秋田県男鹿市、能代市の廃校休校巡り(2022/09/18) | haiko-riderのブログ

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2010年春から現在まで、趣味で廃校休校巡りをしてます。
これまでに訪れた校舎や思い出を記事にしてます。
無分別な廃墟探索とは全く異なりますので、誤解無きように。

男鹿市(おがし)は、秋田県西部にあり、男鹿半島の大半を

占める市です。
ちなみに、牡鹿(おじか)半島は、宮城県の地名ですが、

混同される方も多いかもしれません。

男鹿市は、3方を日本海に囲まれ、北西端には入道崎があります。

近年の沿革をみると、

2005年(平成17年)3月22日 に、 旧・男鹿市、若美町が

合併して、新制の男鹿市が発足となっています。

出身の有名人には、落合博満(元プロ野球選手、

中日ドラゴンズ元監督(若美町出身)がいます。

 

能代市(のしろし)は、秋田県の北部に位置し、日本海に

面した市です。

能代工業高校のバスケットボールでの活躍が有名で、
1989年度(平成元年度)からバスケットボールの

街づくり事業に取り組んでいるようです。

近年の沿革をみると、
2006年(平成18年)3月21日 に、能代市と山本郡二ツ井町が

新設合併し、改めて能代市が発足となっています。
出身の有名人には、山田久志 ( 元プロ野球選手。アンダースロー投手

としては歴代最多勝利)がいます。

 

男鹿市街から県道59号を日本海沿いに進みます。

男鹿半島特有の黒っぽい岩礁が見られます。

 

海岸沿いの道路は整備されていて、日本海からの心地よい風を

感じて快適なツーリングです。

 

迫力のある「なまはげ」の立像

「なまはげ」は男鹿半島周辺で行われてきた伝統的な民俗行事です。

「なまはげ」は怠惰や不和などの悪事を諌め、災いを祓いにやって

くる来訪神として崇められています。

地区の若者がなまはげに扮し、大みそかに家々を巡るものですが、

国の重要無形民俗文化財に指定されています。

 

戸賀加茂青砂(とがかもあおさ)の漁村集落

引き続き県道59号を男鹿半島東海岸沿いに進み、戸賀加茂

青砂集落にに入ります。

上の写真で黄色の楕円で囲った赤い屋根の建物が、加茂青砂

小学校です。

近くに進んでいきます。

 

海岸から丘へ進むと正門が2基立っています。

 

左側は加茂青砂小学校

 

右側は加茂青砂中学校です。

一時期は中学校も併設されていたようです。

 

校舎の全景

案内してくださった方によれば、この位置が撮影に格好の

ポイントだそうです。

 

1928年(昭和3年)築の2階建木造校舎です。

端正に組み込んだ下見板張り、大きな連続窓が特徴です。

2011年(平成23年)に耐久性のある塗料が塗られた木材で

改修が加えてあるので、古めかしい感じはありません。

 

校舎の奥に見えるのは体育館です。

 

1951年(昭和26年)築の木造体育館です。

 

正面玄関の近景

 

銘板が劣化していて判読困難ですが、目を凝らすと

「男鹿市立加茂青砂小学校」とあります。

 

校章と登録文化財の銘板

 

当初は解体の話も出たそうですが、昭和初期に建てられた

貴重な木造校舎として、2001年(平成13年)に国の登録
有形文化財に指定されました。

係りの方に案内され、構内を見学します。

(事前に申し込みすれば、個人でも見学可能です。)

 

扉の付いた下駄箱は、先生が使用していたものですね。

閉校後は、「かもあおさ笑学校」というふるさと学習施設として

活用されており、様々なイベントが催されています。

 

壁に掲げた教育標語、下の写真は最後の児童が先生と撮った

ものです。

閉校時の2011年(平成13年)3月の児童は6名でした。

 

大会やコンクールでの栄光の数々

 

卒業証書授与式の看板

卒業式の日に、体育館のステージで掲げたものでしょう。

 

校長室

 

