再訪 No.54大阪城 重要文化財特別公開       (2012年10月7日登城) | 城めぐりん

再訪 No.54大阪城 重要文化財特別公開       (2012年10月7日登城)

(最初の登城の記録は こちら

(再訪時の記録 大阪城の『石』は こちら

  

 平成24年10月6日(土)~8日(月・祝)の3日間、大阪城の重要文化財 『千貫櫓多聞櫓金蔵』 が特別公開されるということで行ってきました。 
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 特別公開の時間は10:00~16:30ということなので、天守閣改札券売所で天守閣入館券とのセット券を700円で購入し、10:00になるまで先に天守内を見学することとする。

 10月6日(土)~11月25日(日)まで、天守三階、四階展示室では、特別展『秀吉の城』の展示が行われている。 
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 天守内の展示を見学していると、そろそろ時間となったので、まずは金蔵の方へ向かう。

  

【金蔵】

 金蔵は本丸内に残る徳川期大坂城の古建造物で、幕府の御用金を保管した建物とのこと。

 宝暦元年(1751)、この場所から南にのびていた長屋状の建物を切断・改造して築造されたといい、以来、北西側に以前からあった金蔵を「元御金蔵」、この金蔵を「新御金蔵」と呼んだという。

 東西3間、南北8間、面積は93.11㎡の大きさで、屋根は寄棟本瓦葺、壁は上部を白漆喰で塗り固め、下部をなまこ壁としている。内部は大小2室からなり、手前の大きな部屋には通常の出納用、奥の小さな部屋には非常用の金銀が置かれていたという。 
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 10:00になったので北側の入口から中へ入らせてもらう。 
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 窓にも厳重に鉄格子がはめ込まれている。 
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 梁の上に乗っている古材は解体修理時のものであろうか。 
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 奥の小部屋では床板が一部外され、床下が見学できるようになっていた。

 床下には石が敷き詰められ、防火や防犯、防湿にまで配慮された非常に頑丈で厳重な造りとなっているとのこと。 
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 金蔵を出て、今度は千貫櫓、大手口多聞櫓の方へ向かう。

   
【千貫櫓】

 千貫櫓は、西の丸の南西隅に建つ二層の隅櫓で、大手口を北側側面から防御・攻撃する重要な場所に位置する。

 創建は徳川幕府による大坂城再築工事が開始された元和6年(1620)とのことで、昭和36年(1961)の解体修理のとき「元和六年九月三十日御柱立つ」の墨書のある板が土台部分から発見され、創建年月日が明確になったという。

 千貫櫓の名は、石山合戦の際、この付近にあった櫓を攻めあぐねた織田信長が、「落とした者に千貫文与えても惜しくない」といったことに由来するという伝承があるという。 
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【大手口多聞櫓(渡櫓)】

 大手口多聞櫓は、大手一の門の上に東西にまたがる渡櫓とその東端部から直角に折れ曲がって南へのびる続櫓からなる。

 寛永5年(1628)、徳川幕府による大坂城再築の最終期に創建されたが、天明3年(1783)に落雷で焼失。その後しばらく石垣だけの状態が続くが、嘉永元年(1848)に再建されたとのこと。 
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 渡櫓は桁行19間半、梁行5間の大きさ。 
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【大手口多聞櫓(続櫓)】

 続櫓は桁行28間、梁行3間の大きさで、渡櫓と続櫓合せて面積は600㎡余り、高さは14.7mであり、現存する多聞櫓としては最大の規模を誇るという。 
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 普段は通ることがない続櫓の東側を通って特別公開の入口の方へ向かう。
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 続櫓の南側へ回り込む。 
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 多聞櫓の内部へは続櫓南側の入口から入る。 
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 続櫓の西側(大手門側)には幅1間半の板張りの武者走りが真っ直ぐにのびる。

