鹿児島県さつま町の廃校休校巡り(2023/08/16) | haiko-riderのブログ

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2010年春から現在まで、趣味で廃校休校巡りをしてます。
これまでに訪れた校舎や思い出を記事にしてます。
無分別な廃墟探索とは全く異なりますので、誤解無きように。

さつま町は、鹿児島県の北西部、鹿児島市から約50キロメートルの

ところに位置し、周囲を山々に囲まれた盆地です。

2005年(平成17年)3月22日 宮之城町・鶴田町・薩摩町が

対等合併し、さつま町が発足しました。
町の北部には標高1,067メートルの紫尾山(しびざん)があり、

また、町のほぼ中心を南九州一の大河である川内川(せんだいがわ)が

貫流しており、自然豊かな町です。

 

霧島市から県道50号を西へ進み、薩摩郡さつま町へ入ります。

沿道に門柱が二基が立っています。

門柱の奥は山林となっていることから、移築されたものでしょう。

 

金山(きんざん)分校跡の案内板

このあたりには永野金山があり、多くの人々が暮らしていました。
1640 年に金が発見されてから、1953年(昭和 28年)の閉山まで、

300年以上もの間採鉱されていました。

 

跡地には、民間の工場が建っています。

 

校庭の様子

 

草むらにひっそりと佇む分校跡碑

 

永野小学校金山分校(1968年閉校)
沿革をみると、

1884年(明治17年)    地域有志により、かやぶき小屋で創立
1886年(明治19年)    永野簡易小学校金山分教場となる
1892年(明治25年)    金山小学校として独立
1901年(明治44年)    永野尋常小学校金山分教場へ改称
1947年(昭和22年)    永野村立永野小学校金山分校へ改称
1954年(昭和29年)    薩摩町立永野小学校金山分校へ改称
1968年(昭和43年)    薩摩町立永野小学校への統合に伴い閉校

一時期は、金山小学校として独立したのですが、再び分校に戻っています。

3年生まで分校に通い、4年生からは永野小学校へ通っていました。

隣の山ケ野金山と同様に永野金山においても、閉山とともに児童も減少、

分校も閉校となりました。

統合先の永野小学校は現役校ですが、全校児童は14名、2023年(令和5年)度を

最後に閉校が決定しています。

 

引き続き県道50号を進むと、廃線跡に黒い鉄道車両(車掌車)が

見えました。

蒸気機関車の動輪も置いてあります。

 

ここは、かつて国鉄宮之城線の永野駅があった場所です。

踏切や保線車両もあります。

 

永野鉄道記念館

1987年(昭和62年)国鉄宮之城線廃止に伴い、駅の跡地に

新設されたものです。

 

洋風のモダンな感じの建物です。

 

館内は、駅舎のように造られています。

ホームには、薩摩永野、廣橋、薩摩求名の駅名標が

立ち並んでいました。

 

 

伊佐市との境界に近い国道267号を走っていると、

大きな案内看板を目にしました。

 

石造りの校門の先に立派な木造校舎が姿を現しました。

 

 

校舎の全景1

寄棟屋根の落ち着いた雰囲気の校舎です。

校舎の右端の建物は、給食準備室です。

 

校舎の全景2

1999年(平成11年)に窓はサッシに改修されています。

校舎の左手の小さな建物はトイレです。

 

校舎の全景3

 

外壁の近景

 

玄関の近景

庇を付けたサッシ扉の簡素な造りです。

 

木板の表札

擦れていますが、何とか判読できる状態です。

 

玄関のたわしマット

「あしトントン10かい」

 

池の水は枯れたまま庭石だけ残っています。

 

校舎の裏側

 

校庭の様子

閉校となっても手入れされています。

 

記念樹の樅(もみ)
 

遊具(登り棒)

 

錆びたサッカーゴール

 

校舎の右手に石碑が建っています。

 

分校の標語

 

閉校記念碑

 

裏面

求名(ぐみょう)小学校狩宿分校(2010年閉校)

校舎も校庭も綺麗に手入れされており、地元の方々の分校への

愛着が感じられます。

沿革をみると、

1930年(昭和5年)  求名村立求名尋常高等小学校狩宿分教場として創立
1946年(昭和21年)求名村立求名小学校狩宿分校へ改称
1954年(昭和29年)薩摩町立求名小学校狩宿分校へ改称
1979年(昭和54年)全校児童7名(1,2年生のみ)※
1987年(昭和62年)全校児童4名(1,2年生のみ)※
2004年(平成16年)さつま町立求名小学校狩宿分校へ改称
2007年(平成19年)休校
2010年(平成22年)さつま町立求名小学校へ統合し閉校
※1,2年生のみ通学、3年生からは求名小学校へ通っていました。
統合先の求名小学校は、全校児童 23名( 2023年(令和5年)4月現在)と

存続の困難な時期に入っています。

 

引き続き国道267号を西へ進みむと、鶴田(つるだ)集落の丘の上に

看板が立っています。

鶴田小学校は現役校ですが、この地は移転前の旧校舎が残っており、

この看板も旧鶴田小学校を示しています。
教育標語は「夢をはぐくむ メダカの里」

後で調べたところ、一学校、一夢づくり事業として、メダカの飼育、

観察を通して、命と自然の大切さを見つめ、昔のようにメダカの

棲む里にすることを目標に5年生を中心に取り組んでいたそうです。

 

