これは私が10年以上続けているルーティーンの一つです。
(というと宗派は?!とよく聞かれるのですが、実は私は今のところ無神論者)
じゃあなんで!?
と聞かれるのですが、もしいても、いなくても、
何かより大きなものの存在を感じ、感謝するということは、
私たちにとって大切だと思うから手を合わせているのです。
さて、そんな僕ですが、
先日、一本の映画を観てきました。
『 沈黙 』
(キリスト教文学の最高峰と言われる遠藤周作先生の映画化!
マーティン・スコセッシ監督ということでとっても楽しみにしていました!)
キリスト教弾圧下の江戸時代において、
神は沈黙を貫く
なぜ、沈黙していらっしゃるのか?
という「神の沈黙」が物語の大きなテーマとなっています。
(というと宗派は?!とよく聞かれるのですが、実は私は今のところ無神論者)
じゃあなんで!?
と聞かれるのですが、もしいても、いなくても、
何かより大きなものの存在を感じ、感謝するということは、
私たちにとって大切だと思うから手を合わせているのです。
さて、そんな僕ですが、
先日、一本の映画を観てきました。
『 沈黙 』
(キリスト教文学の最高峰と言われる遠藤周作先生の映画化!
マーティン・スコセッシ監督ということでとっても楽しみにしていました!)
キリスト教弾圧下の江戸時代において、
いくら神を信じ、祈りを捧げても、神は沈黙を貫く
なぜ、沈黙していらっしゃるのか?
という「神の沈黙」が物語の大きなテーマとなっています。
終盤、
主人公の司祭が踏み絵を踏む瞬間、
ついに神が沈黙を破り、
沈黙していたのではない、一緒に苦しんでいたのだ
という声が聞こえてきて、司祭が泣き崩れるというシーンがあるのですが、
心が震えました。
「神が本当にいるか、いないか」
(でも、より大きなものに守られている感覚はずっと持ち続けてきました。
そうじゃなかったら、僕、生きていないかも!笑)
でも、私たちのような凡人にでも、
誰かが泣いているとき、共に泣くことができる
誰かが苦しんでいるとき、共に苦しむことができる
誰かが傷んでいるとき、傷みを分かち合うことはできる
共に感じることで、誰かを癒し、わずかなりとも力になることはできるのではないか。
主人公の司祭が踏み絵を踏む瞬間、
ついに神が沈黙を破り、
沈黙していたのではない、一緒に苦しんでいたのだ
という声が聞こえてきて、
心が震えました。
「神が本当にいるか、いないか」
は正直、私のような凡人にはわかりません。
(でも、
そうじゃなかったら、僕、生きていないかも!笑)
でも、私たちのような凡人にでも、
誰かが泣いているとき、共に泣くことができる
誰かが苦しんでいるとき、共に苦しむことができる
誰かが傷んでいるとき、傷みを分かち合うことはできる
共に感じることで、誰かを癒し、
この映画からはそのような学びと希望を頂いた気がします。
崇高な存在と肩を並べるなんて、
少しでもそのあり方にならおうという姿勢は持ち続けたい!
と思った、凡人代表、人事コンサルタント 金森秀晃でした!