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 武者走りの大手門側には銃眼を備えた笠石(石狭間)が並ぶ。
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 銃眼を外側から見るとこんな感じ。通常の鉄砲狭間と比べてはるかに目立たない。
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 続櫓の天井の様子。
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 武者走りの東側には、9畳・9畳・12畳・9畳・15畳・12畳の6室の部屋が並ぶ。いざというときに兵士が籠城して寝泊まりするために造られたものとのこと。
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 渡櫓側(北側)から武者走りを見たところ。銃眼を備えた笠石は大手門の枡形内側に17並んでいるとのこと。
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 続櫓から渡櫓へ入る。

 渡櫓内部は、東から板張りの大広間が3室続き、その西側には銃眼をもつ土間がある。 
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 大広間3室のうち、中央の部屋が一番広く約70畳で、その両側の部屋は約50畳とのこと。
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 この中央の大広間の下が大門(大手一の門)で、敵の侵入に際して上から槍などを落とす槍落としが設置されている。
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 渡櫓の窓から大手口枡形を見下ろす。侵入する敵を狙い撃ち。
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 中央の大広間には、千貫櫓、多聞櫓、一番櫓の解体修復時の古材や遺品が展示されている。
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 一番櫓北妻大破風の懸魚(寛永時のもの)。
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 多聞櫓の鯱瓦(幕末改修時のもの)。
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 渡櫓内部の一番西側の銃眼をもつ土間へ下り、そこから千貫櫓の方へ向かう。
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 渡櫓から外へ出て土塀の内側の武者走りを歩いて千貫櫓の方へ進む。
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 渡櫓と千貫櫓を結ぶ土塀にも石狭間が設けられている。
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 ここで非常に残念な気持ちになる。

 この土塀を見ると、おびただしい数の落書きが・・・

 単にマジックなどで書いたというようなものでなく、漆喰に刻み込んでいる。全く何ということか・・・ 「S48」とか見えるので、かなり古いものなのかな。

 数年前、日本の女子大生が世界遺産のフィレンツェの大聖堂に落書きしたことがニュースとなり、文化財への落書きということが大きく取り上げられたことから、最近ではこういうことをやらかす者はいなくなったと思うが、いや思いたい。
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 気を取り直して、千貫櫓の中へ入る。
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 千貫櫓は初層7間×8間、二層6間×7間の大きさで、西外堀に面した一階の南面と西面には石落としが設けられている。

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 内部は、一、二階とも周りを武者走りが取りまき、その内側に天井板張りの部屋が4室ある。
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 二階へ上る階段。残念ながら二階は公開されていない。
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 天井の様子。
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 北側の壁に懸魚が取り付けられているのは何だろう?
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 南側の窓越しに大手口を望む。
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 大手口へ押し寄せる敵に対し、ここから側面攻撃!!
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 千貫櫓から、もう一度渡櫓、続櫓を通って外へ出る。

 これで特別公開されている千貫櫓、大手口多聞櫓、金蔵の3つの重要文化財の見学は終了。

 

 

 せっかくなので、大阪城のその他の重要文化財の建造物も紹介。

 

【大手門】

 高麗門形式の大手二の門は、寛永5年(1628)、徳川幕府による大坂城再築の際の創建。屋根は本瓦葺で、扉や親柱を黒塗総鉄板張とする。開口部の幅は約5.5mで、高さは約7.1mとのこと。

 昭和31年(1956)の解体修理の結果、天明3年(1783)の落雷では焼け残り、屋根のみ幕末の嘉永元年(1848)に改修されていたことが判明したという。

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【大手門北方塀・大手門南方塀・多聞櫓北方塀】

 大手門を挟んで南と北に建つ土塀と多聞櫓の西端部から北側の千貫櫓の東端部をつなぐ土塀も往時のまま現存するもので、重要文化財に指定されている。

 この土塀にも銃眼のある笠石(石狭間)が見られる。

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【桜門】

 桜門は本丸の正門にあたり、徳川幕府による大坂城再築工事が行われていた寛永3年(1626)に創建されたとのこと。慶応4年(1868)の明治維新の大火により焼失し、明治20年(1887)に陸軍により再建されたという。

 桜門の名は、豊臣時代以来のもので、当時二の丸に桜の馬場があり、門付近に植えられた桜並木にちなんで名付けられたという。

 門の両脇の巨石は龍虎石と呼ばれ、雨が降ると右に龍の姿が、左に虎の姿が現れるといわれたとのこと。また、桜門枡形内には、城内第1位の大きさの蛸石、第3位の振袖石をはじめ、巨石が並んでいる。

