で見ましたよ、あなた達のご活躍は」

「はぁ、どうも有り難うございます。 あのー、佳奈さんはいらっしゃいますか?」

「済みませんね、今、佳奈はいないんですよ。ちょっと用があってね」

「そうですか。 何時頃に戻られますか?」

「それが・・、ちょっと遅くなると思うんですよ」

佳奈の母親何か言いにくそうで、歯切れ悪く松尾には感じられた。 それと同時に、不安と疑惑が心の中に雲のように湧きだしてきた。 さりとて、これ以上いろいろ聞くことは、松尾のプライドが許さなかった。

「そうですか。 じゃあ、また掛け直します」

「帰ってきたら電話があったと伝えておきますね。 一度、顔を出して下さいな」

「はい、有難うございます。 それでは失礼します。 おやすみなさい」

受話器を置くと、体から力が抜け落ちるように松尾は、電話ボックスの壁に背を持たれかけた。 頭は混乱していた。 佳奈に対する疑惑と、熱い想いが胸の中に渦巻いていた。 かといって今の松尾にはどうすることもできず、ため息をついて電話ボックスを出た。

<いったい佳奈に何があったんだろう。 もっと早くに連絡だけは取るべきだったんだ>

 

松尾は何か、大事な忘れ物でもしたような気分で自転車に乗った。あたりはすっかり暗くなっていて、心は重く身を切る風の中に、秋の冷気がいっそう強く感じられた。

寮に帰り、味気ない晩御飯をとって埃っぽい部屋に戻ると、敷きっ放しの布団の上にひっくり返った。 薄汚れた天井にぶら下がっている蛍光灯をぼんやり見つめていると、一緒にサイクリングやボウリングに行った頃のことが、しきりと思い出された。 佳奈の弾んだ笑い声が、すぐそこで聞こえているような気がしてならなかった。

それはもう、自分には手の届かない世界のようにも思えた。 意地を張っていた後悔と、

<でも、どうしようもなかったじゃないか>という弁解が、心の中で交錯していた。

それとは別にこの二年間、佳奈が自分の中でどれほど大きな存在であったかも痛感していた。 どんなに「仕事だ」「遠征だ」といっても、その後ろには常に佳奈の存在があった。 マッキンレー登頂成功の喜びも、登頂で手に入れたはずの栄光も、佳奈の笑顔に比べれば、まるではかない何の実体もない霞のようにすら思えた。

<ああ、佳奈に逢いたい>

熱い想いが胸にあふれ、松尾はいつまでも眠ることができなかった。

 

(つづく)

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蒼き青春の軌跡 22

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      第二章 企業戦争の中で

          (一の二)

 

店を早めに閉めると、島村と三人は連れ立って横丁の行きつけの飲み屋「甚六」へ出掛けた。 飲み屋のおやじは、四人の顔を見ると、

「やあ、これはどうも、おめでとうございます」

そう言って二階に案内してくれた。 この店からは遠征に出る際に、お客さんからの寸志も含め沢山の餞別を貰っていたので、上條はひとしきりお世話になったお礼を言っていた。

 

座敷に上がると、新聞社の人間はもう来ていて、一杯飲みながらの遠征話に花が咲いた。 ちょっと小太りで、度ぎついメガネを掛けた新聞記者は、登頂の様子を中心にアラスカの自然を読者に紹介したいという。 地元の新聞だからこそ、地元の遠征隊の話を是非取り上げたいのだそうだ。 記者は職業柄か、なかなかの聞き上手であった。

上條や松尾は問われるままに、登頂前後の様子を話して聞かせた。 若井が時々横から茶々を入れたが、酒の勢いも手伝って登頂の様子は、実際以上に厳しい気象条件の下で、実行されたことになってしまっていた。 松尾は後にその新聞紙上に、

「猛吹雪を着いて登頂に成功」

という文字が大きく踊っているのを見て、顔を赤らめたのだった。

その夜は大いに飲み、大いに喋って松尾も上條も上機嫌だった。 聞き手の記者に持ち上げられて、水野の件はどこかの失念してしまった。 だが、松尾の頭の片隅では何故かいっこうに連絡の無い、佳奈の顔がチラついて離れなかった。

 

遠征から帰って一ヵ月後、会社の組織変更で、松尾は今までの開発グループから技術グループに席が移った。 時計製品のコスト対応力を強化する目的で行われた組織変更であった。松尾は、開発Gでも液晶パネルの低コスト化をテーマに仕事をしていたので、製造ラインに近い技術グループで仕事をすることになったのである。 従って、技術Gに移っても実際の仕事の内容はほとんど変わらなかった。

