高知県越知町、仁淀川町の風景と廃校休校巡り(2023/03/20) | haiko-riderのブログ

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2010年春から現在まで、趣味で廃校休校巡りをしてます。
これまでに訪れた校舎や思い出を記事にしてます。
無分別な廃墟探索とは全く異なりますので、誤解無きように。

越知町(おちちょう)は、高知県の中西部に位置する自然

豊かな町です。

高岡郡に属し 、人口は4,832人(推計2023年4月1日)です。

越知町はコスモスの名所で、コスモス祭りを始めとするイベントで

観光客が多く訪れ、コスモスは町の花となっています。

 

仁淀川町(によどがわちょう)は、高知県吾川郡に属する町です。
四国山地に位置する県境の町で、面積の約9割を山林が占めています。

町域の中央を西から東に仁淀川が流れ、これに沿って高知市と松山市を

結ぶ国道33号が通っています。
人口は、4,443人(推計2023年4月1日)です。

 

仁淀川中流の風景

高知市内から国道33号、国道194号を仁淀川に沿って西へ進みます。

仁淀川は、愛媛県・高知県を流れる一級河川で、石槌山系を主な源流とし

吉野川・四万十川に次ぐ四国第三の河川です。

水質は全国1位(2010年)で、水面が青く美しい「仁淀ブルー」と

呼ばれる淵や滝壺などがあります。
 

出来地集落から県道18号に進み、いの町から越知町に入ります。

沿道の右手、石垣の上に校舎が見えました。

 

石段を登ると、校門とブロック塀の隙間から校舎が顔を

出しました。

 

校舎の全景1

桜の枝越しに見た校舎は、クリーム色の壁に中央に赤茶のライン、

ツートンカラーが特徴の校舎です。

 

校舎の隣に体育館が続いています。

 

校舎の全景2

 

正面玄関付近

 

傍に立つヤシの木に南国情緒が漂います。

往時においても、子供らを見守っていたことでしょう。。

 

正面玄関の近景

 

玄関の細い屋根に学校の文字盤、2階の壁に丸時計、柱に角型の

トランペットスピーカー。

 

閉校後は地域の公民館となっています。

集会やイベント活動の場として活用されています。

 

校舎と体育館は渡り廊下で繋がっています。

 

体育館の全景

 

校庭の様子

 

某先生の退職記念碑の言葉「継続は力なり」

 

休校記念碑「思い出の碑」

2001年(平成13年)3月31日建立

 

閉校記念碑「ありがとう」

 

片岡小学校(2001年休校、2015年廃校)

沿革をみると、

1898年(明治31年)片岡尋常小学校として発足
1926年(大正15年)現在地へ移転
1947年(昭和22年)明治村立片岡小学校と改称
1954年(昭和29年)町村合併により越知町立片岡小学校と改称
1983年(昭和58年)現在の校舎完成
1987年(昭和62年)児童数20名
2001年(平成13年)休校、越知小学校へ編入
2015年(平成17年)廃校

築40年になる校舎ですが、老朽化した外観は感じられません。

地域のコミュニティセンターとして今後も大切に使われて

いくことでしょう。。

 

旧片岡小学校の南側、仁淀川に架かる片岡沈下橋。

片岡沈下橋は、越知町片岡地区と南片岡地区を結ぶ全長

約100mの沈下橋です。

沈下橋は、四万十川流域にも多く見られますが、増水時にも

耐えられるように欄干の無い橋となっています。

生活道路として利用されているので、このように車が往来

していますが、離合できない点や夜間の運転など慣れていないと

危険でしょうね。。

 

静寂に包まれる仁淀川

鏡のように山影を映す水面

 

対岸から撮った片岡沈下橋と集落

集落の中に片岡小学校の体育館が見えますね。。

 

引き続き県道18号を進むと、隣の浅尾(あそお)地区にも

沈下橋があります。

 

浅尾沈下橋と集落の風景

浅尾(あそお)沈下橋は、越知町鎌井田地区にある全長

約121mの沈下橋です。

周囲を山々に囲まれ、対岸にある鎌井田集落と橋とのコントラストが

美しく絵葉書を見ているようです。

当日は、対岸に菜の花が咲き春の穏やかな光景でした。

映画「県庁おもてなし課」や「君が踊る、夏」など映画やドラマの

ロケ地にもなりました。
近年では2021年7月公開のアニメ映画「竜とそばかすの姫」の

舞台のモデルとなりました。
地元の方によれば、多くの観光客で賑わったそうです。

 

国道33号に合流し、仁淀川町役場から国道439号を北上、

さらに仁淀川の支流の安居川に沿って県道362号を北上していきます。

大きな岩がゴロゴロしている渓谷ですが、エメラルドグリーンの

水面に癒されます。。

 

引き続き県道362号を北上、安居渓谷に行く途中、

対岸に学校らしき建物が見えてきます。

 

石ころだらけの安居川の対岸、灰色のコンクリート校舎と

赤い屋根の体育館です。

 