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【一番櫓】

 二の丸南側の石垣上には、東から西へ順に一番から七番まで、二層二階でほぼ同規模の7基の隅櫓が建ち並んでいたといい、現在は、一番櫓と六番櫓の2基が現存する。

 最も東に位置する一番櫓は、外側にあたる東面と南面を中心に16の窓があり、東面には石落としが設けられている。多数の狭間もあけられ、玉造口に攻め入る敵を側面から一斉に迎撃する。

 寛永5年(1628)の創建と考えられ、戦後の解体修理の際に発見された部材の墨書銘により、創建後の主な修復は、万治年間(1658~61)、寛文8年(1668)、天保3年(1832)の3度だったと推定されるとのこと。

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【六番櫓】

 二の丸南側屏風折れの石垣上に建つ東から6番目の隅櫓。

 外側にあたる南面と西面に石落としを1か所ずつ設け、窓は26、狭間も多数あけられているとのこと。

 寛永5年(1628)の創建で、上層の破風を飾る東西の懸魚のうち、西側の懸魚の裏側に「寛永五暦辰拾月吉日」と書かれているという。
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【乾櫓】

 乾櫓は西の丸の西北隅を守る隅櫓で、大手口から京橋口までの広い範囲を見渡す重要な地点にある。

 昭和33年(1958)の解体修理の際、「元和六年申ノ九月吉日 ふかくさ 作十郎」とへら書きされた輪違い瓦が発見され、創建が元和6年(1620)であることが裏付けられたという。

 平面L字形総二階造りの非常に珍しい形式の二重櫓で、千貫櫓と同様、小堀遠州の設計で造営されたといわれる。

 平面の形状から「折曲櫓」、また上層と下層が同一の大きさなので「重箱櫓」、堀を隔てた城の外側の南・西・北のどの方角からも望めたことから「三方正面櫓」とも呼ばれたとのこと。

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【焔硝蔵】

 西の丸に残る鉄砲や大砲に使用する焔硝(火薬)を保管した蔵で、近年建築年代を示す資料が見つかり、貞享2年(1685)の築造と判明したとのこと。

 焔硝蔵はそれ以前にも城内数か所にあったというが、万治3年(1660)に青屋口にあった土蔵造りの焔硝蔵は落雷で大爆発し、また別の場所にあった半地下式の焔硝蔵も部材の腐食により度々建て直しが行われるなど、幕府は焔硝の有効な保管方法に苦慮していたという。

 そうした課題を克服すべく、この焔硝蔵では耐火、耐久、防水に特に工夫が凝らされ、床、壁、天井、梁を全て花崗岩の切り石造りとした極めて頑丈な建物となっているとのこと。

 こうした石造りの火薬庫は他に例がなく、全国で唯一の遺構とのこと。

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【金明水井戸屋形】

 小天守台に残る井戸を金明水といい、それを覆う建物が金明水井戸屋形で、昭和44年(1969)の解体修理の際、棟木に「寛永三年十月吉日」との墨書が発見され、天守と同じ寛永3年(1626)に創建されたことが判明したという。寛文5年(1665)の落雷で天守が焼失した際にも類焼をまぬがれ、戊辰戦争の本丸炎上の際にも焼け残ったという。

 井戸は水面まで約33m、井筒は一個の石をくり抜いたもので、外部の水流しは4枚の大石を組み合わせて敷き詰めているとのこと。

 伝説では豊臣秀吉が、水の毒気を抜くために黄金を沈めたといわれているが、戦後の学術調査により、豊臣時代のものではなく、徳川幕府による大坂城再築工事に伴い、寛永元年(1624)に新たに掘られたものであることが分かったという。なお、江戸時代までこの井戸は「黄金水」と呼ばれ、本来の「金明水」は、現在配水池がある天守の東側にあったとのこと。
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 (4回目の訪問時の記録 大坂城発掘調査一般公開は こちら