ただ部下といえる人間が三名、松尾と一緒に仕事をすることになった。 開発部時代に比べると、職制の上下関係はかなりはっきりしている。 各人がテーマを一つずつ持って、大きなグループの中で比較的独立した形で仕事をしていた松尾にとっては、新たな経験であったが部下を持つというのは悪い気のするものではなかった。 ただ、そのことを佳奈に報告できないのが残念であった。

松尾の今のテーマは液晶の配向剤の改良であった。 液晶は種類によって異なるが、分子が一定の法則に従って、ある方向に規則性を持って並ぶ性質がある。 その並び方は、液晶を入れるガラスの表面状態によって決定される。 従って、液晶分子を一定方向に並べる為には、ガラスの表面に特殊な処理が必要となり、その処理のことを配向といった。

現在は大型の真空機械の中に原料ガラスを入れて、配向させるための配向剤を、スパッタリングという方法で飛ばしていた(真空装置中でガラスなどを蒸発させて蒸発物を付着させる方法)。 だがこの方法では一回あたりの処理枚数が限られ、時間もかかりすぎる欠点を持っていた。 従ってコストを安くするためには、もっと簡単に配向剤を付与できる方法を見つける必要がある。 安価で処理が簡単で、しかも長期にわたって液晶の配向を維持できる配向剤を見つけるのが松尾のテーマであった。

松尾は開発グループで、既に簡単な配向処理方法についての研究を重ねてはいた。 だが寿命がもたず、実用化には至っていなかった。 寿命を実用レベルにまで持っていかないと商品化はできない。 そのテーマを実現させるために、技術グループへ転籍してきたのだ。 松尾は部下と一緒に、いろいろな配向剤を製作しては実験を繰り返した。 しかし、寿命がもつものは配向性にバラツキが出やすく、配向性が良いものは寿命がばらつき、補償できない場合が多かった。 仕事量の割には、得られる成果が少なかった。

技術グループは開発部門と比較すると、製造に近い立場にあるために仕事に対する納期意識が厳しく、仕事の進捗状況を毎週上司に報告することが義務づけられていた。 そのことが、一層松尾の焦りを誘っていた。

 

(つづく)

蒼き青春の軌跡 21

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      第二章 企業戦争の中で

          (一の一)

 

暑い日差しが照りつけ、寮の窓から見えるかえでの葉も力なく垂れ下がっている。 風はそよとも吹かず、窒息しそうな空気が狭い室内によどんでいる。

自室の窓を開け放ち、額に汗を滲ませながら、松尾は机に向かって会社から借用してきた文献を一生懸命読もうとしていたが、湿度の高い日本の夏はアラスカから帰ったばかりの身体にはこたえた。 だが体や頭が環境に慣れるのを待ってくれるほど、仕事はのんびりとしてはくれなかった。 日本へ戻って初めての休日だったが、こうして机に向かって遅れた仕事を取り戻そうとしているのだった。 しかし目は活字を追っていても、心の中では別のことに気を奪われていて、どうにも集中できないでいた。

 

日本に帰るに当たって、あれほど再会を楽しみにしていた佳奈からの連絡が未だ無いのだった。 帰ってきて、もう四日も経つというのにである。 佳奈は自分たちが帰ってきたことを当然知っているはずだし、それなら向こうから連絡があっても良い筈だ、と松尾は思っていた。 今日は来るはずだ、明日こそはと思いながらもう四日も経ってしまった。

<佳奈にはもう、俺のことを忘れてしまうような何か変化があったのだろうか。 もしかしたら他に好きな人でもーー。 いや、そんなバカな、僅か一ヶ月ちょっとのことで>

考えるほどに、松尾は何故か腹が立ってきた。じっとりと身体にまとわりついてくる暑さも、松尾の神経をイラつかせた。 考えはさっきから同じ事をどうどうめぐりしている。

<いいさ、それなら俺の方だって忘れてやるーー>

松尾は文献をパタンと閉じて立ち上がった。 こうして昼間から人気の無い寮で、女からの連絡を待っている自分にも腹立たしくなってきていた。 松尾は文献を紙袋に入れると、自転車の籠に放り込み、ペダルを踏んで近くの喫茶店に向かった。

ドアを押して薄暗い店内に入ると、強すぎるほどの冷房で汗がすうっとひいていき、同時にイライラしていた気分も少しは落ち着いてきた。 明るく軽快なBGMが心地よく流れ、とげとげしくなった神経を和ませてくれる。 コーヒーを頼んで文献に目を落とすと、やっと仕事の情報がスムーズに頭に流れ込み始めた。