近付いてみると、狭い敷地に車が停まっています。

何か作業を去れている様子なので、外観だけみることに

しました。

背の高いヤシの木が3本立ち並んでいます。

 

2階のベランダが伸びて1階の庇となっています。

 

細長い校舎にはたくさん教室がありますが、往時はどれくらいの

児童が学んでいたのでしょうか。。

 

玄関の様子

 

窓にもたれる緯軽度の標柱

 

錆びた骨組みだけの椅子

 

池川小学校の児童が制作した記念作品

 

閉校記念碑「追憶の碑」

 

対岸のフェンスの文字盤は、「宮尾登美子先生初任の安居小学校」

安居小学校は、宮尾登美子ゆかり(1926-2014)の地でもありました。

「鬼龍院花子の生涯」などの作品で有名な宮尾登美子は1943年

(17歳の時)に高坂高等女学校を卒業し、安居国民学校の代用教員

となりました。
その後も波瀾万丈の人生を送りながらも多くの小説を世に出し

数々の賞を受賞しています。

作品のテーマは一貫して女性であり、時代に翻弄されながらも

逞しく生きる女性を描いた作風で多くの読者に支持されました。

 

安居小学校(1997年閉校)

1875年(明治8年)安居村立安居小学校として創立
1987年(昭和62年)児童数11名
1997年(平成9年)池川小学校への統合に伴い閉校
安居渓谷への途中、安居川の対岸の斜面に建つ校舎です。

宮尾登美子の赴任時には、どれくらいの児童がいたのでしょうか。

山深い辺境の地に赴任した彼女は、学校の目の前に流れる

安居川を眺めながら、何を想っていたのでしょうか。

 

安居川に沿って引き続き県道362号を北上、安居渓谷に

入ります。

 

観光スポットは幾つかありますが、水晶淵に向かいます。

 

下りて行く途中、エメラルドルリーンの渓谷美を垣間見ることが

出来ました。

 

水晶淵の渓谷美1

 

水晶淵の渓谷美2

透き通った水面の煌めきに言葉を失います。

 

水晶淵の渓谷美3

いの町の「にこ淵」と並ぶ仁淀ブルーの聖地ですが、

にこ淵が「動」であれば、水晶渕は「静」の碧さでしょう。

こちらが透明度は高いと感じました。

 

砂防ダム

こちらも美しい仁淀ブルーです。

 

県道362号を引き返し、国道439号を旧池川町中心部へ進むと

趣のある風景が現れます。

仁淀川の支流、土居川が悠然と流れ、昭和の時代にタイムスリップ

したかのようです。

 

満開の桜と旧池川町の家並み

池川町は、昭和30年代には人口が8000人強でしたが、町消滅時には

高知県内で最も人口の少ない町となっていたようです。

現在は池川町・吾川町・仁淀村 の3つの町村と合併し仁淀川町に

なっています。

 

旧池川町中心部より国道494号を久万高原町方面へ直進します。

 

先ほどの案内標識から5分ほど進むと、椿山(つばやま)との

分岐路に当たります。

ここで右折し、大野椿山川に沿って狭路を北上します。

椿山は仁淀川流域最奥の集落で平家の落人が開いたとされる秘境です。

 

椿山へ行く途中、大野集落に学校跡を見付けて立ち寄りました。

古い校門に往時の表札が残っています。

 

バラスを敷いた校庭の先に平屋の建物が見えます。

 

玄関の表札

校舎は解体され、地区のコミュニセンターが新築されていました。

 

建物の裏側

 

校庭と周辺の風景

 

反対側の風景

大野椿山川を見下ろす急な斜面は茶畑となっています。

 

校庭から林道方向

 

学校跡碑

かつて、この場所に学校が存在していたことの証です。。

 

大野小学校(1974年閉校)

1876年(明治9年)創立

1974年(昭和49年)北部小学校への統合に伴い閉校

閉校後は解体されて、跡地には地区の集会所が建てられていました。

 

椿山集落へは曲がりくねった急傾斜の林道を上って行かなければ

なりません。

驚いたのは、伐採した丸太を満載した大型トラックがこのような

狭路を往往来していてたことです。

ガードレールが無い場所もあるので、運転を誤ったら大変です。

 

やっと椿山集落に着きました。

平地が無いため、山の斜面を階段状に切り開いた狭い敷地に

民家が密集していますが、ほとんどが空き家です。

 

標高700mに位置する椿山集落は、周囲の山々が近くに迫っており、

南アルプスの天空の里と呼ばれる下栗集落とよく似ています。

 

秘境に咲くモクレンや花桃

椿山集落は、2008年に公開された映画「私は貝になりたい」の

撮影が行われたところです。

 

コンクリートで整地された唯一の広場に椿山小学校跡が

あります。

 

校舎は解体されて、集会所が建てられています。

選挙のポスター掲示板がフェンスに括り付けてありましたが、

このような山深い場所にまで選挙カーがやってくるのでしょうか。。

 

集会所(反対側)

集会所の奥にも民家が密集しています。

 

校庭から望む山々

 

学校跡の背面も階段状の急傾斜です。

 

