蒼き青春の軌跡・44

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  蒼き青春の軌跡

 

       第三章  アダムとイブ

            (四の一)

 

 十一月の末、会社では待望の精密焼成炉が入り、松尾たちのグループはにわかに活気付いた。 毎日データ採りをしては分布を取り、最適焼成条件を見つけていく作業に追われた。 そんな時、係長登用試験の結果発表があって、松尾は課長に呼ばれた。

 「松尾君、今日人事部から連絡があって一次試験パスしたよ、おめでとう」

松尾は試験のことはすっかり忘れていたので、最初は意味がよく分からなかった。

 「今度は専門論文の提出があるから、テーマの準備をしておいた方がいいな。 液晶関連の論文でいいと思うが」

 そこまで言われて、やっと課長の言っている意味が理解できて、嬉しさがこみ上げた。

<やった、これでもう川井とは対等だ。 ざまあみろ、やれば当然出来るんだ。 もう川井の意になんか添わないぞ>

課長の席から自席へ戻りながら、心の中で何度も快哉を叫んでいた。

 松尾は合格の知らせをすぐに佳奈に電話で伝えた。 佳奈は心から喜んでくれた。 まるで自分のことのように喜んでいる様子が電話口から察せられて、松尾は嬉しかった。 みきとの件は一悶着あったが、きっちりとけじめ決着をつけていたので爽快な気分であった。

 

 それまでは表面上平穏だった川井主任との関係が、再び険悪になってきた。 松尾の方からちょっとしたことでも突っ掛かっていくようになった。 そのためにグループ内の空気は、カラッとしないものになっていった。 合格発表が正式にあった後にも、グループ内では心から祝福してくれる者はいなくなっていた。 二人のやり取りの中で、松尾の傲慢な態度に皆が不快感を感じていた。 その現実に松尾が気付くはずもなかった。

 

 この冬は師走に入っても暖かい日が続き、里まで雪の下りてくる日はなかった。 それでも八ヶ岳中腹の滝は凍っていると聞いて、松美と二回トレーニングを兼ねて氷瀑登りにいった。

氷壁での技術の高さで、松美は卓越した技量を発揮した。 九十度近い垂壁でさえ楽々とこなして登っていく。 松尾はザイルで確保してもらいながら何度か登ったが、途中で何度もずり落ちそうになり、ザイルのテンションの力を借りざるを得なかった。 松美との実力差を、嫌が上でも感じないわけにはいかなかった。

 

 冬山合宿は屏風岩をやると決めていたので、十二月に入ってからの1ヶ月間、ランニングを続けた。松美との氷瀑登攀がいい刺激になっていた。

合宿には、心身ともに充実した引き締まった気分で参加した。 屏風岩ルートのメンバーは若井と下島、そして松尾の三人だった。 冬の屏風岩は誰も経験がなかったが、松尾には十分に自信があった。 この頃では自分が失敗するという気がしなくなっていたし、つい二ヶ月前の墜落も、全然堪えていなかった。

 沢渡(さわんど)を出発して八時間、徳沢で前穂高岳の北尾根に入る別働隊と別れて、横尾へと向かった。 夕刻の薄暗くなるころに横尾に着くと、冬期小屋はほぼ満杯の状態だったが、テントを張るのが億劫で、一番奥の片隅に無理を言って入れさせてもらった。 先着のパーティには顔をしかめられたが、山屋として一丁前の顔ができる図々しさに

なっていた。

沢渡からの強行軍で疲れていたので、夕飯も早々に早めにシュラフにもぐり込んだ。 他のパーティもほとんどは屏風を狙う連中らしく、登攀前の緊張感を漂わせながら、明日に備えて早々と小屋は静かになった。

 翌朝3時に目を覚ますと、トタン屋根に雨の当たる音がする。 それも相当に強い。

 <そういえば、昨夜はやけに暖かかったな> と思い起こしていると、出発準備をしていったん外へ出たパーティが戻って来た。 

 「こりゃあ、ひでえ降りだ。 とても行けたもんじゃない」

 「もうしばらく様子を見るかねー」

大きな声で会話を交わしているのが聞こえてきた。

 「雨だとよ、もう一眠りしますか」

ちょっとだけ起き上がったが、三人ともすぐにシュラフにもぐり込んだ。 登攀に対する緊張感で松尾もそれまでは浅い眠りだったが、雨の音を子守唄に深い眠りに落ちていった。

他の連中も同様なのであろう。 小屋のあちこちで、大きないびきが聞こえるようになっていた。

一日中雨は降り続き、小屋からは一歩も出られず、乏しい食料を小出しにしては時々食べるだけだった。 登攀での荷物をできるだけ軽くと考え、切り詰められるだけ切り詰めてきたのだ。 何もしていないと腹だけはやけに空いてきて、早々に夕飯を済ませて、またシュラフにもぐり込んだ。 明日は早立ちをして一日で登りきるつもりでいた。

 だが朝二時に起きて耳を澄ますと、また雨の音だ。全く止む気配も見られず、再びシュラフにもぐり込む。 夜が明けても雨は続いていて、小屋の中には諦めと動揺の色が見え始めていた。 中には帰り支度を始めたパーティもあって、松尾たちもすっかり気が抜けてしまった。

午後になると辺りは少し明るくなり、陽が差し始めた。 ガスに包まれていた屏風岩が徐々に見えてきたが、冬とはとても思えないほど岩肌は黒々としていた。

 「これじゃあ、アイゼンも要らないな。よし明日こそ登るぞ」

壁を見上げながら下島が云う。 だが松尾はもうどうでもいいや、と言う気分になり始めていた。

 

 (つづく)

 

 

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蒼き青春の軌跡・43

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       第三章  アダムとイブ

            (三の三)

 

 佳奈は松尾を睨むようにして見ると、一呼吸してから決意したように言った。

 「最近、変な噂を聞いたけれど、いったいどういうことなの」

 「えっ、何のことだよ」

松尾はすぐにピンときたが、しらを切ろうとした。

 「何ってあなたが一番よく知っているでしょう。 何か私を避けているみたいでおかしいと思っていたけど、いったいどういう付き合いの人なの」

詰問されて松尾は、やっと覚悟を決めたが、本当のことは言えなかった。

 「いつも深雪荘へ顔を出している娘で、二、三回お茶を飲みにいっただけだよ」

 「でも友達が、レストランで食事しているのを見たと言っていたわ。 夜遅くに一緒に歩いているのを見た、とも聞いたし。 本当のことを言ってちょうだい」

 「一回だけ夕飯一緒に食ったけど、ただそれだけだよ。 そんな気にするような相手じゃないよ。 ちょっとお茶飲んだりしたぐらいで、そんなに目くじら立てることも無いだろ」