校長室の様子

 

図書室

 

音楽室

 

 

廊下の様子1

 

廊下の様子2

 

階段1

階段は改修せず往時のままの状態です。

 

階段2

中央の白線が、学校らしく懐かしい。。

 

学校の標語1

 

学校の標語2

 

学校の沿革を書いた貼り紙

慰霊碑「和平」とノーマン氏は、地元で起きた事故に関するもの

です。

終戦間もない1945年(昭和20年)8月28日、捕虜となったアメ
リカ兵への救援物資を輸送中の米軍戦略爆撃機B29が、濃霧の

ため山の中腹に激突、乗員12名中11名が死亡しました。

小学校の校庭に犠牲者の慰霊と恒久平和を願う「和平」と書かれた

慰霊碑が建られました。1990年(平成2年)には、唯一の生存者で

あったノーマン元軍曹が来日して加茂青砂小学校を訪れ、集落住民
による救出を感謝するとともに、児童たちとの触れ合いを楽しんだ

そうです。

 

創立110周年記念の集合写真

1976年(昭和51年)2月3日に撮った写真には、粉雪が

舞っていますが、児童26名は皆元気で明るい表情を

していますね。。

 

閉校式の2011年(平成13年)3月24日
当時のまま残してあります。

 

体育館の内部

天井はトラス状に梁が組まれており、柱の無い独特の構造と

なっています。

 

船名を書いたカラフルな大漁旗は、かもあおさ笑学校のイベントで

飾られたものです。

奥にはステージ、入学式や卒業証書の授与式が執り行われました。

 

なまはげの絵かな

 

卒業記念制作の児童作品

 

小学校校歌

一、

あかるい光 波にさく

いそのながめの わが里よ~

 

中学校校歌

一、

磯辺に寄せる 朝潮の

響きと香りのみなぎるほとり~

 

少年像

台座には「立志」と題字があります。

1985年(昭和50年)12月に建立されたものです。

 

二宮尊徳像

台座には、「報徳」とあります。

 

温厚で聡明な表情ですね。。

 

「克己」の刻んだ石碑は、1977年(昭和52)年11月、加茂青砂

中学校創立30周年の記念碑です。

 

加茂青砂小学校、中学校跡記念碑

 

加茂青砂小学校(2001年閉校)

男鹿半島の南西部の漁村集落に建つ木造校舎です。

沿革をみると、

1876年(明治9年)開校

1927年(昭和3年)現校舎を建てる

1951年(昭和26年)屋内体操場を建てる

1976年(昭和51年)全校児童26名

1994年(平成6年)パソコンを導入

1995年(平成7年)全校児童12名

2001年(平成13年)全校児童6名、北陽小学校への統合に伴い閉校

昭和初期には100名を超える児童が在籍し、校舎の増築も

行われました。

海岸部の「へき地校」ですが、いち早くパソコンを導入し、

ホームページの作成や電子メール、写真交換を通じて

関東都市部の大規模校や九州の山あいの小規模校などと

交流を図ったそうです。

閉校後20年以上経過していますが、校舎内部は閉校時のまま

大切に保存されています。

現在は、ふるさと学習施設「かもあおさ笑学校」として

活用されています。

 

加茂青砂小学校から海岸へ歩いて行く途中に、大きな慰霊碑が

建っています。

1983年(昭和58年)5月26日に発生した日本海中部地震により、

加茂青砂の海岸に遠足に来ていた旧合川南小学校(北秋田市、

平成24年閉校)の児童が津波に飲み込まれました。

集落を挙げて捜索救助を行いましたが、13名の尊い命が失われました。

 

遺族一同の建立による鎮魂の碑

 

加茂青砂の海岸


折角なので、入道崎に立ち寄ってみました。

入道崎は、男鹿半島北西端に位置し、日本海に突出する岬です。

観光地として整備されており、食堂や土産物の売店等が軒を連ね、

駐車場も多くの車でいっぱい、賑わいをみせていました。

 