その日も遂に、佳奈からは何の連絡も無かった。 松尾も意地になり始めていた。

<こうなったら俺の方からは、絶対に連絡はしないぞ。 佳奈が俺を忘れているのなら、俺だって忘れてやる。 別に佳奈だけが女じゃないさ>

そう心に決めて、布団にもぐり込んだ。

 

月曜日に出社すると、昨日までの憂鬱が嘘のように消え、二ヶ月前の自分を取り戻したように仕事に身が入った。 デジタル時計の発売は予測していた通り、他業種からの参入の機会をあたえ、最近では電卓戦争に生き残ってコスト競争力の強いK社が、デジタル時計生産を始めていた。 このK社参入の発表を機に、S社でも本格的なコスト低減活動が始まった。 当然、松尾が関与するパネルにも強いコストダウン要請があった。

松尾が遠征から戻ってまずびっくりしたのは、その目標数値の凄さであった。 半年以内に、パネルのコストを半減せよというものだった。 初めは冗談かと思ったのだが、考えてみれば決して無理な数字ではない。 まだ歩留まりは50~60%台で安定しているとはいえなかったし、工程を見ても一個一個手作り的な作業をやっていて、前近代的な感じさえあった。

グループ内でいろいろディスカッションをしてみると、コスト低減のアイデアはいくらでもあった。 松尾は新しい目標を目の前にして、これは面白そうだと感じ始めていた。

<仕事に打ち込んでいけば、佳奈のことだって忘れていれそうだ>

頭の片隅にそんな思いもチラリと顔を覗かせていた。

 

仕事からの帰り掛けに、山岳会の先輩が経営するスポーツショップ深雪荘に足を向けた。 店内でお客と話をしていた島村は、松尾の顔を見ると

「おう、今日は早く店を閉めて飲みに行くぞ。 アラスカの話を聞かせろよ。新聞社でも聞きたがっているんだ。 若井はもう二階へ来て待っているぞ」

そう言って、白いものの混じり始めた顎ヒゲをしゃくりあげた。 島村は諏訪地方の重鎮的な存在で、地元の新聞社や遭難救助の警察などに、幅広い人脈を持っていた。

松尾が階上に上がっていくと、若井は棚に積んであるハーケン類をひっかきまわしているところだった。

「やっ、松尾さん。 今日は社長がタダで飲ましてくれるってさ」

松尾の声に気付いた若井は、白い歯を見せて屈託無く笑った。 松尾もつられて笑いながら気になっていることを尋ねた。

「ところで、水野は病院に行ってみたのかな? 若ちゃん、聞いてない?」

「ウン、昨日ここで会ったけど、何も言っていなかったで大丈夫だと思うよ」

「そうか、それならよかった」

「まああの人は、少々オーバーなとこがあるからー。 最初は大分心配したけど」

松尾は、水野と顔を合わすのが何となく気まずくて、遠征以来彼と会うのを避けていた。 若井と話し込んでいると、上條も顔を出した。 やはり、新聞社と話をするというので島村に呼び出されたのだという。

 

(つづく)

 

蒼き青春の軌跡 20

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      第一章 極北の山へ

          (七の四)

 

その夜、五人は登攀の苦労やわだかまりを忘れるかのように、飲み続けた。 心のどこかに、やはり登ったものと登らざるものの、心の隔たりが潜んでいた。 そのこだわりを松尾は飲みまくって、忘却のかなたへ押しやりたかった。 無事を祝い、登頂を祝い、雪を讃え天候を讃え、「乾杯」「乾杯」の連続だった。 残念ながら登頂は果たせなかったというアメリカ人チームも加わり、古い開拓時代の名残を残したバーで五人が飲み潰れるころ、七月の極北の早い朝は白々と明け始めていた。

三十日にわたる登山活動は、登頂と引き換えに五人の間に微妙な心の行き違いと、こだわりを残して終わった。

 

登山後の五人は、残された時間を惜しむように、観光地巡りに精を出した。 ユーコン川を越える北極圏への遊覧飛行を楽しんだ後、フェアバンクスの町で買物をしていると、店の人からカリブー(となかい)のステーキが食える店があるよと教えられ、五人はその店のある場所へと向かった。 丸太で組まれた二階建てのレストランは、朴訥とした佇まいでタイガ樹林を切り開いた場所にあった。 店の前には何故か自動車が一台も無かったが、店内は近郷近在の農家の人達で賑わっていた。 誕生パーティと思しき集まりの連中や、いかにもヤンキーという感じの陽気な連中がいっぱいで、明るく健康的な雰囲気に満ちていた。