 「そうですか。 そういう言い方をするのね。 あなた最近変わってしまったわ。 もし私が嫌になったなら、はっきり言って下さい」

 「嫌になるなんて。 ただ、山の話を聞かせてくれって言われて、付き合っていただけなんだから。 君が嫌ならもうしないよ。 そんなに怒るなよ」

 「ちっとも悪いなんて思っていないのね。

そう言うと佳奈は黙り込んでしまった。 松尾もしばらくの間、煙草に火をつけたりして黙り込んでいたが、このままではこの場にいたたまれなくなるようで、一言小さな声で

 「ごめん」 と言った。 

佳奈はチラッと上目づかいで松尾を見たが、その目にはありありと不信の色が伺えた。

 「もういいわ。 でも最近私、あなたのことが分からなくなってきた。 何を考えているのか。 人の気持ちなんて悲しいものね」

 「俺のお前に対する気持ちは、何も変わってやしないよ。 君の思い過ごしだよ」

 「思い過ごしですって? 私はいつもどこでも、あなたを信じていたかったのに。 思い過ごしだと言うのなら、信じろと言うのなら、態度で示してよ」

松尾は黙るしかなかった。 今の自分に自己嫌悪を感じずにはいられなかった。 ここまで言われても、虚勢を張り続けている自分が情けなかった。

 

 佳奈はハンカチを握りしめて、涙を溜めてコーヒーカップをじっと見つめていたが、やがてきっぱりと松尾に言った。

 「今回だけはあなたの言うことを、信じることにします。 でもその人とは、けじめをはっきりさせて下さい。 そうでなければ私と別れて下さい」

松尾は二度、三度首を縦に振った。 深い後悔が松尾の胸に押し寄せていた。

 別れ際には佳奈はいつもの佳奈に戻ってくれたように思えた。 さっぱりとした佳奈の気性に松尾は心から感謝した。

 「二、三日したら、また連絡するよ」

松尾がそう言うと、佳奈はほほ笑んでバスの窓から手を振って帰って行った。 まるで子供のようなあどけない仕草の佳奈に手を振り返しながら、 <もうみきには絶対に会うまい> と固く心に誓った。

 

 佳奈を見送ったその足で、行きつけの「甚六」へ顔を出すと、久しぶりに松美が顔を見せていた。 以前から山へ行こうと約束していたのだったが、その約束はまだ果たされていなかった。 飲みながら話しているうちに松美が突然切り出した。

 「実は俺、来年カラコルムに行くことになってね」

急にヒマラヤの話が出て、松尾は面食らった。 カラコルムはヒマラヤ山脈の西方にあって、有名なK2やブロードピークなどの八千メートル峰が幾座もある。 松美たちは、まだ未踏の七千メートル峰をやるんだと言う。 若井との会話にも出てきたヒマラヤの峰々が、決して遠い未来の話じゃないな、と実感できた。

 「それでいつ発つんですか。 春?秋?」

 「たぶん五月には日本を出ると思う。 すごく難しそうな山でね。 今までに2隊入って失敗しているって」

 「どういうメンバーで行くんです?」

 「京都の山岳パーテイでね。 友達から紹介があって、いろんな所から集まるみたい」

 「そうですか、初登かぁ。 カッコいいなー。 準備で忙しいでしょう」

 「いやあ、俺は離れているからね。 でも京都の連中は大変みたいだ。 月一で顔を出せばいいよって言われてるんだ。 ところで十一月に入ったら氷の練習やりに行かないか、トレーニングのつもりで」

 「願ってもないです。是非連絡下さい。日曜はたいていは空いていますから」

 

松美は既に結婚していて妻と二人の子供がいたが、山への情熱は全く衰えていない。 普段から走りこんでトレーニングは欠かさないと本人から聞いて、松尾はいつも頭の下がる思いであった。 彼と話していると<こんな情熱が俺にあるかな>と思ってしまう。 松美といえば、山仲間の間では知らない人はいない、位の存在だったが何も変わることなくいつも温かな人間味を感じさせる人柄だった。 久しぶりに松美に会って、若井との話に続いて海外遠征の刺激を受けたせいか、松美の山に対する情熱に感染したのかーー 松尾の気持ちはヒマラヤに向かって急速に動き始めていた。

 

 (つづく)

 

 

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蒼き青春の軌跡 42

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       第三章  アダムとイブ

            (三の二)

 

 快適に登り繋いで、五ピッチ目のピナクルのあるルートを松尾がトップで登り始める。 岩が被さったようになっていて先のルートが見えず、踏ん切りがつかない。 ちょっと戻って、既に打ってあったハーケンの効き具合を確かめて再びチャレンジした。 一メートルほど登って被さった岩の上に手を伸ばすと、ちょうどホールドがあった。 ホッとしてぐっと体を引き上げる。 がっちりと掴んだはずのホールドがグラッと動いた。

 「やばい!」

叫んだのと、体が空中に放り出されるのが同時だった。 真っ逆さまになった視野に、横尾谷がいっぱいに見え松尾にグングン迫ってくる。

 「ウワアー!」 松尾は声にならない声を上げていた。

ガクンという衝撃で横尾谷が止まった。 松尾はザイルを掴んですぐに体勢を立て直そうとしたが、息が切れ膝がガクガクと震えている。 苦しい。

 「大丈夫か」

ビレーしている若井が大声で聞いてきた。 息が切れて声が出せないので、手でロープダウンするように合図した。 ゆっくりとザイルが下がっていき、二メートルほど下のテラスに足がついた。 墜落前に確認したハーケンが、がっちりとビレーしてくれていた。

 「どうする? ここまで下りるかい」

再び若井が大声で聞いてくる。

 「いや、いい。 もう一回やってみるよ」

 