1898年(明治31年)に建造された入道埼灯台

白黒対称の縞模様が特徴で、全国の登れる灯台16基の中のひとつです。
なお、岬からの夕陽が美しく、日本の夕陽百選にも選ばれています。
 

海上保安庁、燈光会の解説板

現在の灯台は1951年(昭和26年)に改築されたもので、

地上から約28m、水面から約57mの高さがあります。

 

入道崎の海岸

男鹿国定公園の一角を成し、北緯40度線上にあることから、

それを印した安山岩のモニュメントが設置してあります。

 

男鹿半島を北上し能代市に入ります。

国道7号を東に進み、二ツ井町切石地区に着きました。

校門に往時の表札が残っています。

 

左の手前に体育館、右奥に校舎とL字型に並んでいます。

 

体育館の全景

2階の壁には「切石小すこやかづくり」とあります。

学校挙げて健康増進に取り組んでいたのでしょう。。

 

外壁のトタン張りは茶色に錆びて、木造校舎のような味わい深い

仕上がりとなっています。

 

校舎の全景

赤いトタン屋根、外壁は灰色の2階建て校舎です。

 

放置された樹木の伸び過ぎた枝が校舎を圧迫していました。

 

外壁をよくみると、板張りに灰色のトタンを張っていました。

やがて体育館のように錆びて変色していくのでしょう。。

窓から上に伸びるストーブの煙突が冬の厳しさを伝えています。

 

 

玄関は、体育館と校舎の間の茶色い建物です。

 

玄関の全景

正面の松の木が立ちはだかり、全景を損なっているのが

少し残念です。

 

このアングルが最良です。

校舎と独立している、珍しい配置となっています。

 

校庭の様子

芝生に覆われており、歩くとスポンジのような弾力性が

感じられ心地よかったです。

 

側溝の脇に並べた古タイヤ

遊具なのか危険防止用に設置したのか不明です。。

 

ジャングルジムと滑り台

 

2基のトーテムポール

鬼の絵はナマハゲでしょうか。。

 

「躍進」と題字された石碑

1979年(昭和54年)に建立の創立百周年記念碑です。

題字の下には、校歌が刻まれています。

一、

清い流れの米代に

映える校舎は切石の

よい子がつどい励む庭~

 

閉校記念碑

1879年(明治12年)8月28日 開校

2008年(平成20年)3月31日 閉校

129年の歴史に幕を下ろしました。。

切石小学校(2008年閉校)

校舎よりも体育館が存在感がありましたが、訪れた日は薄曇りで

青空に映える校舎は撮れませんでした。

1987年(昭和62年)の全校児童は65名

2008年(平成20年)近隣の小学校とともに二ツ井小学校への統合に伴い

閉校となりました。

 

「道の駅ふたつい」から県道3号を南下、天神地区の七座(ななくら)

神社の鳥居まで来ました。

白い大きな鳥居を潜り舗装路を直進します。

 

程なく、コンクリートの校門、奥に校舎と校庭が見えました。

 

表札の文字は劣化して判読不可能です。。

 

 

校舎と見えたのは、体育館(裏側)でした。。

 

広大な校庭です。

 

さらに進むと、赤い屋根、茶色の壁の建物が奥に見えてきます。

恐らく、これは校舎の裏側でしょう。。

ぐるっと周ってみると。。

こちらが校舎(表側)です。

平屋校舎と2階建て校舎、中央に玄関です。

 

平屋校舎

 

閉校後は、カヌー制作場となっているようです。

 

校舎の正面

玄関の破風には「天神工房」とあります。

 

教育標語

自販機は、カヌー工房となってから設置されたものでしょう。。

 

裏には、通用口があります。

 

児童専用の玄関

校舎の全景

 

校庭側に校門がありましたが、こちらが正門のようです。

沿革を記した木板も掲げてあり、廃校巡りをする者にとっては

珍しくも有り難くもあります。。

 

天神工房の看板

 