「おい、車も無いのにどうしてこんなに人がいるんだろう。 見渡す限り、人家らしきものは近くには無いぜ」

「そうだよなー。 ちょっと不思議な現象だなぁ」

席に着いて店の中を見回しながら、若井が松尾に首を傾げて言った。 歳をくったウェートレスがやってきて、注文を聞いて回った。

トイレを探して店内をうろうろしていた水野が戻って来て、得意気に話し始めた。

「わかった、わかった。 何で車が無くて人がいるのかの謎が解けました」

今一つ元気の無かった水野が、この時ばかりは目が輝いていた。

「裏庭を見てみい。 みんな裏から入って来ているんだよ」

そう言われて四人が席を立ち窓際から下を見ると、何と、セスナ機がずらっと並んでいる。そしてその先には、店と平行に舗装されていない滑走路が見えていた。

「参ったね、滑走路付きのレストランかよ」

上條がそう言うと、皆顔を見合わせた。

「この辺じゃ車で乗りつける何ていうのは、田舎モノのすることかや?」

若井はそうつぶやくと、すごすごと自席へ戻ったが、<農家のおっちゃんたちも、十分に田舎モノじゃん>と、松尾は笑いをこらえていた。

 

やがて、カリブーのステーキなるものがワインと一緒に運ばれてきたが、山を下りてからというもの、皆の食欲は凄まじいものだった。 山での食に対する渇望感と体重減少を癒すかのように、むさぼり食べてきた。 うっかり頭を下げると、食道まで詰めまくった食べ物が、喉からこぼれ出そうなくらい、アンカレッジでも途中のドライブインでも食べ続けてきた。 何を食べても美味しく、自分でも信じられないほどよく食べた。

そんな五人だったから、カリブーの肉を目の前にして、あんぐりとかぶりついたのだったが、期待に反してそいつは、「うっ」と喉につかえた。 口の中いっぱいにマトン特有の臭いが広がり、皆一斉に顔をしかめた。 アラスカに来てこの方、牛肉に慣れた舌にはマトン臭は癖があり過ぎた。

カリブーといっても鹿は鹿である。 羊とは大差ない味であろう事ぐらいは想像に難くない筈だが、いかにも”極北の料理”という響きのある「カリブー肉」に憧れた分、失望も大きかった。

松尾は急に食欲がしぼんで、三切れついたステーキの二切れしか食べれなかった。 それでも土産話にはなると、水野は不味い不味いと言いながら、みんな平らげてしまった。 水野の体調が回復基調になってきたように思えて、上條や松尾は少し胸を撫で下ろしていた。 小量のワインでほろ酔い気分になり、沈まない太陽を背に受けて、次の目的地に向かった。

 

交代で運転をしながら、一晩中ワゴンを飛ばし、時速五十五マイル(約90キロ)で走り続けること八時間、フィヨルドが発達して北欧のような雰囲気のバルディーズという小さな港町に着いた。 氷河の末端は海へと直接崩れ落ちてきていた。 氷河の周囲には緑が繁茂して、氷河が海へと崩れ落ちる蒼い氷河に彩りを添え、特異な風景を見せていた。 氷河が崩れ落ちた海辺の氷塊の上ではアザラシが遊んでいるーー 何もかもが自然、何もかもがアラスカーー 松尾はこの特異で野生に満ちた風景に見とれ続けた。

この土地から離れがたい気持ちが強かった。 だが、日本に帰るまでに残された時間は、もう無くなりかけていた。

 

(つづく)

 

アメリカ人パーティたちと

 

蒼き青春の軌跡 19

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      第一章 極北の山へ

          (七の三)

 

体を折るようにして寝ていたので、腰と背中が痛い。 うとうとしては体の痛さで目が覚め、体をずらしては姿勢をかえて、またうとうとする。 しかし、肩や足先の寒さに耐え切れなくなって、ほとんど同時に二人とも体を起こした。

コンロを暖めて火を付けると、狭いツェルトの中に湿った暖かさが充満してくる。 時計を見るとまだ三時だ。 小さなコッフェルに雪を入れお湯を作る。 ビスケットを開けたが、体が受け付けない。 無理に二、三枚を口に頬張って、お湯で流し込んだ。

ツェルトから外を覗くと、相変わらず雪が舞い視界が利かない。 だが、これ以上ここにとどまっても、体力の消耗がひどくなるだけだ。 意を決して外に出ると、強い寒気が喉の奥まで流れ込み、呼吸をすると痛みを感じる。