 ひざの震えが収まるのを待って、再び松尾は登り始めた。 墜落して久しぶりにカッカとしていた。 岩に対する闘争心が燃え上がってくるようだった。

さっきはフリーで抜けようとしたが、今度はビレーを取っていたハーケンをホールドにした。 そしてピナクルの出口に見える小さな割れ目に、ハーケンを打ち込む。 キンキンという小気味よい音をさせて、ハーケンは岩に食い込んでいった。 ハーケンに慎重にアブミを掛け体を乗せていくと、ハーケンが少ししなった。 

 墜落の恐怖で背中に冷や汗が吹き出す。 出口から顔を覗かせると、さっき抜けた岩の跡が白っぽく残っている。 皮肉にもその僅か十センチほど上のところに、残置ハーケンが打ってあった。 急いでカラビナをかけて若井に

 「このアブミ、置いていくよ」

と声を掛けて乗っ越した。 あとは傾斜が落ちて階段状になっていた。 ザイルをいっぱいに延ばしたところに大きなハイマツの根があり、ゆっくりと座ってビレーを取った。 もう実質的に登攀は終わっていた。 ザイルを引き上げると若井は息を弾ませながらやって来た。 時々、ヘルメットを右手で押し上げるようにしながら、浮石を踏まぬように慎重に登って来る。

 「大丈夫? なかなかかっこいい落ち方だったよ」

笑いながら、若井は言った。

 「久しぶりの体験でした。 しかし屏風で落ちるとわねー。 恥ずかしいから誰にも言わないでよ」

 「証拠写真を撮っとけばよかったな。 惜しいことをした」

 

 そこからは藪漕ぎで1ピッチ延ばし、踏み跡が見える場所まで来てザイルを外した。 その時になって松尾は、自分の左手の肘から血が滲んでいるのに気付いた。 やっぱり緊張していたんだなと、傷を見ながら思った。

登攀具をしまい込むとザックはずっしりと重くなったが、冬合宿の話をしながらパノラマコースを下って帰路を急いだ。 上高地に着くころには陽はとっぷりと暮れ、シルエットになった穂高の稜線に、薄く輝く金色の縁取りが印象的だった。

 

 久しぶりの岩登りで墜落は味わったものの、松尾は気分が良かった。 登攀の充実感が松尾の気持ちを明るくしていた。 佳奈に会うのに何のわだかまりも感じなかった。

いつもの喫茶店で待ち合わせたが、逆に佳奈はあまり機嫌がよくなかった。 俯き加減で松尾が屏風岩にいった話を黙って聞いていた。 岩から墜落した話をした時だけは、さすがに顔を上げて松尾と目を合わせたが、それ以外は終始視線をそらしている。 話す方は興をそがれ、次第に話も途切れがちになっていった。 松尾もしまいには不機嫌になって、少し声を荒げて聞いた。

 「おい、いったいどうしたっていうんだ」

その言葉に佳奈はキッと顔を上げた。

 

 (つづく)

 

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屏風岩上部にて

 

 

 

 

 

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蒼き青春の軌跡 41

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       第三章  アダムとイブ

            (三の一)

 

 山に初雪が降りたという便りを聞いた十月の末に、松尾は久しぶりに若井と二人だけで山に入った。 もう岩場に情熱を燃やす年でもない、という気持ちもあったが、冬の穂高連峰の屏風岩だけはどうしても一度登っておきたかった。 そのための偵察が目的だった。

 山岳会に入会した年の秋に、初めて屏風岩に挑んだ時、「この岩場は絶対に一度は、冬に登らなければいけない。」と、ザイルを組んだ先輩に言われていた。 それ以来松尾には、<自分の冬山登山歴には必要なルートだ>という、漠然とした思い込みがあった。 それで今年の正月合宿には是非ともやろうと、計画したのである。 松尾にもよく分からなかったが、何か大きな力で引っ張られているような気分になることがあった。

 秋の屏風岩は、岩場を越えても水を採れる場所がないので、土曜日の午後にゆっくり出発して横尾で泊まり、日曜早朝に登り始め、早く終了させて下山する計画にした。

 

 穏やかな日差しを浴びて静かな木立の中を、二人は横尾に向かって歩いた。 何十回となく通った道だったが、カサカサと枯葉を踏みしめながら歩くのが、松尾は一番好きだった。 前穂高の稜線は薄っすらと白くなり、裾には燃え立つような唐松の黄金色の葉が美しかった。 横尾に到着し、短い秋の陽が山の裏側に消えると急に肌寒くなり、汗ばんだ背中もたちまち冷え切って体に震えが走った。 急いでテントを張って中に入る。

 若井と二人だけの山行は本当に久し振りだった。 担ぎ上げたウィスキーを二人でちびりちびりやりながら、話題は自然と海外の山の話になった。 若井は最近大分ヒマラヤのことを研究しているらしく、松尾の知らない山の名前がポンポンと飛び出してくる。 話の内容から察するに、どうやらネパールヒマラヤに標準を絞っているようであった。

そして、そろそろ山岳会でもアラスカの次を検討しなくてはと、盛んにけしかけてきた。 松尾も久し振りに海外の山に思いを巡らして、熱く燃えるものを感じ始めていた。

 <次はやっぱりヒマラヤだよな>

と、若井の話を聞きながらあれこれと考えていた。

 

 一本持ち上げたボトルはみるみるうちに減っていき、二人は相当に酔っ払ってしまった。 若井は松尾の優に倍は飲んでいて、よく喋ったがいよいよろれつが回らなくなってきた。 以前に比べると、この頃の若井は酒に飲まれる傾向が強くなっていた。 ボトルが空になったところでシュラフを出してやり、若井を押し込んだ。 若井はもうほとんど正体不明という感じで、ブツブツと何やら言いながらシュラフにもぐり込んだ。 重くなった若井を横っちょに押しやりながら、やっとのことで松尾がシュラフを敷くと、眠ったとばかり思っていた若井が、突然聞いてきた。

 「ところで松尾さん、最近見かけないけど佳奈ちゃんは元気?>

シュラフに入ろうとしていた松尾は一瞬ドキッとした。 若井には妙に鋭いところがあって、松尾が佳奈以外の女性と付き合っているのを、知っているのかも知れない。

 「うん。 元気、元気」

 「佳奈ちゃんは実にいい人だね。 あんな感じのいい娘、最近なかなかいないもの。 松尾さん、佳奈ちゃんを泣かしちゃいけないよ。 うん、ほんといい娘だ。 うん実にいい。 ほんと好いと思うよ」

