オキュパイ大飯「非暴力」だけではなく「不服従」を実現した35時間 |  ひこぱぱ

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京都の長谷川羽衣子さんからの報告が届きました。フツーの市民目線の報告&総括ですが、まったく正しいと思います。以下。

【「非暴力」だけではなく「不服従」を実現した35時間】
6/30-7/2大飯原発トンネル前封鎖アクションレポート

こんにちは、京都の長谷川羽衣子です。
6/28から続いたおおい町での活動を終え、7/2のお昼頃、京都に帰ってきました。
この3日間、6/28からの出来事がなかなか言葉としてまとまらず、皆さんにご報告できませんでした。
心配して下さったみなさま、本当にありがとうございます。
おかげさまで、ぴんぴんしています。強制排除(ごぼう抜き)されたときはさすがに怖かったですが、年配の経験者の方曰く、「お姫様のように扱われてた」らしいです(笑)
確かに機動隊の方も、手荒にならないよう丁寧に扱って下さっていました。
お仕事なので仕方ありませんし、警察の方々も本当に大変だったと思います。
未だに完全には消化し切れていませんが、少しでも当時の様子をお伝えできればと思います。

6/30の夕方から始まった大飯原発前トンネル封鎖は、7/1の午前2時まで、延べ35時間に渡りました。
その間、全国各地からたくさんの人が入れ替わり立ち替わり、
車5-6台とフェンスとロープと鎖で築いたバリケードを訪れ、アクションに参加しました。
私が目にしただけでも、なにわ、香川、熊本、京都、滋賀、宇都宮、神奈川
…などのナンバープレートを付けた車がトンネル近くの道路に停まっていました。
電車とバスを乗り継ぎ、おおい町でヒッチハイクしてトンネル前に来た人も大勢いました。

集まった人々は、世代も、住んでいる場所も、実に多彩でした。ドラムや楽器を担いで来たアーティストたち、
バリケードを強化するため大きなトラックで駆け付けた漁師さん。
特に目立っていたのが、小さな子どもの手を引き、赤ちゃんを抱っこして参加したお母さんたちの姿でした。
7/1のお昼頃から夜にかけて、バリケードの辺りには、常に子どもが10人以上いました。

そうして封鎖アクションに参加した人の多くは、差し入れも持って来てくれました。
段ボール箱いっぱいの手作りおにぎりは、複数の人が差し入れてくれました。
菓子パンを買ってきてくれた人、海苔巻きを袋いっぱい持ってきた人、レインコートとタオルと風邪薬を差し入れてくれた人。
手作りのピザを20-30枚差し入れてくれた人もいました。飲み物やお菓子も本当にたくさん届きました。

トンネル前を固めた警官と機動隊が6/30の夜中に何度か動いた以外、それほど事態に変化がないまま、
7/1の朝を迎え、昼が過ぎました。その間、ずっとドラムの音と「再稼働反対」の声が途切れることはありませんでした。

そして封鎖から24時間が過ぎた7/1の夕方、ついに愛知や富山から機動隊が到着しました。
私たちは、トンネル前(後方)と、そしてバリケードを挟んで反対側(前方)の二手に分かれ、
それぞれ「人の壁」をつくって、機動隊の動きを待ちました。
子どもを連れた方には、危険なのでバリケードから離れるよう呼びかけましたが、
結局ほとんどの人がバリケードから一歩出た辺りに留まっていました。

私は前方にいましたが、16時頃ついに県警が街宣車で退去勧告を始めたため、ロープの前に座り込みました。
最前列の多くは女性で、私も含めたほとんどが座り込みどころか警察と対峙した経験も全くない、
3.11後に脱原発活動をはじめた人たちでした。

私たちは簡単には排除されないよう、そして非暴力の意志を示すため、
お互い腕を組んで機動隊の動きに備えました。緊張と不安から、私も左右の女性も、腕が汗で冷たく湿っていました。
そして17時頃、ついに機動隊が強制排除に乗り出しました。
ひとり当たり5-6名の機動隊で腕を無理矢理引き剥がし、留めようとする周囲の腕は他の機動隊に押さえつけられました。
そして一人ずつ抱え上げられ、運び出されて行きました。私たちの前に壁となって座り込んでくれた男性が全員排除され、
そして私たちの列も、ひとりまたひとりと強制的に排除されていきました。
自分のすぐ近くの人が引き剥がされ、連れて行かれた時は、さすがに怖くて心臓がどきどきしました。
左隣の女性は泣いていました。しかし、誰も逃げようとも、抵抗を止めようともしませんでした。
ついに、列で残ったのは私と左隣の女性の2人だけになってしまいました。
私たちは簡単に運ばれないよう、二人で抱き合って抵抗しましたが、二人とも小柄だったので、
結局二人抱き合ったまま持ち上げられ、運ばれてしまいました。

