熊野市(くまのし)は、三重県の南部に位置し、熊野灘に面する市です。
吉野熊野国立公園内に位置し、豊かな自然と温暖な気候に恵まれています。
三重県の南西部、和歌山県との県境に近く、新宮市など和歌山県東部との結びつきも強い市です。
北西部は、標高500メートルを超える山々が縦横に連なり、奈良県および尾鷲市に接し、
東南部は黒潮おどる熊野灘に面してリアス式海岸と白砂青松の変化に富んだ景観に恵まれています。
産業は、温暖多雨な気候と市の面積の87パーセントが山林という地形から、木材生産地として知られ、農業では、温暖な気候に育まれたみかんの栽培が盛んで、この地域の特産品となっています。
また天然の良港と漁場に恵まれ、定置網漁業や敷網漁業なども盛んです。
尾鷲市(おわせし)は、三重県南部の熊野灘に面する市です。
面積の90%は山林であり、海岸はリアス式海岸です。
黒潮の流れる熊野灘に面し、背後を山に囲まれていることから、
南からの暖かく湿った空気が流れ込みやすい春から秋にかけて、雨雲が発達しやすく、
日本国内で見ても非常に雨が多いです。
年間降水量は3,922.4mmで、降水量は多いですが、晴天時も多いです。
天文台もあり、星空が綺麗なことでも知られています。
紀北町(きほくちょう)は、三重県南部に位置する町です。
2005年10月11日、旧紀伊長島町と旧海山町が合併して誕生しました。
世界遺産紀伊山地の霊場と参詣道(熊野古道)ツヅラト峠、始神峠、
馬越峠などを有する自然豊かな町です。
特に南部は全国でも有数の多雨地帯です。
主な産業は、水産業、林業です。
上北山村(かみきたやまむら)は奈良県南東部に位置する村です。
奈良県で二番目に面積が広い村です。
人口密度では奈良県内では最低、全国では福島県檜枝岐村、北海道幌加内町に次いで
3番目に低い自治体です。
奈良県東部をを南北に縦断する国道169号を南下し、
東熊野街道の国道309号を海岸へ突き進むと広大な
大海原が見えます。
熊野市磯崎町にある熊野灘に面した鉄筋3階建て校舎です。
門柱や正面玄関は改装されており、
「熊野文化圏専門学校」となっておりました。
国道311号は、熊野市と尾鷲市の海岸を縫うようにして走っています。
その沿道の高台に上がると、朝の眩しい陽射しを浴びた美しい木造校舎がありました。
校舎は緑の山を背にして赤茶色の瓦とのコントラストが鮮やかです。
海水浴には、まだ早い時期でしたが、新鹿湾の綺麗な浜に穏やかな波が
寄せていました。
海水浴場を過ぎると急峻な断崖となっており、変化に富んだ海岸美です。
遊木(ゆき)漁港
海辺に家屋と漁船が密集しており、漁村らしい素朴で絵になる港です。
漁港から少し奥に入った場所にある鉄筋3階建てのこじんまりとした校舎です。
この3月で休校となってしまいました。
JR紀勢本線は入組んだリアス式海岸を通るため、
トンネルが多いのが特徴です。
国道311号から逢神坂トンネル方面を見ると、線路の両側に家屋が集まっています。
平地が少ないのが判ります。
トンネルの出口の大きな建物は、荒坂中学校(現役)です。
朝の陽射しに眩しく輝く海岸(二木島町)
定置網漁でしょうか。(二木島湾)
家屋の密集した、二木島町甫母集落のセメントの細い道を奥へ
進んだ突き当たりにあります。
小さな漁村にしては、鉄筋2階建てのしっかりとした校舎です。
校庭からは、穏やかな二木島湾が見えます。
二木島湾の眺め
切り立った断崖を目のあたりにし、怖いくらいの迫力を感じます。
須野集落の狭い敷地に平屋の小さな分校があります。
壁の板は干乾びて白くなり、戸は封鎖されており
長らく使用されていない様子です。
校舎はすでに取り壊され、講堂のみ残っているようです。
江戸時代には海岸に遠見番所が設置され、怪しい船を発見すると
狼煙を上げて近隣の村に急を知らせました。
このあたりは、異国船が出没していたそうです。
国道311号を進み、熊野市から尾鷲市に入ります。
梶賀集落から石段を50mほど登った高台にあります。
小さな平屋の木造校舎です。
校庭で芝生の手入れをされていた老夫婦がおられました。
梶賀漁港は、大敷網という大型の定置網 漁があってブリがたくさん獲れたと
聞きました。活気溢れる当時の古き良き思い出を熱く語っておられたことを
思い出します。
曽根小学校(1981年閉校)
尾鷲市曽根町にある伝統と風格のある美しい木造校舎です。
閉校後は、幼稚園となっておりましたが、現在は郷土資料館として
使用されております。
玄関の位置がやや左側にありますが、厳つい感じの屋根が水牛の角のように見えました。
なかなか力強い風貌です。
奥に講堂があり、こちらは普通の木造校舎の外観です。
古江小学校(2004年休校、2006年閉校)
賀田湾に面した古江地区にある2階建て木造校舎です。
校庭は柵で仕切られ、照明塔や物置などが置かれ雑然とした感じです。
別の目的に使用するために工事しているようです。
正面玄関は、両側によしずが掛けられ、南紀の陽射しの強さが窺われます。
表札は、「しお学舎の塩」とあり、尾鷲市の海洋深層水を利用した塩で
けんぴ(サツマイモを細切にして硬くしたお菓子)を作って販売しているそうです。