正気なのか、酔っ払っての半分寝言なのか、よく分からなかったが松尾は返す言葉もなく、シュラフにもぐり込んで目をつぶった。

 <そうだよな、 佳奈はいい娘だよな>

そう心の中で呟きながら、帰ったらすぐに佳奈に会おう、と心に決めて眠りに落ちた。

 

 一年ぶりの岩登りに松尾は緊張した。 十月の山の朝は冷える。取り付きまでの沢筋の登りで一汗かいたが、登攀具を身につけている間に身体はすっかり冷え切り、しきりに震えが全身を走った。

 「ちょっと」

と言って、若尾は岩陰に用足しに行く。 岩登りの直前になると、不思議なほど便意を催すことが多い。 緊張感の表れだろうか、クライマーの習性なのjか。 日本の有名な岩場は、どこに行っても取り付きに”キジ打ち”の跡があって、辺りに臭気が漂っているものだ。 その臭いがまた、便意を引き起こすのかも知れない。

 ザイルを結び合ってから松尾がトップで登り始めた。 岩は指先に痛いほど詰めたい。 途中のテラスで、何度も指先に息を吹きかけては登って行く。 二十メートルほどでハイマツの尾根に出て、若井を引き上げた。 そこから先はコンテニュアスで二人同時に登る。 T4尾根に辿り着くと一休みして、ここからが本番である。

 岩登りを始めたころには、見上げただけで体に震えが走った屏風岩も、今ではそんなに大きくは感じない。 再びコンテニュアスのまま、トラバースしてT2へ向かう。 T2のテラスからはボルトの連打された壁を直上する。 1ピッチ登ったところですっかり緊張感は無くなり、かつて毎週のように岩登りに出掛けたころの気分に戻っていた。

 朝陽が岩に照り、柔らかな暖かさが体を包んでくる。 岸壁に身を寄せてビレーしていると、思わず眠ってしまいそうになる。 カラカラと岩にアブミを引きずる乾いた音が、いっそう眠気を誘った。日は高く昇り喉の渇きを覚えた。

 

 (つづく)

 

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穂高連峰・屏風岩

 

 

 

 

 

 

蒼き青春の軌跡 40

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       第三章  アダムとイブ

            (二の三)

 

 「ハッ」として浅い眠りから目覚めると、小さな豆電球が室内を照らしていた。 松尾の腕を枕にして、体を寄せたままみきは眠っている。 急に喉の渇きを覚えた。 腕をそっとはずして洗面所に行くと、たて続けに水を二杯飲んだ。 後頭部がズキズキと痛む。 タオルを水に浸し首の後ろに当てて、鏡に映る自分の顔を見た。 血走った目と急に老け込んでしまったような顔が、そこにはあった。

 張りのない病んだような自分の顔を見て、松尾は激しい後悔に襲われた。行為そのものよりも、酔った勢いでそういう事態を招いてしまった自分自身が腹立たしかった。

ひどく後味の悪いことをしてしまった悔悟で、松尾はいつまでも鏡に映る自分の醜い顔を見つめていた。 悲しげな佳奈の顔が、脳裏に浮かんでは消え、浮かんでは消えしていた。

 

 早朝、人目を忍んで旅館を出ると、松尾は一度寮に戻りそれから出勤した。行くべきかどうかと大分迷ったが、約束通りに会社が引けた後佳奈に会った。 佳奈はいつも通りの佳奈であった。松尾は自分がひどく薄汚れているように思えて、惨めな気分になっていた。

 「どうしたの? 何か元気がないみたいね。 勉強のし過ぎかな」

屈託無く聞いてくる佳奈に、強い後ろめたさを感じると同時に、松尾はその存在に初めて恐れと言うものを感じた。 それは罪悪感から来る恐れであった。子供の頃にいたずらをしてしまった後に感じた、親に対する恐れにも似ていただろうか。 佳奈が微塵の疑いも抱いていないことが、余計に怖かった。

 いつもとは違う松尾の様子に、心配そうな顔のままで佳奈は帰っていった。 バス停まで佳奈を見送ると、酒屋でウィスキーを買い込んで寮へ戻った。 ただ苦いだけの酒を、松尾は一人で何杯もあおっていた。

 

 昭和四十八年に始まった石油ショックは、産業界に深刻な影を投げていたが、そんな中でも時計業界ーー特にエイコーグループは、水晶時計やデジタル時計の発売で、順調に売上げを伸ばしていた。 スイスの業界が電子化に後れを取った分、日本が世界の中でシェアを拡大していた。 他の業界から見れば羨ましいほどの好調さであった。

 だが傍目で見るほど、時計業界の内部は安定しているわけではなかった。 他業界からの参入が相次ぎ、技術革新が進んで製品単価はどんどん下がっていた。 売れる数量の割には儲けが出なくなっているのが実態であった。 商品サイクルは短くなり価格の中心帯は下落して、水晶時計に関するエイコーグループの創業者メリットも、このころには薄れ出していた。 より付加価値の高い商品を創り出し、コスト競争力がなければ生き残れない時代に突入していた。 時計の精度向上は時計そのものの根本的価値であり、当然S社でも力を入れていた。その中でも、設計変更が必要なく安上がりに精度の向上ができるのが、チタバリの精密化であると松尾は確信していた。

 それ以外の有力な方法としては、ツインクォーツ化というのがあった。 ツインクォーツとは読んで字の如く、一つの時計に二つの水晶振動子を組み込んだものである。 水晶の一つはチタバリの代わりに、温度補正の役割を果たす。 だがそれは、コスト的にも高くなるし、時計という限られたスペースに振動子を二個も内蔵するには、それなりの技術的対応が求められるものであった。

 時計もファッション化を求められる時代となり、分厚い時計は次第に人気を失っていった。 安くて薄くて、品質も良ければ、それに越したことはない。 松尾はこのチタバリの精密化は、モノにできれば絶対にうまくいくはずと信じていた。

