村井秀夫ってどんなひと?① | 村井秀夫刺殺事件の真相を追って

村井秀夫刺殺事件の真相を追って

村井秀夫は何故殺されたのか?徐裕行とは何者なのか?
オウム真理教や在日闇社会の謎を追跡します。
当時のマスコミ・警察・司法の問題点も検証していきます。
(2018年7月6日、麻原彰晃こと松本智津夫死刑囚らの死刑執行。特別企画実施中。)


●オウム真理教No.2”マンジュシュリー・ミトラ”村井秀夫(1958年12月5日 - 1995年4月24日)

大学での研究にも、企業でのプロジェクトにも、結婚を含めた家庭生活にも、生き甲斐を見いだせなかった……。そして、このまま死んでいくのが見えてきたわたしは、修行に入って初めて人生の目的を知り、煩悩の減少に伴って悩みが少なくなり、各段階のヨーガを成就するごとに苦しみが滅尽し智慧が向上したことを思い出します。
(1994年12月18日オウム真理教ラジオ放送「エウアンゲリオン・テス・パシレイアス」)

1958年12月5日、村井秀夫。
京都府に生まれ。
幼い頃の村井は、人と争うこともせず、いつもニコニコしている穏やかで優しい少年だった。運動が苦手で、プールに連れて行っても震えているような子だった。



動物好きで、「大きくなったら動物園の飼育係になる」と言っていた。家族と一緒に熱帯魚や小鳥を大事に育てたこともあった。ところがある日、その熱帯魚が死んでしまうと村井は今にも泣き出しそうな悲しい顔をして一日中ふさぎこんでしまったという。

「子供のころは、本当に優しい性格でした。動物好きで『将来は、勉強して動物園の飼育員になるんだ』と目標を輝かせていたことを思い出します」(実家近くの主婦)



村井が小学生になった頃、家族と共に大阪府吹田市に引っ越しをする。
そこには、高度成長期の中作られたばかりの日本初の大型都市計画、千里ニュータウンがそびえていた。

1969年、アメリカ合衆国がアポロ11号を月面着陸させる。当時村井は小学4年生だった。





翌年の1970年、大阪万国博覧会が開催された。村井のすぐそばで科学の新しい波が打ち寄せてきた。
村井の住む団地からは、いつも万博のシンボルである太陽の塔が見えていた。

小学生のころに見た新たな科学の夜明け。やがて村井はSFに大変興味を示す。
テレビ映画「スタートレック」の大ファンになり、特に登場人物の一人、ミスター・スポックが大好きだった。

趣味は望遠鏡で星空を観察しながら空想にふけることだった。内向的で友達は少ない方だった。部活は陸上部に入部し、運動嫌いを克服した。

村井「精神世界というか、テレビの影響なんですけれども、超能力とかありますでしょう。ああいうのが自分にないはずがないという妙な観念があったんですよ。小学校の頃から。ところが、実際にはできないと。例えば、カードを裏返しても見えないし、念力も働かないし。そのころはいろいろ試行錯誤しましたね。内向的な子供でしたから。人前で話せないんですよ。ドキドキして。上がり性で。しかし、体は丈夫でした。病気もしないんですよ。入院とかもないし。そういう子供時代でしたね。そのころから理科的なことには全部興味があって、一人でやってましたね。しかし、やはり長ずるにおよんで、このままでいいのだろうかという疑問が頭をかすめました。それで元からあった超人願望みたいなものが、かなり露骨に出てきてね。それで、仙道とか、ヨーガとか、そういうのを何とかトレーニングしようと。」



小学校を卒業した村井は、吹田市立青山台中学校へ入学した。

「とにかくおとなしかった」(中学の同級生)

1972年、村井は友人の兄がトラックへ飛び込み自殺する光景を目撃する。

3年のある日、校舎の隅に、大きなクモが出た。男子生徒が取り囲んで、足で踏み付けたりしてはしゃいでいた。村井だけはその輪に入らず、黙ってじっと見ていた。

「無視も殺さないタイプという言葉はまるで、彼のためにあるようでした」

仲間と遊ぶことはほとんどなかったが、学習塾に通うこともなかった。



●大阪府立千里高校時代
中学校を卒業した村井は、進学校として有名な府立千里高校へ入学した。
当時の先生は村井について次のように語っている。


平岡卓英氏「僕が担任したとき思ったことは素直でね、ほれで、真面目で、ほれで、どんどこどんどこ自分でやっていく方でしたわ。…あの学年でトップでしたからね。何時も数番と下がったこともないですからね」