 

のろのろと、しかし彼らには精いっぱいのスピードで下降を開始する。 ルートが分からないので、最大傾斜線に沿って一直線に下りるが、平衡感覚を失って時々転びそうになる。 雪は深くないのに疲労で足元がもつれ、下から吹き上がってくる風で雪が顔に張り付き、伸びた無精ひげも凍ってしまった。

岩稜に沿って下っていくと、懐かしいC3のテントが見えてきた。

<あー助かった、生きていた> という思いだけが、松尾の胸に突き上げてきた。

 

C3で松尾は、泥のように眠り続けた。 夕食もとらずそのまま朝まで眠った。 沢口は帰ってきた二人のために、お茶を沸かし飯も作ったが、結局ほとんど沢口が一人で食べてお茶を飲んだだけだった。 その日は終日吹雪が続いた。

翌朝も雪は降っていたが、小降りとなってきたのでC3をたたんでC2へと向かった。C2では不要となった食料を焼き、そのままBCへ向け下降を続けた。 雪壁下部での雪崩に対する不安はあったが、ベースキャンプへ下りたい気持ちのほうが勝っていた。 登る時に使用したフィックスド・ロープは、そのまま使用できた。 長い長い下降のすえ、氷河の底に降り立つころには青空が見え、十日前と変わらぬ炎暑地獄が待っていた。

 

ずっと三人を待っていた若井と水野がテントから迎えに出てきた。出迎えてくれた若井のにこやかな笑顔を見ると、本当にこれで終ったんだなという実感が松尾の胸に溢れ、再び目頭が熱くなった。 この瞬間で五人のわだかまりは消えた、と松尾は確信した。

だが、全員で再会を喜び合い、登頂の成功を祝ったものの、水野の体調は思わしくなく、上條にしても松尾にしても自分が登頂しただけに、何となく後ろめたさを感じずにはいられなかった。

L・P(ランデング・ポイント)へ向かう道中は、水野にはほとんど荷を持たせず上條と松尾ができるだけ荷を背負い、重い橇を曳いた。それは、少しでも自分の後ろめたさが消えてくれればという、良心の咎めでもあった。

二十日ぶりに戻ったランディング・ポイントは、来たときにも増して、各国隊で賑わっていた。

松尾らの隊が登頂に成功したことを聞きつけて、アメリカやスイスの隊が「コングラチュレーション」を言いに集まってきた。

 

隊の中で一番英語の話せる松尾は、ルートや登頂の様子を身振りを交えて、何度も話して聞かせた。 その度にお祝いを言いに来た連中は感心し、頷き、笑い、そして同情して見せた。 これからピークを目指す彼らにとって、マッキンレーの頂上を踏んだ松尾や上條は、あたかも羨望と尊敬の的のようであった。 話して聞かせる回数が増すにつれ、登頂の様子は次第に誇張され粉飾されて、尾ひれがついていったが、松尾自身も自分の語る話に引き込まれ、自分の言葉に酔い始めていた。

松尾と上條が各国隊との応対に忙殺されている間、水野や沢口は所在なさげにテントの横に腰を下ろして、フォーレイカーの秀麗な姿や荒々しいハンター北壁を眺めていた。 外人相手にはしゃいでいる松尾たちを横目に見て、若井の胸には苦々しいものがわだかまっていた。 が、彼は一切を口には出さず、いつ来るとも知れない迎えのセスナに乗り込む準備を黙々と進めていた。

 

純白の氷河がズタズタに裂け、やがて黒ずんでくると、緑の大地が眼下に広がってくる。 再び機上の人となった五人は、行きとは逆に眼下の緑と、光り輝く湖沼群を食い入るように見つめている。 やがてセスナは、登山基地タルキートナに到着した。 飛行機を降りると、風が運んでくる土埃の匂いが、生き物の住む世界に戻った喜びを伝えてくる。 アラスカの短い夏は今が真っ盛りであった。 氷と雪に閉ざされたモノクロームの世界から一転して、緑したたる豊饒の大地へーーその鮮やかな対比が五人の心を弾ませていた。

 

(つづく)

 

ランディング・ポイントにて; 外国隊との会話

 

蒼き青春の軌跡 18

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蒼き青春の軌跡

 

      第一章 極北の山へ

          (七の二)

 