 秋になり、松尾たちの仕事は着々とデータが揃っていった。 あとは精密な焼成の電気炉さえあれば、目的の高精度チタバリは量産できると目論んでいた。 当面は電気炉の予算獲得が主な仕事となっていた。 管理部門との交渉の末、別の機械購入予算と入れ替えることで六百万円を計上でき、あとはメーカーとの折衝が残るだけとなった。 比較的のんびりとしたペースで、仕事は進められていった。

 松尾も登用試験が終わって、冬山に備えてトレーニングを開始した。 最近、興味の湧き始めたヒマラヤ関連の本を、ボチボチと読み始めていた。 今の松尾は、没頭できる何かが欲しかった。

 

 その後、佳奈とは時々会ってはいたが、いつも後ろめたさが付きまとって、会っても長い時間は一緒にいなかった。 佳奈にとっては不安な毎日だった。 原因が分からないだけに悲しくもあった。 松尾に嫌われ始めたのかと、心痛めることが増えていった。 松尾はそんな佳奈を見るのが辛かった。 それ以上に訳を言えない自分が惨めであった。

 一方で、まだ松尾は、みきとの関係にけじめをつけていなかった。 深雪荘に顔を出して行き会えば付き合ったし、自分から求めて抱くこともあった。松尾の若い身体が、勝手にみきの肉体を要求していた。 松尾は、それは愛とは本質的に違うものだと感じていたが、自分から遠ざかろうとはしなかった。

 だがそうした背信行為は、当然佳奈との距離を、さらに遠くする結果になっていた。 みきは会う度に、親愛の情を強くしてきたが、却ってそれが鼻につき出していた。 松尾の中で、佳奈に対する申し訳なさは強くなる一方だったが、素直に告白して許しを請う勇気はなかった。

 松尾にとっても、中途半端なやりきれない日々が続いていたのだった。

 

 (つづく)

 

 

 

 

蒼き青春の軌跡 39

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       第三章  アダムとイブ

            (二の二)

 

 大手通りにあるすし屋に入って、ビールとすしを注文して、まずはみきとの再会に乾杯。 松尾は久しぶりに開放的な気分になって、よく飲みよく話した。 帰り道、みきは松尾の腕に素肌の腕を回してきた。 積極的な女だなと思ったが、半袖の腕に触れてくる女の素肌は、悪い感触ではなかった。

 だが心のどこかには、試験の為だからと会わずに我慢してくれている佳奈に対して、後ろめたさを感じないわけにはいかなかった。 寮に戻ると玄関で、寮婦のおばさんにばったり会った。

 「松尾さんお帰り。 さっき、いつもの人から電話あったわよ。 今日は珍しく遅いじゃない」

 「ちょっと飲んできてね。 で、電話は何時頃、来ました?」

 「八時頃だったと思うけど」

 「どうも、じゃあお休みなさい」

 部屋に入って、松尾は佳奈に電話すべきか迷った。 電話をすれば嘘を言うことになりそうで、結局電話はしなかった。 久しぶりの酒が頭のシンを軽く麻痺させていて、佳奈に対する罪の意識は薄れがちだった。 そのまま布団に入ると、松尾は深い眠りに落ちていった。

 

 翌日の夜に佳奈からの電話があった。

 「勉強、がんばってね」

いつもと変わらぬ明るい口調でそう言うと、電話は切れた。 昨夜よりも今日の方が、後ろめたさが松尾の心に強く残った。 そうであるにもかかわらず、みきの誘いはもう断ろう、と言う意識は出てこなかった。

 <飯を食うくらいは、どうという事はないさ>

と、松尾は自分に弁解していた。

 

 夏の短い休暇が終わると、松尾は試験勉強の仕上げにラストスパートをかけた。 残業もできるだけ代わってもらって、早く寮に帰っては勉強に打ち込んだ。 ここまで来たらどうしても合格したかった。 川井と対等の立場になることだけが、川井の管理から逃れる術であった。

 八月下旬の日曜日、試験会場の食堂には約二百人の受験者が集まった。 朝九時から夕方の四時まで、試験はびっしりと詰まっていた。 相当の集中力と体力が要求される試験で、全部を終えて会場を出た時には、さすがにぐったりとなっていた。

 四ヶ月ぶりにやっと試験から開放されて、すぐに松尾は佳奈に電話を入れた。 電話口にはいつもと変わらぬ佳奈の声があり、松尾は声を弾ませて試験終了を報告した。

 「やあ、俺だけど、やっと終わったよ」

 「ああ、良かったわね。それで、出来はどうだったの」

 「まあまあというところかな。 作文さえOKなら、結構いけると思うけど」

 「あんなに頑張ったんだから、絶対に大丈夫よ」

 「やるだけのことはやったんで、もうどうでもいいよ。 ところでこれから出て来れない?」

 「今日は久しぶりに兄が帰って来ていて、母と三人で夕飯をどこかに食べに行くことになってるの。 本当にごめんね。 でも明日はきっと会いたいわ」

 それで、明日の夜には会う約束をして電話を切ったが、てっきり佳奈に会えるものと思っていた松尾は、ひどくがっかりした。

 

 何をやることもないまま、足は自然に深雪荘に向いていた。 するとそこにはみきがいた。

 「今日は来てるかなーって、何度も顔を出したのに、松尾さんたら、全然見えないんですもの」 みきは松尾を色っぽい目付きで睨んでみせた。

 「じゃあ、久しぶりにお話でもどうですか」

松尾がふざけた口調で言うと、みきは大きく頷いて、連れ立って「甚六」へ赴いた。

日曜日のせいなのだろうか、店はいつもより空いていた。 飲むにつれ、みきは松尾に体をもたせ掛けるような姿勢になってきたが、松尾は拒まなかった。 佳奈に対する当て付けのような気持ちが、どこかに潜んでいた。

<どうやら俺は誘われているな> と思ったが、それ以上は考えなかった。

 二時間ほど飲んで店を出た時には、二人とも相当に酔っていた。  人通りの少ない路地を歩いていると、みきの方から松尾に抱きついてきた。 松尾は抱き返すようにしてもつれ合いながら、みきの唇を求めた。 みきは全く抵抗しないどころか積極的に舌を吸ってきた。

 「私、ずっと前から好きだったのよ」

唇を離すとみきは甘く松尾の耳元で囁いた。 松尾は答える代わりに、さらに強くみこを抱き締めた。化粧のにおいに混じったかすかな汗のにおいが、松尾の理性を痺れさせていた。