階段を上がって行きます。

マラソン大会の特設ゴールのような大きな校門です。

 

校門を抜けると、青い屋根の平屋木造校舎が続いています。

ブルー、ピンク、茶色のカラフルな配色が印象的です。

 

校舎の全景

1998年(平成10年)に建てられたモダンな校舎です。

 

校舎の近景

玄関や校舎の壁は、木造校舎の柔かな温もりを醸し出しています。

 

正面玄関の近景

表札はありませんでした。

 

鶴をシンボルとした校章

校舎の裏側

 

こちらにも玄関がありました。

 

こちらは、表札が掛かっています。

本来の玄関はこちらかもしれません。

 

片方の表札は、「鶴田小動くPTA」

独特のネーミングですね。。

 

体育館と渡り廊下で繋がっています。

重厚な体育館です。

 

校庭の様子

 

校庭脇の樹木と遊具

 

一段下にも似たような建物が見えましたが、鶴田幼稚園です。

こちらも、2021年(令和3年)3月に閉園したようです。

 

創立50周年記念碑

 

閉校記念碑

台座は校歌碑となっています。

一、

諏訪山清く 照りはえて

みどりの風は 朝をよぶ

かがやく窓に きょうもまた

ひとみ明るく 元気よく

学ぶわれらだ 鶴田校

 

旧鶴田小学校(2022年新設校舎へ移転の為、閉校)

旧校舎は、諏訪山の上にある自然豊かな環境に建っています。

沿革をみると、

1962年(昭和37年)4月 旧神子小学校と統合し鶴田小学校となる。

統合時の全校児童 745名

1987年(昭和62年)全校児童208名

1998年(平成10年)3月 現校舎完成

2021年(令和3年)5月 全校児童94名

2022年(令和4年)3月 隣接する流水小学校との統合に伴い閉校

22年間の短い生涯を終えたモダンな旧校舎ですが、別の目的で

第二の人生を歩んでほしいものですね。。

ちなみに、新鶴田小学校は、約1㎞西の旧鶴田中学校跡にて

再スタートしています。↓

新鶴田小学校(HPより抜粋)
2022年(令和4年)新設

全校児童は105名です。(令和5年)

 

さつま町北部の県道397号を紫尾(しび)温泉方面に北上します。

石造りの塀に銘板が残っていますが、工事中の様子です。

敷地にはブルーシート、玄関わきに仮設事務所が見えます。

 

玄関の先は木造校舎が続いていますが、このアングルしか

撮れませんでした。

 

校庭側に周ってみると、校舎の全貌と赤い屋根の体育館が

L字型に並んでいるのが確認できました。

 

校舎の全景1

玄関塔の両脇に木造校舎、手前は平屋で奥は2階建てとなっています。

校舎の全景2

よくみると、奥の2階建て校舎は2棟が連なっていました。

 

昔ながらの木造校舎ではなく、木の温もりが見直されて

建てられた近代的な新しい校舎です。

窓のサッシは、全体に調和するよう黒塗りされています。

 

端部の円筒形もモダンなデザインです。

正面玄関

鉄骨RCとしたのは、アクセントを加えるためでしょうか。。

 

校章

校舎とは違って古風な感じです。。

 

体育館と遊具

プール

 

校庭の様子

雑草も無く手入れされています。

直線に並ぶ遊具たち

 

校庭の角にも校門がありました。

円球を載せた年季の入った校門です。

表札も残っています。

 

樹木の陰に佇むモニュメント

卒業記念作品でしょう。。

 

こちらのオブジェも同じでしょう。。

何を表しているのかは不明です。

 

「希望」

1990年(平成2年)度卒業記念碑

コンクリート製の円筒はタイムカプセルになっているのでしょう。。

1999年に一同が会して重い(想い)蓋を開けたしたのでしょうか。。

 

閉校記念碑

 

校歌碑

一、

山は千古の霊に澄み

水永劫に清く湧く

ああこの郷に生れ出でし

生命をたれかにたたえざる

※歌詞に詠われている山は、北薩地方の最高峰、紫尾山です。

 

校舎の変遷を写真と期間で表した掲示板

初代 木造校舎 ~昭和45年

二代目 鉄筋コンクリート校舎 昭和46年~平成5年

三代目 木造校舎 平成6年~平成28年3月31日

現存校舎の前は鉄筋校舎でした。

紫尾(しび)小学校(2016年閉校)

沿革をみると、

1880年(明治13年) 恩斉小学校として創立
1892年(明治25年) 紫尾尋常小学校へ改称
1947年(昭和22年) 鶴田村立紫尾小学校へ改称
1963年(昭和38年) 鶴田町立紫尾小学校へ改称

1987年(昭和62年) 全校児童77名
2005年(平成17年) さつま町立紫尾小学校へ改称
2016年(平成28年) さつま町立柏原小学校へ統合により閉校

閉校時の児童は25名でした。

近代的な木造校舎ですが、僅か22年で役目を終えてしまいました。

鉄筋コンクリート校舎から建て替えただけに残念ですね。。

きっと別の用途で使用されることでしょう。