小野田寛郎さん御命日 | ひふみ塾 世回りブログ

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 昨日一月十六日は、五年前九十一歳にて卒去なさいました、小野田寛郎元帝国陸軍少尉の六回忌にあたります。

 改めて、そのご生涯に、深甚なる敬意を捧げます。



後ろに立っているのが見習士官(陸軍曹長)当時の小野田寛郎氏。前に座っているのが実弟の滋郎氏(陸軍少尉)。



小野田 寛郎(おのだ ひろお、1922年(大正11年)3月19日 - )は、日本の陸軍軍人。

階級は陸軍少尉で情報将校だった。

陸軍中野学校二俣分校卒。

大東亜戦争終結から29年目にしてフィリピンルバング島から帰還を果たす。


軍歴

上海の商事会社で働いていた1942年、現役兵として歩兵第61連隊(和歌山)に入隊。

転属等を経て、陸軍甲種幹部候補生に合格、陸軍予備士官学校に入校。

卒業後、中国語や英語が堪能だった事から、陸軍の情報学校だった陸軍中野学校二俣分校へ入校、情報将校としての教育修了後、退校命令を受領する(中野学校は軍歴を残さないため卒業ではなく退校を使用)。

1944年12月、遊撃戦指導の任務を与えられ、横山静雄中将から「玉砕は一切まかりならぬ。

3年でも、5年でも頑張れ。

必ず迎えに行く。

それまで兵隊が1人でも残っている間は、ヤシの実を齧ってでもその兵隊を使って頑張ってくれ。

いいか、重ねて言うが、玉砕は絶対に許さん。わかったな」と命令を受けた。

また、派遣前には司令部が持っている情報は全て教えられ、日本が占領された後も連合国軍と戦い続けるとの計画のもとでフィリピンに派遣された。

派遣前、母親からは「敵の捕虜となる恐れがあるときには、この短刀で立派な最後を遂げてください」と言われ短刀を渡された(この短刀は帰国後に実家に帰った際に母親に返している。)。

日米開戦後日本軍の占領下におかれたフィリピンのルバング島に1944年12月31日着任。

着任後は長期持久体制の準備に努めるが、島内の日本軍の一部の隊には引き上げ命令が出ていたため戦意が低いことと、小野田には指揮権がないため相手にされず、1945年2月28日のアメリカ軍約一個大隊上陸後、日本軍各隊はアメリカ軍艦艇の艦砲射撃などの大火力に簡単に撃破され山間部に逃げ込んだ。

小野田は友軍来援時の情報提供を行うため、部下と共にゲリラ戦を展開した。

ルバング島は、フィリピンの首都のマニラの位置するマニラ湾の出入口にあり、この付近からマニラを母港とする連合国軍艦船、航空機の状況が一目で分かるため、戦略的に極めて重要な島であった。





日本敗戦後

1945年8月を過ぎても任務解除の命令が届かなかった為、赤津勇一一等兵(1949年9月逃亡1950年6月投降)、島田庄一伍長(1954年5月7日射殺され戦死)、小塚金七上等兵(1972年10月19日同じく射殺され戦死)と共に戦闘を継続し、ルバング島が再び日本軍の指揮下に戻った時の為に密林に篭り、情報収集や諜報活動を続ける決意をする。

日本では1945年9月に戦死公報を出されたが、1950年に赤津が投降したことで、小野田ら3人の残留日本兵が存在することが判明する。

フィリピンは戦後間もなくアメリカの植民地支配からの独立を果たしたものの、両国の協定によりアメリカ軍はフィリピン国内にとどまることとなった。

これを「アメリカ軍によるフィリピン支配の継続」、またフィリピン政府を「アメリカの傀儡」と解釈した小野田はその後も持久戦法により在比アメリカ軍に挑み続け、島内にあったアメリカ軍レーダーサイトへの襲撃や狙撃、撹乱攻撃を繰り返し、合計百数十回もの戦闘を展開した。

