森田童子って誰?(下)最終回その2・完結 | ひでぱん。のダックスな・・・

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森田童子って誰?は、今回の記事で完結です。
過去記事はコチラやじるし
(上)イントロ
(中)生い立ち
③(下)最終回その1・命
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当たり前ですが、森田童子は、いつも周りにいる仲間とは普通に会話していました。
言葉は少なかったようですが。
そんな中に、童子の歌に衝撃を受け、よく「海底劇場」に出入りし、ライブやコンサート活動に関わっていたMさんがいました。コンサートの司会もされたそうです。
Mさんは明かしています。
そもそもA子さんは、森田童子としての活動は、ファーストアルバムの「グッドバイ」だけで終わるつもりだったと。こんな会話をしたそうです。
「グッドバイというタイトルは、太宰治から取ったんですよね?」
 『そう』
「もしかして、このデビューアルバムで終わるつもりで?」
『(笑いながら)へえ、よくわかったわね。本当はこの1枚で終わるつもりでつけたんだけど』
毎回、アルバムを発表するたびに、これで最後という感じがありました。
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それから、歌の歌詞は願望ですが、歌う前の語りは周りの人を実名で語っていたそうです。
ある時、売れない俳優が、酔ってバス停のベンチを持って帰ってきたという語りをしたそうです。Mさんは、それは無いだろうと思っていたところ、「海底劇場」に行ったら、本当にそのベンチがあったそうです。
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森田童子は結局8年活動しましたが、そのうち丸2年、曲を作らなかった時期がありました。
でも、ライブは続けていました。この間にレコード会社の移籍があり、ついに完成したアルバムが1980年11月リリースの「ラストワルツ」(通算5枚目)でした。
同じ11月20日から24日に、東京・池袋の空き地で黒色テント劇場「夜行」連続5日公演を行います。
この時のドキュメンタリーが、東京12チャンネル(現テレビ東京)で、放送されました。
同じ年に放送されているので、12月の放送かと思われます。
番組名は「青春の日本列島~森田童子 ラストワルツ~」です。
以下の貴重な動画は、その番組のようです。
残念ながら、ハメ込みは不可でしたので、リンクを貼りました。
3本に分割されていますが、1つが7分前後。全部で20分ほどです。
森田童子本人が語り、歌う姿を見ることが出来る、唯一の映像です。
さらに②では貴重なリハーサルの様子まであります。
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森田童子・ラストワルツ「夜行」①
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森田童子・ラストワルツ「夜行」②
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森田童子・ラストワルツ「夜行」③
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森田童子は、時折執筆活動もしていました。
1977年に女の子向けファッション雑誌「mc Sister」にも随筆を。
活動最後の年には、森田童子名で4月から6月にかけて全10回、
朝日新聞水曜の夕刊にエッセイを書いていました。
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最後のライブは1983年(昭和58年)12月26日、新宿ロフトでの前進座劇場「狼少年」追加公演でした。この12月に入ってからのコンサートのチラシには、「同時上映・黒色テント記録映画」と入っています。上記のドキュメントが上映され、これが本当の「ラストコンサート」だと伝えているようです。
でも、森田童子本人は何も言わずに消えました。
森田童子が伝説になった瞬間です。
ラスト・ワルツの歌詞の最後の3行は、
「すべてが終わる
 un deux trois
 せめて最後に ラスト・ワルツ」
その後、いろんな噂はありましたが、うわさの域を出ません。
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ただ翌年、突然「森田童子」の名前が出てきました。
それは、読売新聞3月5日付けに掲載されたつげ忠男氏の作品集「懐かしのメロディ」の書評でした。それは森田童子名義で突然掲載されたそうです。
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10年後、1993年(平成5年)、ドラマ「高校教師」の主題歌として「ぼくたちの失敗」がテレビから流れました。当時のファンの人たちとっては、とても衝撃だったようです。
時代を共有していたファンには、心の奥に封印されていた扉をこじ開けられたと表現する方もいました。
ドラマのヒットとともに、森田童子にも当然、復活を待望する声が上がりました。
その年、3月にベストコレクションCDが、4月には過去の全アルバムがCD化されました。
11月には映画公開と合わせてベストコレクションⅡがリリースされました。
でも、森田童子本人が出てくることはありませんでした。実は、ドラマが放送される半年前に、友人を介して森田童子に会いたいと打診した人がいましたが、会うことはかないませんでした。答えは、『今はひとりの主婦として静かな生活をおくっているから。』、だったそうです。
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そして2003年(平成14年)、ドラマ「高校教師」が藤木直人と上戸彩で放送されました。
ここでついに森田童子が歌声で沈黙を破りました。
A子さんは51歳になっていました。2003年1月、A子さんの自宅で極秘レコーディング。
ギターもハーモニカも一人で自宅で演奏し録音しました。20年ぶりでした。
1980年の「海が死んでもいいョって鳴いている」を新たに「ひとり遊び」というタイトルで録音し、それが、「ぼくたちの失敗 森田童子ベストコレクション」(16曲)の16曲目に収録されました。この1曲だけが新たに録音されました。そして3月5日にリリースされました。(スポニチウエッブ参照)
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聞くと、声には率直に少々歳を感じましたが、歌い方や世界観は森田童子そのものでした。
「ひとり遊び」はコチラ。
「また、当時の森田を唯一撮影した貴重な映像も見つかり、 プロモーションビデオ化して公開されることになった。 」(スポニチウエッブ) この映像は、テレビ放送されたドキュメントをA子さん本人が録画したものをスポニチクリエイツが所蔵していて、それを白黒加工してPVを作成しました。
ただし、A子さん本人は何もコメントしていません。
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最後に、2010年の朝日新聞で特集記事を書いた記者は、A子さんの消息を知る人を介して「ぼくたちの失敗」がヒットした時に、なぜ再び歌おうとしなかったのかその真意を知りたく、対談したいと打診してもらいました。
返ってきた返答は、「とても親しかった人との唐突な死別とみずからの病で『手紙すら書けないほど憔悴(しょうすい)している』」というものでした。(朝日新聞)
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当時も今も、街中でA子さんとすれ違っても、隣の人がA子さんであっても、その人が森田童子と気づく人はいないでしょう。
やはり、ステージの上でしか存在しない虚像だったんだと思います。
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かなり長い記事になってしまいましたが、最後まで読んでいただき、心から感謝いたします。
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では、また。


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