 

 二人はもつれるようにして、諏訪湖に向かって歩いた。 酔いは次第に覚め始めていたが、松尾は<みきを抱こう>と決心していた。

 「今日は帰さないよ」

松尾が耳元で囁くと、みきは小さく頷いた。 そして二人は安宿に向かって歩いていた。

 

 (つづく)

 

蒼き青春の軌跡 38

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       第三章  アダムとイブ

            (一の三)

 

 そもそも松尾と川井とでは、仕事に対する出発点が違っているようだった。 川井は自分の受け持ち分野には、全部目を通しておくべきだという考え方であった。 それに対して松尾は、基本的に仕事は全て本人に任せ、最低限の指示と報告を受ければいいという考え方だった。 部下のミスを自分が背負う覚悟さえあれば、部下の自覚と責任において仕事は進むものと考えていた。

それは松尾自身が、人から命令されることを好まない性格からもきていた。 人にはそれぞれの仕事の進め方があるものだが、松尾の仕事に対する自信とプライドが、他のやり方を認めることを許容できなかった。

 そうした態度は周囲の目から見れば、時として松尾自身の評価を下げる結果になっていたのだが、松尾はそんな周囲の雰囲気には全く気付けなかった。 仕事の合間に同僚と煙草をすう時にも、松尾は川井の悪口を言い募るようになっていた。 松尾が悪口を言うほどに、同僚たちは松尾から徐々に 距離を置き始めていた。

 

 河合の耳にも松尾の悪口が聞こえぬはずもなかったが、相変わらず彼は細かいチェックと指示を欠かさなかった。 松尾も職制上の部下である以上、反抗的にばかりなっているわけにもいかなかった。

 そのことが、松尾に別の面での心境の変化をもたらし始めていた。 自分が川井のようなやり方や、自分が支持される立場にいるのが嫌なら、キチンと勉強をして係長登用試験にパスするしかないと思うようになっていた。 所詮社会は力関係である。 自分が力をつけそれなりの職制上の地位を持たなければ、発言力もないということである。

 五月に入ると松尾は猛然と試験勉強を始めた。 やる以上は徹底しないと気のすまない性格であった。

 

 佳奈は松尾が試験勉強をやる気になったことを、とても喜んでくれた。 そして試験が終わるまでは、デートも少し控えましょう、と佳奈のほうから提案した。 松尾は何もそこまではと思ったが

 「いいえ、今が大事な時だから。 私も我慢するから、パスしてしまえば、またゆっくり会えるんだもの」

 そう優しく言われると、松尾も賛同せざるを得なかった。 佳奈としては松尾が何かに真剣に打ち込むことで、以前の松尾に戻って欲しいと願っていたのだった。

 残業は時々あったが、それ以外の日はできるだけ早く帰って勉強するよう、松尾は心掛けた。 佳奈からは数日に一度電話があって、何よりの励ましになった。 最近は松尾がきちんと早めに寮に戻るので、寮のおばさんは訝しげに彼を見ていた。 密かに進行していたみきとの恋愛ゲームも、しばらくは中断の状態が続いた。

 

      第三章  アダムとイブ

            (二の一)

 

 松尾が今取り組んでいる、チタバリコンデンサーの仕事は、やや暗礁に乗り上げた格好になっていた。 温度と容量のカーブを決定する各成分の作用が解明できて、データ通りに混合してみても、同じロットの中でのバラつきが大きく、規格外のものが半分近くも出てしまう。 焼成する電気炉の条件設定が焦点になってきたが、現有の設備では条件が満たせない。

松尾は川井に、以前に出張で見学した電気炉の話をした。 より精密な炉を用いないと温度分布に差が出ると、一台六百万円もする炉の購入を提案した。 案の定、川井は難色を示したが今度は松尾も後へは引かなかった。 結局、一度電気炉メーカーに頼んで、焼成実験をしてもらうことにした。 その日程が決まるまでは仕事も中断に等しい状態だった。

 これからの進展に関しては、松尾は自信を持っていた。 今までもこうした時間的、物理的な制約はいくつも乗り越えてきており、何の焦りもなかった。 過去の仕事では、完全な失敗に終わった事態は一度もなかった。 そういう点では松尾は恵まれていたといえるだろう。 研究や開発をしていれば失敗は常に付き纏うし、仮に開発に成功したとしても、市場とのタイミングが合わずに没になるケースも、多々あるものだった。 いや、寧ろその方が多いというべきだろう。

 そんな例は入社して以来、何度も見てきている。 だから松尾は、自分には運があると思っていた。 たまたま仕事が中断状態になったのをこれ幸いと、松尾はいっそう試験勉強に身を入れた。

 

七月に入ると梅雨の中休みのようで、晴れて暑い日が続いた。 会社の帰り道、たまには冷たいコーヒーでも飲んでいこうと、同僚の百瀬と深雪荘近くの喫茶店に入った。 クーラーの近くに陣取って、アイスコーヒーを飲みながら会社の話や川井の悪口などを喋っていると、偶然に中尾みきが店に入ってきた。 彼女は松尾を目敏く見つけると、隣のテーブルに座った。

 「お久しぶりですね。 最近、山に入ってます?」

そう訊ねるみきに

 「いやー、仕事が忙しくてね」

と返答しながら<ちょっと見ない間にきれいになったな。と思った。 元々が男好きのするタイプではあったが、急に女っぽさが増したように見える。 気を利かしたつもりか、百瀬は話題が途切れたところで、「俺はこれで」といって帰って行った。

 「そちらに移っていいかしら」

百瀬が店から消えると、すかさずみきが、今まで百瀬が座っていた席へ移動してきた。

 「今日は一人なの?」

 「ええ、今深雪荘にテニスラケットの修理をお願いしてきたところなの。 あんまり暑いんでここに入る気になって。 でも、久しぶりに松尾さんにあえて嬉しいわ」

みきに本当に嬉しそうに言われて、松尾はつい口を滑らせた。

 「せっかくの再会だから、夕飯でも食べに行こうか」

 「わあ嬉しい。 喜んで行っちゃう」

一瞬、佳奈の顔が脳裏をかすめたが松尾を思いとどまらせはしなかった。

 

 (つづく)

 

 

 