賀田湾北方の三木里地区にある美しい木造校舎です。
賀田湾を見下ろす高台にあります。
数少ない現役の木造校舎でもあり、貴重な存在です。
窓はサッシに換えられていますが、瓦屋根や板張りの壁は当時のままです。
校舎前の花壇の植栽も綺麗に手入れされ、校庭も整備されておりました。
奥に瓦屋根の講堂がありますが、こちらは比較的新しく感じました。
いつまでも大切に残してもらいたいと思います。
三木里小学校から程なく、薄い緑の清楚な感じの木造校舎があります。
校舎は閉校後は使用されていませんが、校庭はテニス部が部活で使用しているそうです。
テニス用のネットが張られて常時使用できるように、コートが作られていました。
尾鷲市三木浦町にある木造校舎です。
高台にある小学校からは、三木浦湾が一望でき、
特産である養殖マダイの筏が並んで見えます。
校歌は、同町出身の有名な経済評論家の三鬼陽之助が作詞したものです。
三木里小学校と同様に、近い将来統合される予定とのことです。
いずれも全校生徒20名前後の小規模校であり、校舎も見えないところでシロアリ被害や
耐震問題や予算不足などを抱えて前途は暗いようです。
これは、現役の木造校舎が抱える共通の切実な問題です。
薄汚れた黄色い大きな掲示板に書かれた文字が、逆境の中で立ち向かっている木造校舎の
声のように聴こえました。
尾鷲市九鬼町にあります。
中世,伊勢・志摩を中心に活躍した九鬼水軍発祥の地です。
武将、九鬼嘉隆は関ヶ原の合戦で西軍につきますが,子守隆が東軍につき,
大名として近世を迎えることになります。
この辺りは、山々に囲まれた深い入り江となっており、海賊船が出入りするのに
格好の立地条件だったと思われます。
校舎は、3階建ての鉄筋校舎ですが、1階、2階の教室には庇が施され
南国の陽射しの強さが感じられます。
正面玄関には、カヌーが2艘置かれており、生徒らの手造りかもしれません。
尾鷲市市中心部から国道42号に合流し、尾鷲湾に沿って北上、
県道202号を進んだ白浦集落にあります。
錆びたバックネット越しに老朽化した木造校舎が見えました。
現在は、作業用として民間利用されているようです。
蔦の絡まったフェンス越しに白浦湾を臨むことができます。
紀北町島勝浦集落にあります。
表札は、海山(みやま)町立島勝小学校となっており、
紀北町に統合前のままです。
正面に3階建ての重厚な鉄筋校舎、左手に体育館があります。
校舎の壁は黒ずみ劣化している状態ですが、体育館も2階の庇裏は
黒ずんでいますが、比較的新しく建てられたものと見受けられます。
校庭に車が数台ほど駐車しており、集会所として使用されている
ようです。
島勝小学校の近く、県道202号の突き当たりにあります。
現在は、「島勝浦体験型イベント交流施設」となっております。
地元では、「けいちゅう」との呼称で親しまれているようです。
須賀利町は、紀北町と隣接し陸続きですが、尾鷲市の飛び地となっております。
かつては、尾鷲港から巡航船が往来しておりましたが、2012年9月に廃止になりました。
訪れた当時は、まだ運行しており、ショートカットしようと乗船を試みましたが、
失敗に終わりました。原付バイクを載せようと埠頭桟橋から船のデッキに
引っ張り上げようとしましたが、乗船口が狭く無理でした。
船上から尾鷲湾と須賀利漁港の風景を見たかったのですが、残念です。
校舎の前は低い堤防があり、海を一望できます。
須賀利漁港は、日本の原風景が残っている素朴な集落であり、多くの画家によって
描かれています。
小学校から高台に上った場所にあります。
荒涼とした校庭の奥に2階建ての鉄筋校舎が見えました。
避難場所を示す立て看板がありましたが、廃墟に相応しい場所です。
帰路は、尾鷲市内から国道425号に入り、奈良県上北山村を
経由しました。
紀伊半島の険しい山地を横断する「酷道」425号は、マニアには有名な難所です。
見通しの悪い狭い道が続きます。
沿道は人家も途絶え孤独な道程になりますが、目に入った標識からやっと
奈良県を走っていることに気が付きました。
峠道を長く走ったところで、坂本ダムに堰き止められた貯水池の
悠然とした風景に変わりました。
ダムが出来るまでは、住民がおられたようですが、今は無人集落となっております。
貯水池に架かる出合橋の手前を右折し、最後の目的地である東ノ川小学校へ向います。
学校の歴史を紐解くと、坂本ダムが完成すると水没するため、
1964年(昭和39年)にダム建設補償で、当時としては画期的な
鉄筋コンクリート構造の2階建て校舎を建て移転しました。
しかしながら、坂本ダム竣工に加えて海外からの輸入材解禁などを原因とする
林業衰退が引き起こした急激な人口流出により児童・生徒がゼロの事態が続き
5年後の1969年(昭和44年)に休校となってしましました。
(東ノ川集落も無人集落となりました)。
この新校舎で学んだ児童・生徒は小中学校合わせて全部で5名だけでした。
このような波乱の経緯のある校舎は、窓ガラスは割られ、教室はガラスの破片等が散乱し
心無い落書によって見るも無残なものでした。