森田童子って誰?(上)イントロ | ひでぱん。のダックスな・・・

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はじめに、この記事はあくまで個人的な感想、推測で書く部分があることをご了承ください。
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そもそも、森田童子って誰?と思ったのは、ごく最近のことなんです。
Youtubeである音楽を探してる時に、たまたま森田童子さんの
「ぼくたちの失敗」と言う曲が出てきて、見てみました。
そういえば、昔(1993年平成5年)、高校教師と言うドラマがあって、
その主題歌だったと言うのは知っていましたが、
ドラマを見たこともなく(まだ幼かったから)、なんとなくYoutubeを聞いてみました。
すごく暗そうなドラマだなぁと思い、なんかこの曲と合ってるなぁ~と思いました。
当時、高校の教師と女子生徒の禁断の恋や近親相姦を描いて話題になり、
映画にもなって、2003年(平成15)に上戸彩さん主演でリメイクドラマが放送されたそうです。
最初のドラマのYoutubeをとりあえず貼り付けました。
ドラマをきっかけに、主題歌の「ぼくたちの失敗」は95万枚を超える売り上げを記録。
でもその時には、森田童子が姿を消して、すでに10年が経っていました。
しかも、大ヒットにもかかわらず、けっしてリアクションを起こしませんでした。
そして残っている画像はすべて、ボサボサのカーリーヘアーに黒いビニールジャンバー、
決して人前で外さなかった丸いサングラス。
ファンの誰もが素顔を知らない。
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歌ってる森田童子さんってどんな人だとうと思い興味を持ちました。
しかも、すこしネットで調べてみると謎だらけの人でした。
よく調べてみたら、わずか2年前に朝日新聞の夕刊の別刷の、
「うたの旅人」という記事に2面にわたって取り上げられていました。
当時の森田童子を知る人のインタビューも掲載されていました。
そのほかにも、当時のラジオのやり取りを再現したサイトや雑誌のインタビュー、
「森田童子・ラストワルツ」というドキュメンタリーがありました。
それらを元に書きたいと思います。
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私的な結論は、森田童子は8年間実在した虚像だったんだと思います。
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最初にプロフィールと活動経歴をあげてきたいと思います。
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プロフィール
おおやけになってるプロフィールは、
「1952年(昭和27年)東京生まれ。学園闘争の渦中にあった高校時代、深夜ラジオで流れるサイモン&ガーファンクルを聞いていた。1970年に高校を中退、暇にまかせてふらふらと旅にでる。1972年、二十歳の夏に友人の死を死を知らせる葉書が届いたのをきっかけに歌い始めた。」(朝日新聞)です。
当時の雑誌などにも、これとほぼ同じプロフィールになってます。
その後も、ほとんど私生活に関する発言はしなかったそうです。
分かっているのは、現在は60歳。
なんか、とても昭和な感じがしますよね。
このプロフィールって真実なのでしょうか
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活動履歴
活動していたのは、1975年(昭和50年)11月から1983年(同58年)の8年間。
太宰治の未完の遺作「グッド・バイ」と同名タイトルのアルバムと、
彼女が歌うきっかけとなった亡き友達を歌った「さよならぼくの友達」で
ポリドールからデビューしました。
途中、ワーナーパイオニアに移籍します。
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所属事務所は「海底劇場」。音楽事務所らしくない名前です。
所属歌手は森田童子の1人だけ。
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8年間で7枚のアルバム、4枚のシングルを発表しました。
作品の中には、学園闘争時代が色濃く出ている歌詞も多くあります。
内容的に決して放送できないだろうと思う曲もあります。
コンサート活動はライブハウスを中心に歌っていました。
既存の大きなホールではコンサートをしませんでした。
でも、日本のどこでも呼ばれれば、どんなに小さいところでも歌いに行ったそうです。
各地の支援会、地方の青年会、沖縄の島にも。
何よりも、彼女の歌の世界には、熱狂的な一部の大学生を中心とするファンがいました。
口コミで噂が広がり、デビュー2年目には、ライブハウスは入りきれない客が溢れ、
驚異的な観客動員を続けたそうです。そして、ライブハウスの旗手と呼ばれるようになりました。
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デビュー3年目の1977年(昭和52年)6月、豊島公会堂で初の東京コンサート
「童子像」を行いました。主催は早稲田大学プロデュース研究会のようです。
800人の定員から300人もの観客が溢れ出してしまったそうです。
それでも姿を消す最後まで、小さな会場にこだわり続けました。
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1978年、それまでクラシックのコンサートでしか使用されなかった、
東京カテドラル聖マリア大聖堂でコンサートを行い、ライブレコードが出ました。
結局、今でもクラシック以外で行われたコンサートは、この1回だけだそうです。
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1980年(昭和55年)「黒色テント劇場・夜行」を行います。
2年越しの念願だった空き地での公演。
東京の空き地(池袋三越裏の私有空き地)に約500人が入るにテントを建てて、5日間で3500人の観客を動員しました。
既存のコンサート会場ではなく空き地にこだわり、テントが張れる場所が決まるまで、
かなり苦労したようです。
この時のドキュメントがYoutubeにありますが、自主制作のようです。
とても貴重な映像です。
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森田童子はとうぜん偽名です。仮に本名をA子さんとします。
A子さんは、自分が作る歌の世界を表現するために森田童子と言う虚像を作ったんだと思います。
黒いサングラスに黒いビニールジャンパー、黒子に徹し、歌の世界だけを聞いて欲しい、
そんな感じです。
それから、A子さんの生い立ちにも理由がありそうです。
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森田童子さんは、コンサートやラジオ出演で歌うとき、曲の前に語りを入れてから歌に入ったり、曲の間奏の時に詩を朗読するような語りを入れたりしていました。
「ぼくたちの失敗」を歌う前には、
「仲間が何人も申し合わせたように,規則正しく集まって来る喫茶店があった。
いつもアメリカへ行く事ばかり夢みている男,へたくそな自称詩人,売れない役者,
映画青年,競馬新聞ばかり見ている退屈な男達,
それは遊園地のメリーゴーランドの様に騒々しく陽気でまた淋しいものだった。」
と語ってから歌が始まりました。
歌詞に出てくる喫茶店の風景を想像させるものです。
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森田童子の歌はA子さんの実体験を元に書かれているのでしょうか
当時、新しいアルバムが出るたびにインタビューしていた音楽ジャーナリスト宮沢一誠さんは、こう打ち明けられたそうです。
「ありのままの青春を歌っていない。私の歌は『思い込み』なんだよね。友達とはこんなふうに別れたなぁ、と言うのではなく、こんなふうに別れられたらなぁという願望。その願望を歌って、それを青春として『思い込む』んだよね。・・・」(前述の朝日新聞より)
数少ないラジオや雑誌のインタビューでも同じことを話していました。
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長くなったので、今回の記事はこの辺で。
次回はA子さんが森田童子になる前のことを書きたいと思います。
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では、また。


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