使用した武器は九九式短小銃、三八式歩兵銃、軍刀等であり、その他放火戦術も用いた。

この際、弾薬の不足分は、島内に遺棄された戦闘機用の7.7x58SR機関銃弾(薬莢がセミリムド型で交換の必要あり)を九九式実包の薬莢に移し替えて使用していた。

これらの戦闘において、アメリカ軍レーダー基地司令官を狙撃し、重傷を負わせる等、多くの戦果を上げている。

地元警察との戦闘では2人の部下を失い、最後の数年は密林の中、単独で戦闘を続行している。

30年間継続した戦闘行為によって、フィリピン警察軍、在比アメリカ軍の兵士を30人以上殺傷した。

手に入れたトランジスタラジオを改造して短波受信機を作り、アメリカ軍基地の倉庫から奪取した金属製ワイヤーをアンテナに使って、独自で世界情勢を判断しつつ、友軍来援に備えた。

また、ゲリラ戦での主な食料として、島内の野生牛を捕獲して乾燥肉にしたり、自生するヤシの実を拾っていた。

これにより、良質の動物性タンパク質とビタミン、ミネラルを効率良く摂取していた。また、後述する捜索隊が残した日本の新聞や雑誌で、当時の日本の情勢についても、かなりの情報を得ていた。

捜索隊はおそらく現在の日本の情勢を知らずに小野田が戦闘を継続していると考え、あえて新聞や雑誌を残していったのだが、皇太子成婚の様子を伝える新聞のカラー写真や、東京オリンピックや東海道新幹線等の記事によって、小野田は日本が繁栄している事は知っていた。

士官教育を受けた小野田はその日本はアメリカの傀儡政権であり、満州に亡命政権があると考えた。

また小野田は投降を呼びかけられていても、二俣分校での教育を思い出し、終戦を欺瞞であり、敵対放送に過ぎないと思っていた。

また朝鮮戦争へ向かうアメリカ軍機を見掛けると、当初の予定通り亡命政権の反撃が開始され、フィリピン国内のアメリカ軍基地からベトナム戦争へ向かうアメリカ軍機を見かけると、いよいよアメリカは日本に追い詰められたと信じた。