その場で行動食を少し口に入れて、二人は再び行動を開始した。 引きずるザイルさえも重く感じながら、ただひたすら足元を見つめて歩き続ける。 やがて雪壁は傾斜を増し、小さな岩場にぶつかった。 右か左か、松尾が迷って上條を見ると、下から彼は右手を指し示した。 右側のルンゼ状になった急斜面を登り出す。 かなり傾斜がきついので、上條は確保体制を取っている。 ルンゼのどん詰りには一メートルほどの岩があり、高度のせいで重くなった体を、やっとの思いで持ち上げると、突然視界が開けた。 とうとう頂上への主稜線へ出たのだ。

「上條さん、出たよ」

下へ叫んで、すぐに上條を引っ張り上げる。 稜線は風が強く、時々ブリザードのような雪が容赦なく松尾の顔に叩きつける。 じりじりするほど上條の動きは鈍かった。 それでもようやく上條の姿が岩の向こうから現れると、お互いに顔を見合わせてニッコリ笑った。

とうとう六千メートルを超えた。 あとは右手に延びている、緩やかな稜を辿るだけだ。 二人は寄り添って風を避けながら、テルモスのコーヒーを分け合って飲んだ。 渇いた喉にコーヒーの甘さが心地良い。 頭痛はあったが次第に慣れてきていた。

再び立ち上がって歩き出すと、風に加えてガスが出始めた。 視界が次第に利かなくなり、時々立ち止まってはルートを確認する。 もう松尾の頭には、頂上のことし思い浮かばない。

体は疲れ天候は確実に悪化していたが、心は弾んでいた。 しかし、行けども行けども、なだらかな稜線がゆるい上りとなって、果てしなく続いているだけだ。 次第に不安が、二人の胸を過ぎり始めていた。

<ひょっとして、ルートを間違えたんじゃないだろうか>

そんな時、前を歩いていた上條が、前方を指差して松尾に振り向いた。 巻き上がる雪の中に赤いものが揺れている。 旗だ。 頂上に違いないと、苦しい息遣いで二人は歩を速めた。

 

思うように上がらない足をもどかしく感じながら、その場へと急ぐと赤旗が二本、ちぎれんばかりに風にはためいている。 周りは何も見えない。念のため旗の向こう側まで行ってみると、緩い下りが始まっていた。

「やった! 間違いないわ」

松尾と上條は手袋をはずして握手を交わし、そして抱き合った。 上條は泣いている。 松尾は脱力感でその場に座り込んでしまった。

<ああ、これでやっと下りれるな> そう思うだけだった。

上條がすぐにトランシーバーを開けて、C3と交信を始めた。 C3では上條にいわれた通りずっと開局していたらしく、すぐに沢口が出た。

「こちらアタック隊の上條です。C3感度ありますか?」

「こちらC3沢口、感度良好です。どうぞ」

「十九時十分、マッキンレー頂上に着きました。 成功です。 視界が悪く周りは何も見えなく、そしてとても寒いです」

「了解、おめでとう。 よくがんばりました。 本当におめでとう」

C3との交信が終わると、ザーという雑音に混じって、音は弱いけどはっきりと若井の声が聞こえてきた。

「こちらベース、こちらベース。 上條さん、松尾さんおめでとう。 気をつけて早く帰ってきて下さい」

その声を聞くと、松尾は急に胸がジンとして、目頭が熱くなるのを覚えた。 若井や水野の顔が思い出されて泣けてきた。 みんなで頑張ったこの一年がいま報われた。 そう思うと、ついさっきまで感じることの出来なかった登頂の感激が、胸いっぱいに込み上げてきた。 だがいつまでも、感激に浸ってばかりはいられない。 二人は日の丸と山岳会旗をピッケルに結ぶと、交互に写真を取り合った。

 

視界は悪く、風はひどく寒く冷たかったが、二人は幸福感に包まれて下山を開始した。 トレースはもうところどころ消えていて判然としなかったが、上りの時に比べれば何と早く、何と楽なことか。 小一時間で稜線との分岐点まで来ると、二人は激しい疲労と空腹を感じた。

上條はこの急斜面を、こんな状態で下るのは危険だと言い、岩の下にあるルンゼまで下ると風は無くなったので、小さなテラスを作ってビバーク体制を採った。 松尾は無理をしてでもC3まで下りたかったが、喉の渇きと空腹が、それを押しとどめた。 ツェルトを被って体を寄せ合いコンロを焚くと、温もりが凍りついた手足に染み渡り、急に睡魔が襲ってきた

 

(つづく)

 

 

蒼き青春の軌跡 17

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      第一章 極北の山へ

          (六の五)

 