平岡氏とは同一人物か不明だが、ある担任教師の妻は次のように証言する。「夫が受け持った生徒のうちでも、特に優秀だったらしく、『教え子にすごいのがいる』と、誇らしげに話していた。卒業後は連絡が途絶えていたので、どうしているのかとても心配していた。夫は、今回の騒ぎにショックを受け、彼のことは一切話さなくなった」高校の担任教師の妻



「phyics phyics…」
これは当時、村井が友人に宛てた年賀状である。
「今年は一つハンコをほってみました。今年も愉快にすごしましょう」



午年のときは骨組みのある馬を年賀状に描いた。
この頃から村井は創意工夫を凝らし、奇抜なネタを友人に見せびらかすようになる。

高校時代の村井秀夫を、同級生たちは次のように語る。

「私服通学も認められていたのに、いつも制服を着てきちんとしていた。自由な校風でユニークな生徒が多い中、まじめなお坊ちゃんタイプの彼は異質だった。無遅刻、無欠席を3年続けたのはクラスでは彼一人で、卒業式で表彰された」高校の同級生(男性)

「地学の授業で光について勉強していた時、『光の早さを超える状態を人為的に作ればタイムマシンができるんや』と、目を輝かせて原理を説明してくれた。理科系科目の成績はずば抜けていた。ガリ勉タイプではなく、のんびりしながらよい点数をとる天才型だった」高校の同級生(男性)

「定期試験も、実力試験も各教科の最高点はいつも彼だった。でも、それを自慢するわけでなく、私たちがわからない問題は『こうすれば解けるよ』と親切に教えてくれ、クラスメートの先生役だった。休み時間に黙々と本を読んでいた。あまり字がうまくなかったことに親近感をもったのを覚えている」高校の同級生(女性)



数Ⅲの授業中、難問の回答に詰まった教論に代わって、黒板で解いてみせたこともある。
「こうすれば簡単に解けますよ、とスラスラと解いた。先生よりも賢いんだ、と驚いていたことを覚えています。でも、それを自慢するようなそぶりは見せたことはなかった」高校の同級生(女性)

高校時代の村井の印象は「まじめ」の一言に凝縮される。しかし控えめで存在感の薄い存在でもあった。
「昼休み、『皆でサッカーをしよう』とクラスの全員が、ボールを持って飛び出しても、村井だけは教室に残って、じっと本を読んでいた」

「3年の時は、クラスメイトクラスメートのほとんどが男子生徒の理系クラス。幾つかのグループがあったが、いずれにも加わらなかった」

所属した科学グループ「理研部」での活動ぶりを覚えている同級生もほとんどいない。

ひっそりと科学や物理に情熱を燃やした村井は、高校の図書館で科学の専門書を読みふけった。塾に通うことも無く、独学で勉強を続けた。欠かすことのなかった授業の予習。高校の成績は学年でダントツの一位。授業中の質問もレベルが高過ぎて高校教師たちを何度も困らせた。
教師は「京大を受けろ」と勧めたが、村井は安全策で大阪大学を受験した。村井は手が掛からないほど真面目な青年へ成長した。




やがて大阪府立千里高校を卒業すると、大阪大学の理科研究科へ現役同格した。



「勉強しなくても、成績がいい人いるでしょ。村井君はそういうタイプ。物理野問題などを丁寧に教えてもらいました。村井君に勉強を教えてもらった同級生は多いはずです」(大学の同期生)



村井は大学では天文同好会に入り青春を謳歌した。
当時のアルバムを開くとまだあどけなさの残る村井の写真が記録されている。









その中には、仲間たちと作った手作り望遠鏡のスナップがあった。




下宿で酒を飲み、人生論などを話し合ったが、大きな声を出したり熱くなることはなかった。

「温厚なので、友人からは『お釈迦さん』と呼んでいた。村井君のほほ笑んだ顔は本当に、お釈迦さんみたい。優し過ぎる性格でした」(友人)





「優しくて気が弱いという印象が強く、人を引っ張って行くタイプではなかった。最高学年になっても地味な会計を担当していたが、性格通り部費の取り立ては甘く、滞納者がたくさんいた。仲間の下宿で酒を飲み交わしながら人生論をたたかわせても熱くなることはなかった」(大学の天文同好会の仲間)



仲間からは70年代のアイドル歌手、城みつるにそっくりだといわれた。昼休みには図書室で当時流行の「紅茶キノコ」の研究に没頭した。



専門の物理学以外にも興味を持ち、何かを始めると寝食を忘れて打ち込むタイプ。ただ本人が『熱しやすく冷めやすい』と言っていた通り、次々にいろんなことをやった。ひところ動物園の写真に凝り、全国の動物園を十カ所余り回ったこともある。シャボン玉が割れる瞬間を撮影しようと、シャボン玉を割る電極とフラッシュをつないだ回路を自分で組み、撮影に集中したこともあった。