このように小野田にもたらされた断片的な情報と戦前所属した諜報機関での作戦行動予定との間に矛盾が起きなかった為に、30年間も戦い続ける結果となった。

末期にはラジオで日本の競馬中継を聞き、小塚と賭けをするのが唯一の娯楽であった。

だがそんな小野田も、長年の戦闘と小塚死亡後の孤独に対して疲労を深めていった。



1974年に、一連の捜索活動に触発された日本の青年鈴木紀夫が現地を訪れ、2月20日に孤独に苛まれていた小野田との接触に成功する。

鈴木は日本が敗北した歴史や現代の状況を説明して帰国を促し、小野田も直属の上官の命令解除があれば、任務を離れる事を了承する。

3月9日にかつての上司である谷口義美元少佐から文語文による山下奉文大将名の「尚武集団作戦命令」と口達による「参謀部別班命令(下記)」で任務解除・帰国命令が下る。

一 大命ニ依リ尚武集団ハスヘテノ作戦行動ヲ解除サル。

二 参謀部別班ハ尚武作命甲第2003号ニ依リ全任ヲ解除サル。

三 参謀部別班所属ノ各部隊及ヒ関係者ハ直ニ戦闘及ヒ工作ヲ停止シ夫々最寄ノ上級指揮官ノ指揮下ニ入ルヘシ。

已ムヲ得サル場合ハ直接米軍又ハ比軍ト連絡ヲトリ其指示ニ従フヘシ。

第十四方面軍参謀部別班班長 谷口義美


翌3月10日にかけ、小野田は谷口元少佐にフィリピンの最新レーダー基地等の報告をする。

小野田はフィリピン軍基地に着くとフィリピン軍司令官に軍刀を渡し、降伏意思を示した。

この時、小野田は処刑される覚悟だったと言われる。

フィリピン軍司令官は一旦受け取った軍刀をそのまま小野田に返した。

司令官は小野田を「軍隊における忠誠の見本」と評した。

小野田の投降式にはマルコス大統領も出席し、武装解除された。

その際、マルコス大統領は小野田を「立派な軍人」と評している。

小野田は終戦後に住民の物資を奪い、殺傷して生活していたとすれば、フィリピン刑法の処罰対象になる。

小野田は終戦を信じられずに戦闘行為を継続していたと主張し、日本の外務省の力添えもあって、フィリピン政府は刑罰対象者の小野田を恩赦した。

こうして小野田にとっての戦争が終わり、3月12日に帰国を果たした。小野田は足跡を残す事を恐れて暦は全て頭の中の記憶だけで把握していたが、30年の暮らしで6日間しかずれていなかった。

小野田は発見時は51歳だったが、自分の寿命は60歳と決めていて、あと9年経って60歳になったらレーダー基地に決死の突入攻撃をして果てる覚悟だったという。




帰国後

帰国の際に「天皇陛下万歳」を叫んだ事や現地住民との銃撃戦によって多数の住民が死傷した出来事が明らかになった事(フィリピン政府当局の判断により、小野田への訴追は行われなかった)、また本当に敗戦を知らなかったのかという疑問が高まるに連れて、マスコミや文化人からは「軍人精神の権化」、「軍国主義の亡霊」といった批判もあった。

小野田に対し、政府は見舞金として100万円を贈呈するが、小野田は拒否する。

拒否するも見舞金を渡されたので、小野田は見舞金と方々から寄せられた義援金の全てを、靖国神社に寄付している。

天皇との会見も断り(自身が勝手に潜伏していたので、陛下は声の掛け様が無いだろうと判断)、小野田は戦闘で亡くなった島田と小塚の墓を参っている。



ブラジル移住

2年前に帰国し、驚くほど早く戦後の日本に適応した横井庄一と異なり、小野田の場合は父親との不仲や一部マスコミの虚偽報道もあり、大きく変貌した日本社会に馴染めなかった(マスコミのヘリがゲリラ戦時の敵軍ヘリと重なって悩まされた時期もあった)。

帰国の半年後に次兄のいるブラジルに移住して小野田牧場を経営する事を決意。

帰国後結婚した妻の町枝と共に移住し、10年を経て牧場経営を成功させた。

その後、「凶悪な少年犯罪が多発する現代日本社会に心を痛めた」として『祖国のため健全な日本人を育成したい』と、サバイバル塾『小野田自然塾』を主宰。




自らの密林での経験を元に逞しい日本人を育成するとして、講演会や野営等を行い、高齢ながらも日本とブラジルを往復し続けている。

バブル景気の頃には日本での活動の拠点として購入した東京のマンションが暴騰し、ブラジルで築いた財産以上の資産価値になったことで、日本経済の行く末についても危機感を持ったと伝えられる。

2004年12月17日、日本人として初めてサントス・ドゥモン勲章を受章。

2005年11月3日には藍綬褒章を受章した。

2010年7月当時東京都中央区佃在住だった。愛媛県議会議員・森高康行を始めとして政界とも交流をもつ。

妻・町枝は2006年、安西愛子の後任として右派政治圧力団体日本会議の女性組織・日本女性の会の会長に就任した。

保守系の活動家でもあり、日本を守る国民会議、日本会議代表委員等を歴任。

社団法人日本緑十字社理事にも就任した。

慰安婦問題の真偽に対しては日本の責任を否定する立場であり、2007年7月13日に米国大使館に手渡された米下院121号決議全面撤回を求めるチャンネル桜主導の抗議書には夫婦そろって賛同している。

また、政府見解と異なる懸賞論文を投稿したとして更迭された、田母神俊雄元航空幕僚長を支持する「田母神論文と自衛官の名誉を考える会」には、発起人として妻と共に名を連ねている。

2009年5月15日には、「小野田寛郎の日本への遺言」と題した講演を2時間に渡って行った。