明日のアタックのことを考えると、松尾は気持ちが昂ぶってなかなか寝つかれなかった。

<今度の遠征の総決算が明日にある。 明日のアタックに、この一年間のすべてが凝縮されて存在するのだ。 もしアタックに失敗すれば、この一年、一生懸命やってきた数々の準備はすべて無に帰すのだ。 反対に成功すれば、今までの苦労のすべてが報われる。 そして、一つの栄光も手中にできるのだ。 長い人生の中でこれほど貴重で、これほど重大な意味を持った日が、何度あるだろうか。 明日、俺の山屋としての今までの成果が問われるのだ>

 

松尾は考えるほどに、体の中から興奮と緊張が噴き出してくるのを、押さえることができなかった。 期待して送り出してくれた人々の顔や、佳奈の心配そうなちょっと寂しげな顔が何度も心に浮かんだ。 そして、日本で登った数々の山行の断片も心に浮かんでは消えていった。

入会して初めての冬山で、バテて動けなくなり座り込んでしまった時のこと。 夏の屏風岩で水が一滴も無くなり、喉の奥の粘膜が張りついて声すら出なくなってしまった時のこと。 そして、岩場を抜けた下山路で見つけた小さな水溜りに、直接口をつけて飲んだ水と泥の味。

とめどなく、思い出は去来して行った。 夢とも現(うつつ)ともつかぬ時が立ち、出発の時間はやってきた。

 

第一章 極北の山へ

(七の一)

 

七月三日、朝三時起床。

風は無く、不思議なほど静かな朝だった。 食欲は無いが、無理矢理ご飯をお茶で胃に流し込んで、出発の準備に取り掛かる。 寝不足のせいか頭は重く、高度の影響もあるのだろう。

アイゼンを着けてテントの外に出ると、青空の中に朝陽を浴びてマッキンレーの頂上がくっきりと見える。 南側には節煙がたなびき、稜線は風が強いことを知らせている。

黙々とザイルを結び合い、松尾がトップで歩きだす。 指先がキリキリと痛い。 歩き出して五分もすると、早くも息切れがしだした。 標高が五千メートルを超えると、酸素は地上の半分の薄さになるという。 意識的にゆっくりと踏みしめるように歩を進める。

岩稜はすぐに終わり、長い長い雪壁となった。雪はよく締まっており、アイゼンが小気味よく効いてくれる。 二十分歩いては休み、また二十分歩いては休んで、ゆっくりとだが確実に高度を稼いでいく。 五千六百メートルを過ぎるあたりで、松尾は強い頭痛を感じた。 こめかみの辺りをキリキリと刺すような痛みだ。

<とうとう来たな>

そう思いながら上を見上げると、マッキンレーの上には笠雲がたなびき始めていた。 悪天の兆しだ。 心は急ぐのだが足が上がらない。 <ここで無理してはいけないぞ>と自分に言いきかせて、小休止を入れた。

 

ラストで登ってくる沢口を見ると、足元がふらついているのがはっきり見えた。 上條と松尾は顔を見合わせて、沢口が来るのを待った。 いつもはタフで、どんな山行でも先頭を切って登る沢口が、苦しそうに喘いでなかなか近づいてこない。 僅か二十メートルの距離だというのに、一体どうしたことか。 二人が待つ場所までようやく辿り着くと、沢口は雪に突き刺したピッケルに両手を置き、その上に額を乗せて、しばらくはそのままじっと動かなかった。

「俺はこれ以上は無理だ。 吐き気はするし頭は痛いし、おまけに足がフラフラする」

「何を言ってるだ。 皆頭は痛いんだ。もう少しなんだで、頑張れよ」

上條は一生懸命励ましたが、沢口は首を横に振って言った。

「いや、もうついていけないから・・。 兎に角、いったんC3に戻るわ」

よほど耐えがたい痛みのようだ。 顔が苦痛に歪んでいる。

「そうか。じゃあ気をつけて下りろよ。 テントに着いたらトランシーバーはずっとオープンにしておいてくれ」

「わかった、そっちも頑張って。 それじゃあ」

沢口はそのままザイルをはずすと、二人に背を向けて、フラフラした足どりで今来た道を下りていった。 松尾は沢口の後姿を見ながら、ふと自分も後を追いかけて行きたい衝動に駆られたが、辛うじて堪えた。

<こうなったら何が何でも、二人で頂上を落とすしかない。 たとえ死んでも俺は頂上へ行くぞ>

そう思いながら上條を見ると、相手も覚悟を決めたように松尾を見返した。

 

(つづく)

 

 

蒼き青春の軌跡 16

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      第一章 極北の山へ

          (六の四)

 

C1に戻って、また相談が始まった。 ただ今日は、水野も加わっている。 若井は昨日と同じ主張を繰り返す。 水野をこれ以上上に登らせるのは危険だし、登れない以上、安全なベースキャンプに下ろすべきだーーと。