これは、当時のサークルノートにある村井の自筆ページである。
「やっと遅延装置ができた。手始めに、シャボン玉の割れるところを撮ることにした」



電線に触れる針にシャボン玉があたるとストロボが光るこの装置。結局針を刺してもシャボン玉は割れずに失敗。





大のSF小説好きだった村井は、常にかばんの中に文庫本を入れていた。なかでも、、SF幻想文学の第一人者と呼ばれるレイ・ブラッドベリの「火星年代記」には異常なまでに愛着を見せた。

村井「とにかく面白いんだ。一度、呼んでみたらどうだい。貸してあげるよ」

かばんから文庫本を取り出し、一読するようにしつこく勧められた友人は何人もいる。

〈20世紀末の1999年冬、地球から火星探検隊が出発する。やがて、ほとんどの火星人は全滅。地球人の移住が始まり、火星に植民市が建設される。が、2005年、地球で核戦争が勃発。地球人は地球へ帰っていく…〉

テレパシーや集団催眠、人類の自滅。空想のストーリーが、青年期の村井をとりこにしていた。



大学院へストレートに進むと宇宙物理を専攻、天体のX線放射を研究した。
「人工衛星を利用して宇宙からくるエックス線量を検出する機器の開発に取り組んでいた。パソコンのソフトウェア作りについては天才的な素質をもっていた。起用というか、とにかく早い。研究室のソフトも彼に整理してもらったくらいだ」(大学院時代の指導者)





この時から曼荼羅やインドの宗教に興味を示しはじめ、仙人やヨーガを会得したいと語っており、授業時間に瞑想することもあった。本格的なものを身につけたいと考えた村井は、大学の書庫で『ヨーガ・スートラ』を見つけると、それを一所懸命読みふけった。

「彼は自分の能力の限界に挑戦するのが好きでたまらん男なんです」(サークル仲間)



1977年、村井は大阪大学大学院理学研究科修士課程修了、理学修士として卒業した。
神戸製鋼へ就職すると、村井は金属がアメのように伸びる「超塑性鍛造」の研究に携わった。




社内での村井は大変よかったという。当時の同僚によれば
「仕事を教えるとすぐに覚えてしまう。これで新入社員かと思うほど切れ者だった」という。

その後、6歳年下だった森脇佳子と付き合いはじめる。

森脇佳子。神戸市内の進学高校を卒業し、大学でも宇宙物理学を志望していた。しかし、過程事情で進学を断念、神戸製鋼所に就職した。そのとき同期だったのが村井だった。2人が結ばれたのは自然だったようにみえる。

「傷ついたハトを拾って手当てしてあげたり、優しい子だった。恋愛に興味がなく、友達との交換日記に『山にこもりたい』と書く変わったとこともあった」(森脇の高校の友人)

天文学部に所属し、自分の望遠鏡を持って、夜間の観測にも出かけた。しかし、親に止められて写真部に移る。運動会では一眼レフカメラを手に駆け回り、クラス仲間の写真を撮った。

生き物好きで天文学とカメラに興味を持ち、内向的な性格や恋愛に無縁なところまで、村井幹部との共通点の多さに驚く。

しばらくして森脇は村井から「君のウンチでも食べる、結婚してくれ」と大胆にプロポーズをされた。





1985年4月に職場結婚。妻とヒマラヤが見たいとネパールのカトマンズで式を挙げた。夫婦は社宅で共に暮らしはじめた。会社の寮は六甲山頂や四国の森に近く、週末にキャンプするための自転車旅行も容易な地域であった。

「普通の、新婚さんのように、2人で休みの日に出かけられたりとか、そういう風にお見受けしましたけど。ごく普通の人でしたね…」(新婚時代を知る女性)



このままの生活が続けば、村井自身犯罪に身を落とすこともなく円満な人生を送る事ができたであろう。子供を引き連れてピクニックに出かけたり、一緒にサイクリングを楽しむこともあったであろう。そして、多くの一般人がサリン事件に巻き込まれることも無く平和な日々を過ごせていたことだろう。

「とても博学で少しでも興味があると熱中する。シャボン玉が割れる瞬間を撮影しようと一生懸命だった。曼荼羅に興味を持つと一週間も教徒に泊まり込んで毎日、お寺巡りをした。奥さんとはネパールで結婚式を挙げたのですが、現地の風習で結婚式のときに奥さんの足にキスをした。その様子をビデオで照れながら説明してくれました」(親友の一人)