1時間半余りで、3-4列の人の壁は崩されました。
機動隊が私たちが座り込んだ場所を固めたため、封鎖アクションの参加者は分断されてしまいました。
しかし、強制排除された私たちも、すぐに機動隊の列の前に「人の壁」をつくって、
後方の人たちが挟み撃ちにされないよう、抵抗を続けました。
後方は上手くバリケードを使って抵抗していたらしく、ずっとドラムを叩き、旗を振りながらこちらの応援に応えていました。

そして、開始から33時間が経った7/2の午前0時、ついに前方を固めていた機動隊が撤退。
6時間振りに、分断された参加者は合流することができました。たくさんの人が、お互いの無事に涙を流して喜んでいました。

さらに開始から35時間が経った午前2時。
中心となった若者たちの、逮捕者やケガなく終わることが大事だと言う結論に皆賛同し、
自分たち自身でバリケードを解き、道路をきれいに掃除して、機動隊をはじめ警察の皆さんにお礼を言って、
完全に撤退しました。

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■「非暴力」だけではなく「不服従」を実現した35時間
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今回の行動を、批判的な目で見る人もいるでしょう。江川紹子さんのように、「プロ市民」の行動だと断じたり、
おおい町の方からの批判を「地元住民の冷ややかな反応」と掲載した新聞もあります。

しかし当日参加していた人なら、「プロ市民」の行動でなかったことは断言できます。
赤ちゃんを抱いたお母さんたちが「プロ市民」なのでしょうか?
それとも私が「プロ市民」なのでしょうか?それに、そもそも「プロ市民」って何でしょうか?

また、大半の新聞はおおい町の再稼働に賛成する声、そして今回の行動に批判的な声しか掲載していません。
しかし、テント村にはおおい町の方が毎日のように訪れ、雑談したり、差し入れを持ってきたり、
なんと洗濯までしてくれたりと、交流が深まっています。
みな、一様に「自分では声を上げられないから、再稼働反対の行動に感謝している」と言ってテント村を訪れるのです。

トンネル前封鎖アクションが終わった7/2の朝も、一人の小母さんが犬を散歩させながらテント村を訪れていました。
そして嬉しそうに、「朝からあんた達がうつると思って、チャンネルをパッパ変えながらテレビ見てた。ほとんどのニュースに出とったわ」
と話していました。そして、その小母さんは雑魚寝している若者をたたき起こして、
「あんたら洗濯物あるやろ?出しなさい。お昼には乾かして持って来てあげるから」
と言って、雨と、35時間分の汗(!)が染みこんだ「ムッチャ臭い(本人達談)」洗濯物の山を持って帰って行きました。

6/30-7/2にかけての大飯原発トンネル前封鎖は、とても大きな意味を持つ行動だったと私は感じています。
それは、日本では「過激」だとレッテルを貼られかねない行動に、大勢の市民、
特に女性や子ども連れの母親・父親が参加したことにあります。

都市部のデモでは、世間に広く脱原発をアピールするという意味が大きいので、
いたずらに警察の指示に逆らうことは、決して賢明な行為ではありません。
しかし、政府が強行した大飯原発再稼働は強く抗議されるべき行為であり、抵抗することは私たちの権利です。
それが例え警察と対峙することになっても、全く無抵抗に再稼働を許すことが正しいとは思えません。

封鎖行動に参加する前、私には恐れがありました。
それは逮捕される可能性への恐怖ではなく、世間や同じ脱原発を掲げる人たちから「過激派」だという
レッテルを貼られることへの恐怖でした。
実際、テント村の若者には、「おおい町の住民の心を乱す」として、脱原発活動をしている人たちからの強い批判がありました。
私は封鎖アクションには賛成でしたが、決行した場合、どのくらいの人が参加してくれるのか、
警察に抵抗するような行動を否定している団体や、世間から強い批判を受け、「過激派」と見なされるのではないか、
という心配がどうしても拭えませんでした。

しかし、6/30-7/2にかけて、大飯原発トンネル前には多くの市民が集まりました。
皆、「再稼働反対」の強い意志を持ち、交通手段のほとんどないトンネル前までわざわざやってきた人たちです。
当然、警察と対峙する覚悟を持って、逮捕の可能性がゼロでないことも分かって参加していました。
そして、誰の指示でもなく自ら座り込み、権力や「過激」というレッテルを恐れず
非暴力を貫きながらも、決して警察に服従しなかったのです。

武器を持たずにインドの独立を成し遂げた、偉大なガンジーは、「非暴力」だけではなく「不服従」を掲げ、行動しました。
ガンジーは決して無抵抗主義だったのではありません。
非暴力を貫きながらも、決して支配者の指示に従うことはなかったのです。

今回大飯原発トンネル前で、私がはじめて「不服従」の行動を行い、そして目の当たりにしました。
再稼働を止めることはできませんでしたが、この「不服従」が実現できたことにこそ、大きな意味があると思います。
市民の行動が社会を変える、その可能性を感じた35時間でした。

長谷川羽衣子(Hasegawa Uiko)