松尾は迷っていた。

「確かに駄目なら下ろすべきだが、水野は具合はどお?」

水野の返事に期待している自分がいた。

「できれば行きたいけど、駄目だろう。 俺はベースに下りるよ。 みんなは上に行ってほしい。 下にはフィックス・ロープがあるから一人で下りれるから」

すかさず沢口が言う。

「俺たちは登るために、ここまで来たんだ。 残ったメンバーで上へ行くべきだと思う」

水野と沢口の言葉に勇気づけられて、松尾は巧みに登頂論を述べた。 水野への同情も忘れないようにしながら。

しかし、若井はあくまで水野をBCに収容するのが先決だと譲らない。 いつもニコニコして、普段はあまり自分を主張しない若井にしては珍しく、いったん全員下山、その後に登頂は考え直そうと主張した。 だが一度下山すれば、もう登頂のチャンスはないであろうことは、誰もが分かっていた。 残された時間は、登頂まであと四日しかないのだ。

上條は、しばらく黙ってみんなの言うことを聞いていたが、決意したように言った。

「俺たちは登るために来た。 この天気はたぶん一週間はもたないだろうし、とすれば、仮にいったん下りて再び登頂を狙うとしても、時間を延長しても登れる確率はすごく悪くなるだろう。 水野君の言葉通り、我々は上に行こう」

一瞬、水野の顔に複雑な表情が走った。

松尾は自分も登頂論を展開していながら、<上條の言い方は狡いな>とも思った。 水野がそう言うのだから俺たちは行くというのは、何か言い訳がましく聞こえた。 それは、松尾自身の心を表わしている言葉でもあった。 それが、自分以外の口から出てくるのを聞いて、改めて自分自身の身勝手さを感じずにはいられなかった。

<水野だってああ言いながらも、自分と一緒に下りてくれるのを、期待していた部分もあったに違いない>

そう思うと、松尾はもう水野の顔を見ることができず、テントを移動し夕食の準備に取り掛かった。 若井は苦々しい顔をしてテントの天井を見ながら、何ごとか呟いていた。 水野は、寂しそうな顔でシュラフに入ったまま、テントに横になっていた。 何かすっきりしないものが、パーティの間に漂っていた。

 

翌日、水野はベースキャンプへ戻った。 そこには、水野とザイルを結んだ若井の姿もあった。 結局若井は、自分の考えを曲げなかった。 水野は「皆と一緒に上へ上がってくれ」と再三若井に言ったが、若井は笑いながら、一人で下ろすのはやっぱり心配だからと、水野の個人装備も背負った。

「がんばって登ってきてよ」

と言う若井の顔には未練の色はなかった。

二人の姿が見えなくなるまで三人は見送り、テントを引き払って出発の準備に取り掛かる。 <これで良かったのだろうか>という思いが、松尾の脳裏を何度もかすめる。 三人ともいつになく口数が少なかった。 C2へ着きテントを張ると、松尾は気が滅入って沸かしたお茶も飲まずにシュラフにもぐり込んだ。 上條は下の二人と交信していたが、

「無事にベースキャンプにたどり着いたよ」

という若井の元気な声が聞こえて、松尾は少し気が軽くなった。

翌朝も快晴だった。 岩と岩の間にルートを求めて登り続けるうちに、昨日までの心のわだかまりが次第に松尾の心から消えて行き、頂上のことしか頭に無くなっていた。 今までいつも頭上に見えていたMt,フォーレイカーの頂きが、足元の高さになっている。

そのはるか向こうには、ぼんやりと緑色がかったもやが見えている。 一休みしてぼんやりと周りの景色を眺めていると、突然沢口がもやの方を指差して言った。

「おい、あれは下界の緑だぞ」

その方角を松尾はいつまでも眺めていた。 もう二週間以上も、青と白と黒ずんだ岩肌しか見ていない。 緑がたまらなく懐かしい色に思え、ふと諏訪湖周辺の若葉の頃を思い出した。

緑のそよ風の中に、佳奈の顔が見えた気がした。

<遠い世界に来てしまったなあ>

感慨が松尾の胸を打つ。三人はもやに霞む緑の地平を、飽かずに眺めていた。

天気は申し分なく良いが、頬を刺す風は冷たく、高度がだいぶ上がっていることを教えてくれる。 五千二百メートルまで登ったところで、大きな岩の陰に風を避けてテントを張った。

 

(つづく)

 

バックに見えるMt、フォーレイカー