「本人から聞いたんですが、住んでいた社宅で何かの研究のためにコオロギの飼育をしていたら、コオロギがやたら増えて部屋中に飼育箱があふれてしまった、と語っていました。かと思えば、1日に何回セ○○スできるか奥さんと試してみようと挑戦したら、なんと28発できた、なんて平気な顔でいう。こういう話を人をおもしろがせるつもりでいうわけでもなく、こともなげにいう人間だった」

しかし、村井は何かが満たされないものを感じた。次第に大学での研究の狭さ、そして一生を懸けてすることの出来る仕事の量の少なさなどに一種の虚無感を感じ始めていた。卒業後、幅広い技術を求めて就職した会社も大師の理想とは掛け離れており、利潤追求に疑問が生まれた。そんな中で村井はだんだんと仕事に飽きていく自分を感じていた。

「非科学的なことは信じなかったと思うが、ネパールに行ったことで神秘的なものへの憧れが根芽生えたのかもしれない」(大学の天文同好会の仲間)

妄想癖も悪化しはじめた。

教団の機関誌のインタビューでは、村井は当時の自分を次のように語っている。

編集部「それまでに神秘体験はあったんですか。」

村井「夢見はたくさんあったんですよ。それは当たり前のことだろ思っていましたからね。(略)夢ではもう完全に超能力者でした。こう、念じれば動くとかね。あと、手を伸ばせば飛んでいくとか、そういうのは当たり前の現象でしたね。」

村井は超能力や目に見えない力、解脱という言葉を周囲に漏らしはじめ、仙人になる方法や超能力への関心や、ヨガを会得したがるようになっていた。

村井はハタ・ヨ―ガや、小周天、気功法など自己流の修行を毎朝、嫁と一緒にはじめた。手探りの中、蓮華座が組めるようになった。

村井はヨガを研究するため本屋へ通った。ある日、村井の目に興味深い二冊が飛び込んで来た。

『生死を超える』


『超能力秘密の開発法』


長髪髭もじゃの顔に細めがちの目。鍛え抜かれた体は厳しい修行をくぐり抜けた証だろう。人体や宗教の知識も豊富。麻原彰晃。彼こそ本物の修行者だ。



村井「自分の追い求めていたものがここにある!」

村井は二冊を読了すると、「オウム神仙の会・大阪支部」のセミナーに参加した。
当時、大阪支部は大内利裕が担当していた。既に予備知識があった村井は、信者達とすぐに親しくなった。クンダリニーの質問をすると、大内は「信者全員がクンダリニーが覚醒しています」と答えた。

村井「えっ、ほんまかいな!くやしいな」

村井(麻原教祖の言うことは信じることができる。僕もこのままでいいのだろうか。企業や大学ではどうしても制約があって、好きなように研究ができない。オウムに人生を捧げよう)

セミナーに参加した翌日、村井は会社に辞表を提出した。
1986年5月、麻原に心酔した村井は、妻とオウム神仙の会に入信した。

「村井くんは人間の能力の限界に特別な関心があったようです。サイクリングが好きで、あるとき、大阪から東京まで三、四日で到着して周囲を驚かせたこともある。彼が限界に挑戦したいといっているのを何回も聞きました。それがオウム入信の一番の動機だったはず」(親しい友人)

道場で修行していると、麻原彰晃と石井久子がやってきた。心の奥で、体が熱く燃える様な感覚が生まれた。押さえきれなくなった村井は妻と一緒に麻原のところへきてあいさつに来た。



村井「修行のために会社をやめました。解脱するまで頑張ります。解脱すると、空中浮揚もできるので、披露します」

麻原「マンジュシュリーの第一印象は、とにかく意志の強い人だなと。それからすごく言葉遣いが丁寧だったね。ただ、押しの強い人だなという印象はあったけどね」(「巨星逝く」より)

人の魅了するテクニックを身につけていた麻原は、村井の心の隙間へ入り込んだ。村井は麻原を「すごく暖かく大きい人だな」と実感した。その帰り道、村井は麻原のいる道場へ通うため東京のアパートへ引っ越すことに決めた。



東京の世田谷道場で、村井は教団の書類を制作する係や、占星術のプログラミングを任された。麻原がインドやチベット、エジプトへ向かうと、村井も交通手配の担当として同行した。