カヌー工房の主人に挨拶をし、内部を見学しました。

リニューアルされていますが、児童らの作品が随所に残っています。

 

校長室

歴代校長の写真、トロフィー、卒業アルバム等がありました。

 

輪切りにした天然秋田杉が展示してあります。

樹齢約190年、直径約1.2m、胴回り約3.9m

天然杉は、枝打ちや間伐などの世話を施さないため、

成長の遅さから年輪の幅が狭く、結果として強度に優れている

とのことです。

 

カヌーの製作現場

工房の主人によると、ベニヤ板を材料にしているそうです。

 

カラフルな数々のカヌー

ご主人が全てお一人で製作されたそうです。

 

テーブルや椅子などの木工品も展示してありましたが、

来訪者も体験コーナーで製作できるそうです。

 

階段の様子

 

廊下の様子

 

学校の標語

 

天神丸

卒業記念作品でしょうか。。

11名の似顔絵の下に、「みんななかよし、天神丸」とあります。

 

カラフルな手形

真ん中には、WaterⅦ号と書いた筏が浮かんでいます。

「ぼくらのほこり WaterⅦ号」

7名の卒業記念作品でしょうか。。

 

ジャックと豆の木の絵画

1981年(昭和56年)度の卒業記念作品です。

卒業生は10名でした。

 

竹取物語の絵画

1986年(昭和61年)度の卒業記念作品です。

卒業生は13名でした。

 

閉校時のまま残してある黒板

 

校歌碑と閉校記念碑

 

閉校記念碑

「この学び舎を ふるさとに

未来へ はばたく」

 

天神小学校(2005年閉校)

1884年(明治17年)開校

1987年(昭和62年)全校児童78名

2005年(平成17年)全校児童28名、仁鮒小学校への統合に伴い閉校

2013年(平成25年)小学校舎をリニューアルし、カヌー製作と

木工体験の場所として「天神工房」オープン。

工房のご主人は、とても気さくで明るく饒舌でした。

カヌーとカヤックの違いや、カヌー製作の工程等を熱心にお話して

いただきました。

二ツ井駅方面に戻り、米代川を渡り県道203号を南下、ほどなくして

仁鮒(にぶな)小学校の大きな案内看板が目に入ります。

「浜辺の歌」の作曲者 成田為三 勉学の地 とあります。


コンクリート製の校門に往時の表札

 

樹木が鬱蒼と茂っていますが、左手前に体育館、正面奥に校舎です。

 

体育館は、校舎と同じ屋根続きで木造です。

 

2階の丸時計、折り返しの非常階段、トランペットスピーカー、

郷愁が漂います。

 

校舎の近景

 

正面玄関の表札、屋根のランプは、古い駅舎のようですね。。

 

年季の入った校章

 

校門の右隣にあるプール

 

成田為三先生勉学の地と題した石碑

1904年(明治37年)3月に、仁鮒尋常高等小学校を卒業

1977年(昭和52年)9月、創立百周年記念として建立

成田為三は、秋田県出身の作曲家で、大正期に「浜辺の歌」や

「かなりや」の童謡を手掛けたことで知られています。

小生は、小学生の頃に音楽の授業で「浜辺の歌」を唄った記憶が

ありますが、作曲者は知りませんでした。

石碑には、歌詞と楽譜が刻んであり、思わず口ずさんで暫し

懐かしい記憶に浸ってしまいました。。

 

小学校跡碑

「仁鮒っ子

ここに学び

百三十年の歴史を刻む」
 

 

仁鮒小学校(2008年閉校)

樹木が茂り森の中にいるような場所に佇む木造校舎です。

1877年(明治10年)開校

1924年(大正13年)校舎が火災により焼失

1919年(昭和4年)現校舎を建築

1987年(昭和62年)全校児童134名

2008年(平成20年)二ツ井小学校への統合に伴い閉校

閉校から14年経過、特に何かに利活用されている気配はなく

自然の為すがままに朽ちていく様子です。

この地に学んだ成田為三先生も残念に思っていることでしょう。。