「雨が降る、遠くが見えない」(絵と歌) | 色と祈りと歌うこと - Hidetake Yamakawa (山川英毅)

色と祈りと歌うこと - Hidetake Yamakawa (山川英毅)

自分自身の中に豊かにある深いものに触れて、元気や安らぎを得るのに「色と遊ぶこと」や「自分で歌う」ことが欠かせないない気がしています。
色・音の作品や「発声法」などについての気づきもシェアしていきます。

おおかみ33

発声の話で、言葉の上だけの一般論のような伝え方は混乱を招く危険なものであることは十分に分かっているんで、以下はほとんど自分のためのための単なるメモです。。

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クラシックの発声で上を開いて体の色んな部分を共鳴させる発声にどちらかという慣れている歌い手は、基本的にいわゆる"地声"(ポップス発声)での心地よい発声(比較の問題で共鳴部分や開放部分を限定しているけれど"良い"発声)というものを明確に意識化しにくい。

でも、その匙加減を明確に意識化したい、ということを考えている。(こんな話も幼いころから自由にうまく歌えていた天然歌手の方々には無縁の問いかけ、課題かもしれないんですが。。)

 

声帯という発音部位のイメージとして、色んな意味で役に立つ場合が多いのがバイオリンとかの弦と弓の関係。

弦はやはり声帯で、弓を弦の上に置いて弦にほどよい圧力をかける力加減を、声帯の位置を決める支えの筋肉のようなものとイメージする。

 

大事なのは声帯の弦はどっかで両端がおさえられていなければ鳴らないこと(開けるとか力を抜く、とかいわれると私はこの声帯自体の支えがなくなり、声帯が上にあがってしまうことがある。これが両端がはずれた状態。声帯にも不要な負荷がかかる)

 

バイオリンとかで弦と震わせる場合、弱い音であってもそれなりに弦が共鳴する力の"良い"加減がある。つまり完全に力を抜いたら音は出ない。良く合唱発声とかでもとにかく力を抜けといって声帯という発音ボックスを体の適正な位置に保持する筋肉もゆるめたら、声帯のボックスがガクガク浮き上がってしまう。


さて、私は体が曲がっていることもあるのか、でこの声帯を良い加減で"巧く"押さえている筋肉のイメージがなかなかうまくいかなかったんです。ちゃんと支えているといつもりが、結局は下に引っ張り過ぎているとか。最近自分の中で色んな意味で良さそうに思っているイメージは「体の左側は止めておく」(声帯の位置の筋感覚)。この場合、音量を上げたり開いたり、息をもっと送る場合は「体の右側を上げる」。。。いっぽう左側を止めるといっても、実際には私の高音域(E-Fの切り換え点)ではちょっと声帯は上にもっていかないとバランスがとれないときがあるんですが、そのときも上げるとは思わないで、ちょっと自由にするけれど、左側はちょうつがいのようにやっぱり押さえておいて、息を流す場合には右側のみを開ける感じにする。これだと声帯自体に負荷がかかったりガクガクすることがなくてうまくいきそう。。ほとんど自分専用の呪文?を記しているようだがこうしてどうしても記録しておきたいという気持ちになっています。。

昨日の「絵ことば」の歌をその歌い方で意識しているのが以下の動画です。