退院しました

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 一週間、連続120時間の抗癌剤投与を終え、退院できました。

口内炎と、食欲不振で苦しかったですが、少しずつ体力も戻り動き出しました。

 

退院直後には中国友人Zが松本まで来てくれました。 嬉しいですね。

 

でも、三月下旬に2度目の抗癌剤投与が決定、三月末まで口内炎などに悩まされそうです。

 

また少しづつ昔書いた<低レベル小説>を書いていきます。

蒼き青春の軌跡 37

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  蒼き青春の軌跡

 

       第三章  アダムとイブ

            (一の二)

 

 みきに何とな興味を感じていた松尾は、さりげなく声をかけた。

「これから社長と一杯やりに行くところだけど、どお、付き合わない?」

「え? ご相伴に預かっても良いですか」

 むしろ嬉しそうな声で みきは言葉を返してきた。

 三人で連れ立って行き付けの「甚六」へ入ると、中尾みきを囲んで、カウンターに席を取った。 熱燗で暖を取りながら、話はまたスキーのことになった。 みきと言う娘はなかなか酒が強く、注ぐ端からお猪口は空になった。 松尾は面白がって何杯も酒を注いで上げながら、ほんの数日前に知り合ったばかりの彼女を観察していた。

 その話し方を聞いていても、またその口元にはかなりの気の強さが伺えた。 目元には怜悧な光と、男を悩ましくさせるような怪しい光が交錯して見えた。 

 「私ももっと、スキー上手になりたいんです」

話し込みながら、松尾はこの女に強い興味を抱き始めていた。 そして、松尾を見つめる時の目の奥に、時々見え隠れする熱いものを松尾は見逃さなかった。

 

 その後、深雪荘で何回か顔を合わせるうちに、二人は急速に親しみを増していった。 初めの内は松尾の方には幾分の躊躇いがあったが、近くの喫茶店でコーヒーを飲むくらいはもう普通になっていた。 みきが自分に並々ならぬ好意を寄せていることはわかっていて、むしろその辺の駆け引きを楽しむようになっていた。

 ある日、松尾は自分から彼女を夕食に誘った。 みきとの会話の中で、店にやってくるお客の中で、松尾に憧れている娘が何人かいるのよ、とみきが言う。

 「冗談言うなよ、 俺に言い寄ってきた娘なんて今までいなかったよ」

 「あら本当よ、陰では松尾さんの噂している人もいるのよ。 勿論いい噂をね」

そう言われて、松尾は悪い気のするはずもなかった。 みきが注いでくる熱い眼差しも心地よかったし、自分の評判を聞くのは気分のいいことであった。

 佳奈とはお互いが自己を主張したり、意見の衝突も以前より増えているだけに、松尾の言うことに何でも頷いてくれる、みきのような娘と話をするのは楽しかった。 佳奈と違い、山やスキーなど共通の話題があるので話も弾んだ。 佳奈は松尾にとって厳然とした存在だったが、山や仕事に対する自信が全てを支配し始め、世の中が自分の思い通りになるような気にさえ、なり始めていた。

 

 若い松尾の心に、驕りがしのび込み始めていた。

このころから、松尾の佳奈に対する態度にも徐々に変化が見られ始めた。 約束の時間を守らなかったり、今までになく高圧的な意見を言ったりして、佳奈を不安にさせた。 だが佳奈は、松尾を信じてついて行くしかないと心に決めていた。 そんな佳奈の心に松尾は気付こうともしなかった。 そして人の気持ちや心が見えなくなっていた。 松尾と会うたびに佳奈の心は深く傷ついていった。

 

 春一番が吹き荒れた日の翌日、会社で松尾は川井ともめた。 それは松尾が提出した出張届けに端を発していた。 松尾は一泊二日で、電気炉関係の装置メーカーに見学を兼ねて打ち合わせに行きたいという内容の届けを出した。 それを見た川井が、

 「日帰り出張で良いんじゃないの。 二日もかけて行く内容でもなさそうだし」

 「でもこの会社は、いろんな装置を出していて十分に時間をかけて全体を見て来たいんですよ。 できれば装置も実際に動かしてみたいし」

 「実際の運転は次の機会でも良いだろう。 今どうしても必要という訳でもないし」

 「見れるときに見ておけば、今後の仕事にも役立つでしょう。 今は焼成の仕方にも工夫が必要になってきているということは、先日も説明しましたよね」

 「だが、見学が主体だというのに二日もかけるのはなあ」

 「遊びに行くわけじゃないんですよ、俺は」

松尾はイライラして声を荒げ始めていた。 川井は別に動じる風もなく、繰り返した。

 「とにかくもう一回、予定を見直してみてくれよ」

松尾は思わずカッと来た。

 「だいたいね、出張の一日か二日かのことで、細かすぎるんですよ、主任は。 こっちはそれなりの根拠があってやってるんだから、そんな細かいことまで干渉しなくてもいいでしょう」

川井が何も答えなかったので、松尾はさらに言葉を継いだ。

 「もう他のメンバーも含めて、それぞれの判断でやっていけるようになって来ているんですよ。 あまり細かいことを言われると、やる気をなくす者だって出てくる。 任せるところは任せて下さいよ」

 「しかし職制上、俺の判をつく以上は責任がある」

 「責任を取るということと、任せるということは別でしょう。 そういう言い方だと我々には仕事は任せられない、とも受け取れますよ。」

 「だが職制が決まっている以上は、グループのことをチェックするのは当然だろうが」

 「そのチェックするということが、前面に出過ぎてくるから嫌になるんですよ。 僕だけじゃあなくて、他の連中もそう思ってる」

 「他の人の話にまで発展させるのはやめたまえ。 俺は、君の出張届の件について話しをしてるんだ」

 「僕が言いたいのは、一事が万事ということですよ」

 

 お互いに感情的になりだしていて、話はどこまでも平行線が続きそうだった。

松尾は急に嫌気がさして、出張届けを川井の机からひったくると、

 「わかりました。 日帰り計画に書き直してきます」

語気荒くそう言うと、自分の机に戻った。 腹が立って仕方なかったが、これ以上話し合っても無駄だということに気が付いていた。

 

 (つづく)

 

 

 

 

 

蒼き青春の軌跡 36

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  蒼き青春の軌跡

 

       第三章  アダムとイブ

            (一の一)

