美浜町(みはまちょう)は、和歌山県の中部、日高郡の西端に位置し、紀伊水道に面しています。
面積は和歌山県内で太地町に次いで狭い町です。
日高川町(ひだかがわちょう)は、和歌山県の中部に位置する町です。
2005年5月に旧川辺町、中津村、美山村が合併して誕生しました。
日高川町の名は、これらの町村を共通して流れる日高川に由来しております。
旧川辺町地域ではみかんを初めとした農業が盛んで、鮎の日本一の養殖場があります。
旧中津村、美山村では林業が中心で、備長炭の生産量は日本一です。
近年は観光に力を入れており、グリーンツーリズムが盛んになってきています。
龍神村(りゅうじんむら)は、かつて和歌山県日高郡に存在した村です。
同県の中央東部に位置し、龍神温泉の村として知られていました。
2005年5月1日に田辺市、中辺路町、本宮町、大塔村と合併し、新・田辺市になりました。
日ノ御埼(ひのみさき)は、和歌山県日高郡日高町及び美浜町の町境に位置し、
紀伊水道に面する岬です。
「日の岬」とも書きます。紀伊半島の最西端に位置し広く紀州灘を臨むことが出来ます。
三尾小学校の生徒の作成した「三尾の名物」
工野 儀兵衛(くの ぎへえ) は、日本のカナダ移民先駆者で、「カナダ移民の父」と称されています。
儀兵衛氏は幕末の嘉永7年、日高郡三尾浦(現美浜町三尾)に生まれ、明治21年9月、34歳で
カナダへ移民しました。ブリティッシュコロンビア州のスティブストンという町のフレザー河で
サケの大群を見つけ、「フレザー河にサケが湧く」と三尾から弟や親類をカナダに呼び寄せました。
その後も毎年のように、三尾から多くの人が儀兵衛氏をたよって海を渡り、儀兵衛氏は「カナダ移民の父」としてその功績が両国で語り継がれています。
1957年2月、神戸港に向けて航海中だったデンマーク船エレン・マースク号は、
午後9時頃に日ノ御埼灯台の沖合で火災を起こしている高砂丸(徳島県の木材運搬船)を発見しました。
天候は悪く海上は大荒れであったため、救命ボートは近づけず、綱をつけたブイが投げ入れられ、高砂丸の船員がそれをたぐり、救助される途中に遂に力尽きて、海中へ転落してしまいました。
それを見ていた1人の船員が自らの命もかえりみず、果敢にも荒れ狂う海に飛び込みましたが、残念ながら波にのまれてしまいました。
それが、ヨハネス・クヌッセン機関長その人でした。
事故の翌1958年には、事故現場を望む日ノ御埼・日の岬パーク(美浜町)内に「クヌッセン機関長顕彰碑」が建てられました。
三尾小学校(2008年閉校)
美浜町の西端にある三尾地区は、明治の頃からカナダに多くの出稼ぎ移民を輩出しました。
カナダで一旗を上げて帰国した人々は、カナダの建物を真似た住宅を建設しました。
かつては異国情緒の漂う建物が点在しましたが、老朽化による取り壊しや改築に伴い
原型を留めるのは数軒となっています。
校門の横にカナダの姉妹校との書かれた記念碑が建てられていましたが、
閉校後も交流は続いていることでしょう。
美浜町から御坊市へ入り、日高川に沿って内陸へ進みます。
県道25号を走っていき、坂野川地区の沿道に校舎があります。
自販機の置かれた黒っぽい建物は改装されたものと思われますが、
2階の窓の上仁☆マークの校章があり、校舎だったことが確認できます。
現在は、「あおぎ園」という福祉施設となっております。
日高川町田尻地区にあります。
ベージュと赤茶を基調としたモダンな感じの鉄筋2階建て校舎です。
中央のベランダには、「ごめんなさい すなおな気持ちで仲なおり」と
ありました。生徒の作品でしょうが、大人になっても実践されていることでしょう。
なかなか難しいことではありますが。。
子十浦(こそうら)小学校(2005年閉校)
日高川町子十浦地区にあります。
先の大星、川中第一小学校とともに、中津小学校に統合され、
同時に閉校となりました。
良く見ると黒ずんだ校舎と白く新しい体育館が繋がっています。
体育館の存在感に見劣りした校舎が小さく弱く見えました。
椿山ダム湖に架かる人道専用で、近畿地方で3番目に長い吊り橋です。
ダム湖の風景や周辺に広がる山並みの美しさと併せて写真撮影のために多くの人が訪れます。
吊り橋を渡ったところにある「グリーンパーク椿山」には、日本一楽しめる山彦スポットがあります。
国道424号を南下し龍神村甲斐ノ川地区にあります。
校舎の脇に時計台に「四海文徳」と書かれた記念碑がありましたが、
私には難解です。
校庭には洗濯物が干してあり、長閑な山間集落です。
国道424号を引き返し、再び日高川町に戻り
日高川の支流である寒川(そうがわ)に沿って奥へ入って行きます。
日高川町内陸の寒川地区にあります。
旧美山村であった地区ですが、
村のほとんどが山地となっており、かつては林業や備長炭の生産が盛んでした。
耕地は極めて少なく、過疎集落となっております。
校舎は、黒ずんだコンクリートの地味な校舎です。
1991年度の在校生徒は、僅か18名でした。
感謝の心を込めた記念碑が唯一真新しいものでした。
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