1987年6月。村井は妻とそろって出家するために会社の財形貯蓄や退職金までお布施として教団に寄付しようとしていた。オウム真理教の出家は、今まで持っていた財産を全て麻原に寄贈しなければならず、当時から信者の家族から反発を買い、社会問題となっていた。村井の家庭も例外ではなかった。慌てた両親は会社の同僚と共に村井の出家を止めさせようと働きがけた。村井は頑に拒んだ。
一体何故、財産を投げ打ってまで出家しようとするのか。両親が問いただしたところ

「決心は固いから止めないでほしい。ヨガをやって、解脱したい。その気持ちはこの本にある」
と言い張り、一冊の本を手渡した。熱心に読んでいたせいか、その本は表紙が少しすり減っていた。



それが『かもめのジョナサン』という小説だった。

この小説の趣旨は以下の通りである。
主人公のカモメ・ジョナサンは自在な飛行を叶えるため日々危険な修行を繰り返した。
やがてジョナサンは群れから煙たがれ、追放されてしまうが、それでも目標に突き進み、自分らしさを追求していく…といった作品である。



「かもめのジョナサンを読んでください。あの本に私のすべてが書いてあります」
村井はオウムの修行に明け暮れる自分の姿をジョナサンに重ね合わせていた。
彼の熱意に揺るぎはなかった。後年、村井の母は村井と本の出会いを呪い、次の言葉を残している。

「この本がなければ、麻原のもとに行くこともなかったかもと思うと、私はこの本を見るのも嫌です」

村井は親の反対を振り切った。


2年後の1988年、出家した村井は親友宅を訪れていた。白いクルタ、丸坊主というスタイルで、風呂に入らず、臭いがきつかった村井をその親友は鮮明に覚えている。

村井「何千年の歴史の中で確立したヨガを極めてみたい。そうすれば自然科学上のこれまで見えてこなかったことも見えるようになるかもしれない。それを研究するのはノーベル賞を取るのと同じくらい意味がある」

友人「オウムの素晴らしさ、麻原教祖の偉大さなどを語っていました。ヨガをやっているといい、私にも入信の勧めがありました」この親友は断ったが、村井は「気が変わったらいつでも言ってくれ」と言い残した。

「オウムに入信後あったのは一度だけ。ふらりと研究室に姿を見せ、『尊師は空中浮揚もできると夢中に話すので、『本当なら実際にやってみせてくれ』と言うと、『今は修行中でできないが、解脱すればできるようになる』と釈明した。覇気がなく、どこか眠っているような感じで、以前の彼をは雰囲気だ違っていた」(大学院時代の指導者)

村井からの連絡が途絶え、両親は必死になって面会しようとした。息子に会うためにはお布施を準備しなければならなかった。富士宮の本部へ向かった両親は、安いときは3万円、高い時は20万円の大金を用意しなければならなかった。

両親に再会した村井はその都度「麻原教祖のもとで一緒に修行しよう」と誘い出してきた。
「今なら、麻原教祖と会うのに特別に無料になる」と言われたときもあった。
オウム信者が、両親の自宅まで押しかけて勧誘しに来たこともあったという。

1992年、村井は麻原とともに大阪大学で講演会を行った。
「話すと、昔の村井と変わらない。けど、麻原の近くにいて耳元でいろいろと指示を受けていた。絶大な信頼があると思ったと同時に、違う世界の人間になってしまったのかという気もした」と再会した村井の昔の仲間は話す。

また村井の大学時代の恩師は証言する。「出家するとき、奥さんと一緒にきて『解脱すれば空中浮揚ができる。そうしたら先生に披露します』と言っていた。テレビで彼がサリン疑惑のことで話しているのを見て驚いた」

村井「今は修行中だが、そのうち空中浮揚ができるようになる」

恩師「できるようになったら、見せてくれよ」

恩師は冗談まじりに答えるしかなかった。




村井の思考は現実世界と逸脱していた。
オウム真理教は信者の洗脳を一層強化するため外部との接触がほとんど禁じられていた。
閉鎖された集団の中では、常識では考えられないような極論が容易にエスカレートしやすく、信者達は神秘体験や陰謀論で支配されていた。
教団内に閉じこもっていた村井も、既に社会との疎通が困難になっていた。

村井の母はテレビに息子が出演した姿を見て「ついに、来るときがきたと思いました。もし、悪いことに関係しているなのなら、警察に話して罪をつぐなってほしい。でも、あの子はサリンをつくって人を殺すようなことができる子ではないと信じてます。あの子は幹部と呼ばれていますが、麻原に騙された被害者の一人だったのではないでしょうか」と胸の内を明かす。

しかし、現実は非常であった。母の祈りも虚しく、既に村井は教団の狂気の渦中にいた。
麻原の殺伐とした思想に蝕まれた村井は、史上最悪のテロリストへ変貌していたのである。