文禄・慶長の役(秀吉の朝鮮出兵)#2 | 福永英樹ブログ

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■秀吉はなぜ朝鮮に出兵したのか?


【単純な名誉欲】

 「これまでの日本の長い歴史の中で誰も成し遂げたことのない大陸侵攻の実現」

豊臣秀吉は、朝廷・諸大名・領民からの尊敬の目を己に向けたいという、名誉欲のために朝鮮に出兵したと思います。この彼らしいシンプル理由が、出兵理由の根幹でしょうね。


【既存の東アジア秩序への反発】

 ただ、彼の心中には、中国(明)を中心とした東アジアの国際秩序に対する強い反発心があったものとも推測します。

 織田信長横死から四国、九州、関東、奥州と、僅か8年で日本国内を統一した秀吉は、ある時から、まるで気がふれたように、己は「太陽の感精により生まれた神の子である」と周りに言うようになります。さらに、「神の子である以上、日本のみに留まらず、全世界の支配者として君臨するべき」という誇大妄想を膨らませていきます。従って、朝鮮国など、自分(秀吉)より一段下の日本の大名と同列であり、その朝鮮が従うについても決して敬うべきものではなく、むしろ従属させるべきものと考えていました。


【中央集権国家建設のために利用した】

 秀吉と、その側近である石田三成は、諸大名の自治を尊重する従来の地方分権から、豊臣家が全国の隅々まで行き届いた支配を行う中央集権国家を目指していたと言います。秀吉は、日本軍として諸大名に兵員を動員させ、独裁的な力を見せつけることで政権の集権化を図ったのです。特に出兵の2年目あたりからの劣勢で、明らかに朝鮮や明の支配は不可能と判明してからの秀吉は、このためにのみ戦争を続けたとしか思えません。石田三成が、秀吉の死後にあれほど諸大名から嫌われた理由のほとんどは、この点にあると言ってもよいでしょう。


【南蛮勢力の脅威への反発】

 当時の世界は大航海時代ですから、ヨーロッパ諸国がアジア地域の植民地化を狙ったとしても、不思議はありません。しかし、これに備えて秀吉が朝鮮と明を支配しようとしたとは到底思えません。スペインやポルトガルに、まだ日本を支配するほどの力がなかったことは、その後の歴史が証明しています。一部の学者や研究家が、秀吉の朝鮮出兵を正当化するためにこじ付けたとしか思えません。



■以上が、秀吉が朝鮮出兵に踏み切った主な理由ですが、現実はどうだったのでしょうか?

 日本国内の統一戦争は、乱れた世を平和にならしめるという大義があり、それは、この時代の日本人に共通する一般的な望みとリンクしていました。だからこそ、秀吉に従った諸大名や武将たちにも「泰平の世に向かう」という一種の理想や心の張りというものがあったはずです。また彼等の協力は、豊臣秀長・千利休・徳川家康による政治路線である地方分権国家が前提にあったはずです。

 また、良き補佐役であった弟の豊臣秀長が全国統一完成までは生存しており、諸大名や領民の心を豊臣政権に向けて行くための彼の蔭の努力があったことも見逃せません。何しろ秀吉は、秀長の病死以後は、豊臣政権や領民にとって有益なことは何一つやらず、自ら衰退への道を歩んでいったわけですから… 

 また一番重要なことは、秀吉国際感覚の欠如でした。秀吉は朝鮮半島を四国や九州と同様に、また対馬海峡(国境)を関門海峡と同様にしか見ていなかったようです。日本国内の統一戦では、敵の大名さえ滅ぼすか降伏させれば、民衆を支配下に置くことが容易にできました。ところが、異民族である朝鮮の民衆は自国の軍が一時的に敗戦したとしても、他民族である日本軍に心から服従するはずがありません。少しでも日本軍が劣勢に立たされると、途端にゲリラ活動で対抗してきます。

 奪った外国の領地を真に自国の領地にすることは並大抵のことではなかったのです。もし織田信長が当時の秀吉の立場であったら、長島一向一揆の大虐殺と同様に、民衆レベルの大虐殺を迷わず行ったことでしょう。ただ、信長が何の大義もない海外派兵を行ったとは到底思えませんが(笑)



◎次回は、いよいよ文禄の役の初戦である釜山急襲における小西行長らの動向について、投稿していきます。