 

 昭和五十二年は、穂高連峰での冬山合宿で明けた。 この正月は冬型の気圧配置が強く、一日として晴れる日はなかったが、むしろそれが幸いして、一度の順番待ちもなく北穂高岳ー奥穂高岳ー西穂高岳を縦走することができた。 雪が着きベルグラの張り付いた岩に何度か肝を冷やしたが、今までずっとやり残していた宿題を片付けることができたようで、松尾は気分が良かった。 縦走途中での滝谷での登攀も一応計画に入れていたが、天気が悪く雪崩の危険もあったので放棄して、早めに諏訪へ下りることができた。 佳奈と一緒に正月気分を味わうことができ、もう自分の家のように出入りするようになっていた。

 

 液晶の仕事に一つの区切りをつけた後、松尾は前年の暮れから、同じ時計部品のチタバリコンデンサーの仕事に移っていた。 チタバリは正確にはチタン酸バリウムコンデンサーといい、時間の精度を決定する水晶振動子の温度補正に用いる素子である。 水晶振動子は常温ではほとんど時間が狂わないが、高温や低温になった時に周波数が変化して、時間が狂いやすい欠点があった。 その水晶振動子の欠点を補うのが、チタバリコンデンサーの役目である。 量産は関連会社で作られていたが、チタバリの温度補正精度を向上させて、高精度のクォーツ腕時計をより安く製作しようというのが、今度の仕事であった。

 

 このころ、水晶時計に関しての生産技術は発売当時に比べ、長足の進歩を遂げていた。 松尾も所属するS社で開発したこの方式は、今やどこの時計メーカーでも製造するようになっていた。 より良い品質でより安いクォーツ作りを目指して、どのメーカーもしのぎを削っていた。 それが刺激になって年々水晶時計の精度は上がっていった。 当時の技術者が追い求めたのは、主に次の五点であった。 それはより軽く、より安く、より薄く、より高精度で、そしてよりファッショナブルにというものであった。

 

 松尾は時計の原点ともいうべき高精度化の一環の開発活動のために、技術課から再び開発グループに戻っていた。 開発といっても今までとは違い、全く新しいことをやるのではなく、改良開発と言う意味合いが強いテーマとなっていた。 それでも松尾にとっては、全く今までとは異なる分野の仕事となったため、一から勉強をやり直さねばならなかった。

 それに今度はチームをまとめる主任の下に配属され、松尾よりも四つ年上の、川井という主任の指示命令に従って動く形になっていた。 これは松尾にとってはかなり窮屈なことであった。 技術課にいた当時は部下を持って、仕事に判断の自由がきいた。 

だが主任の指揮するチームに配属された以上、細かい点まで報告し確認指示を仰がねばならなかった。 それに輪をかけるように川井は細かいことまでいろいろと確認したがるタイプで、報告の度に松尾はうんざりさせられていた。

 指示や命令を出すにしても、言わなくてもいいようなことにまでいちいち細かく指示を出すので、その度に松尾はイライラし不満が鬱積していった。 人間的には悪い人じゃないとは思いながらも、仕事そのものよりも感情的な面でぶつかることが多くなっていった。

 

 とはいえ、仕事そのものは新鮮でなかなか面白かった。 チタン酸バリウムに何種類かの添加剤を加え、攪拌して圧力成型し、高熱炉に入れて焼き上げる。 基本的には茶碗などの陶磁器を作るのと同じ製造方法である。 ただ全ての工程を機械で行い、焼く為の窯が電気炉に変わっているということだけが違っていた。 焼成した製品が、ちょっとした添加剤の違いで、いろいろと違ったものになっていくことに、面白さがあった。

 出来上がった焼成品を切断し、結晶構造を調べては添加剤のどの成分が、結晶の成長にどういう役割を果たしているか、という調査を中心に仕事は進められた。 根気と時間のかかる仕事だったが、一つの成分ごとに添加量と結晶変化のグラフを書いて、相互の関わり合いを解明していくのは楽しいことであった。

 

 三月になって、島村が経営するスポーツショップ主催の、スキー大会が行われた。 松尾も誘われるままに大会に顔を出した。 元々スキーには自信があったし、「スキー大会の後に、アラスカでのスキーの話でもしてくれや」と、島村に言われていた。

 スキー大会は霧ケ峰高原のジャベルと呼ばれるこじんまりしたスキー場に、四十人ほどが集まって開催された。 あまり難しくないポール設定で、二回滑って合計タイムで競うという、半分遊びの大会である。 半数以上は女の子で、女性にはハンディキャップもつけられていた。 当然ながら、そんなに上手な連中がいるはずもなく、松尾は悠々と優勝を手にした。 「山屋さんなのにすごいんですね」と言われて、ちょっと鼻を高くした。

 スキー大会の終了後、反省会という名目で諏訪の市内で軽い懇親会が開かれた。 松尾は皆に請われるままに、アラスカでのスキーの話や、以前に富士山の山頂から滑り降りた話などをした。 同じテーブルに着いた八人ほどの連中は、皆熱心に耳を傾けてしきりと感心していた。 中でも中尾みきという小柄だがしっかりとした顔立ちの娘は、尊敬の入り混じった眼差しで話に聞き入っていた。

 <今の自分は、自分が意識する以上に山に関しては、周囲の人達の関心や尊敬を集める存在になり始めているようだ>

 松尾は最近、そうした状況に少しづつだが、気が付き始めていた。 その辺を計算に入れながら会話する術を、徐々に身につけていっている事に、自分自身は気付いてはいなかった。

 

 それから一週間が過ぎ、ぶらりと深雪荘に顔を出すと、

 「この前はご苦労さん。 これから一杯飲みに行くか、お客の入りは今一だしなー」

といつものように島村から声がかかった。 松尾は佳奈との約束もなかったので、

 「いいよ」

と軽く返事をして、売れ残っているスキー用品を見に立ち寄った客をからかって、暇を潰した。 以前は、店を手伝いながらスキーを売りつけたりしていたので、殆どは顔見知りだった。

 島村は面倒見が良いので、山屋やスキーをやる若い連中が、用がなくても顔を出すことが多かった。 客がいなくなって閉店の準備を始めると、スキー大会で一緒になった中尾みきがひょっこり顔を出した。

 

 (つづく)