学校跡広場の一段下の様子1

 

学校跡広場の一段下の様子2

反対側です。

 

1955年(昭和30年)頃までは、250名ほどの住民が暮らして

いたそうですが、目の前に登る朝日や沈む夕日を眺め、日々の

疲れを癒していたのでしょうか。。

現在は空き家の屋根が連なる寂しい風景です。

 

 

椿山(つばやま)小学校(1972年閉校)

愛媛県との県境にも近い椿山(つばやま)集落は、安徳帝と共に

落ち延びてきた平家残党が椿山集落を築いたとの言い伝えがあります。

かつては焼き畑農業や林業で200名を超える村人が住んでいましたが、

産業構造の変化により、人々は山を下りていき2019年には最後の住民が

椿山を去り無人集落となってしまいました。

その後、故郷の存続を願う元住民が2020年春に住民票を戻したそうです。

当日、偶然出会った村人によれば、現在の住民(定住)は4名とのことです。

定住はしていないが、麓の町や高知市内で暮らしている元住民も何人かおられ、

週末など休みの日には椿山に戻ってきて家や庭の手入れをされているようです。
1876年(明治9年) 創立

1945年 (昭和20年) 児童数45名
1972年 (昭和47年) 用居小学校へ統合に伴い閉校

最後の児童数2名

現在は、跡地に椿山交流センターが建っています。

平家ゆかりの霊を慰める「椿山太鼓踊り」は1991年(平成3年)旧池川町の

無形文化財に指定されています。

この踊りは、毎年8月3・4・14日、9月5日、6月20日(虫供養)に行われますが
かつては何十人もいた踊り手たちも、山間地域の過疎化と高齢化のため数名となり、

今では太鼓踊りを伝える者も数少なくなっているとのことです。

過疎地域で共通の課題なのでしょうね。。

生まれ育った椿山の伝統を絶やすまいと、叩く太鼓が深い山々に響き渡ります。

 

国道494号に戻り、国道439号を南下、仁淀川町役場方面へ

南下していきます。

国道33号沿いの「引地橋の花桃」に立ち寄ってみました。

すでに午後3時を回り、陽も陰り始めていました。

 

少し時期を過ぎた感はありますが、赤や白の花桃が咲いていました。

 

満開の頃は100本の花桃が咲き誇り、色鮮やかな光景となります。

土佐の桃源郷と云われる所以です。(観光サイトより)

 

大きな枝振りのモクレンの姿は、純白の衣を纏っているようです。。

 

国道33号を高知市方向に引き返します。

寺村トンネルを抜けて直ぐに右折し3㎞ほど進んだ場所にあるのが

花の里公園です。

少し派手な看板が目を引きます。

 

 

花の里公園は、2012年(平成24年)に地元の方が山の斜面に

花桃を約1,000本を植えたのが始まりで、ソメイヨシノや

レンギョウなどの花も加わり綺麗に整備されています。

 

手作り感満載の休憩所

 

遊び心の溢れる公園

 

食事処も設けてありますね。

 

宇宙桜?

 

「清流日本一のブルー仁淀川に桃の花びら舞い踊る花の里」

地元の方々の郷土や自然を愛する想いが伝わって来ます。

 

大きな弧を描く仁淀川

深い峡谷に咲く桜

ピンクの花桃と寺村集落

手作りのベンチでコーヒーでも飲みながらゆっくりと休んで

行きたいスポットです。

 

花の里公園から上方を見上げると、体育館のような建物が

見えました。

 

細い石段を登って行きます。

 

途中で見た天井の壊れた百葉箱

 

やはり、体育館です。

 

体育館(反対側)
館内を覗くと、一部は縫製会社が使用しており、年配の

ご婦人が数名、ミシンで仕立て作業をされていました。

 

 

体育館からの眺め1

蛇行している仁淀川、斜面にへばりつく集落。

 

体育館からの眺め2

整然と並ぶ茶畑

 

さらに上方へ登ってみました。

体育館の屋根を見下ろす場所まで来ました。

 

こちらでもピンクや白の花桃が咲いています。

 

寺村集落を俯瞰してみます。

黄色の楕円が体育館です。

 

寺村も、山の斜面に民家が密集する天空の集落です。

重厚な体育館は、集落で最大、存在感のある建物ですね。

 

校庭の様子

花の里公園の駐車場になっています。

 

体育館の横は、校舎は解体された後に更地となっています。

 

 

 

沿道の石垣に建つ石碑

 

小学校は1981年(昭和56年)、体育館は1984年(昭和59年)に

完成したことが分かりました。

 

2003年(平成15年)度 休校記念碑

児童らの手形と好きな言葉が刻まれています。

休校時の児童は24名だったのでしょうか。。

 

寺村小学校(2004年休校、2013年廃校)

花の里公園の上方の高台に位置し、校舎は解体済、体育館のみ

残っています。

1987年(昭和62年)全校児童は40名。

休校となった後は、仁淀川町役場のある大崎小学校へ編入されました。

同校も2014年(平成26年)に池川小学校への統合に伴い

閉校となっています。