戦乱の世から、見事に全国統一を果たした豊臣秀吉・豊臣秀長兄弟。この二人の仲が、決定的に悪化した原因は、海外進出についての方針の相異でした。結果的に秀長の病死もあり、天下人秀吉による朝鮮出兵は、足かけ七年にも及ぶ戦争になりました。
そこで、秀吉による単なる侵略という側面だけに留めず、周りの人間の想いや、彼らがどのようにこの戦争を解決しようとしたのかについて、私なりに考察し、それをご紹介させていただきたいと思います。
(当然1回の投稿のみでは、微力な私には説明しきれませんので、数回に分けて投稿させていただきたいと思います)
■開戦前(室町時代~戦国時代)の日朝関係
鎌倉時代、元により九州の博多湾付近を襲われた日本でしたが、その後は室町幕府の創成期あたりまで、逆に日本の倭寇が朝鮮を荒らしまわる時期がしばらく続きました。
しかし、三代将軍足利義満は倭寇を禁圧し、朝鮮が服属していた中国(当時は明)に対し、形式上とはいえ、へりくだる外交政策を行ったため、日朝関係は比較的安定したものになります。義満は民族的自尊心より、貿易による利益の享受を優先したのです。
ところが、室町幕府が力を失い、戦国大名が割拠するようになると、外交・貿易のための国内秩序はもちろん、当然、国際秩序も無きに等しいものになりました。一方の朝鮮は、李王朝が支配する平和な時代が長く続いており、日本に対しても、日朝貿易についてもほとんど無関心で、僅かに対馬国の宗氏を通じての貿易だけが、唯一継続されていました。
そんな両国の状況の中で、16世紀に出現したのが、大航海時代を担ったスペイン・ポルトガルによる東アジア進出です。1543年の鉄砲伝来、1549年のフランシスコ・ザビエルのキリスト教伝来に始まり、日本国は積極的に西欧と接触し、当時盛んに国内で産出されていた銀を代価とした貿易活動が始まりました。南蛮貿易で栄えた堺の町の文化は、千利休に代表される茶の湯という美の世界もつくりだしました。
一方の朝鮮は、外国人の国内駐留を認めず、南蛮との通商や貿易にも、抑圧的かつ消極的でした。そのため、新兵器(鉄砲)を自国で生産した日本のような覇気はなく、軍備の元となる財力についても、最終的に秀吉が手にした金銀と比較しても相当脆弱なものした。
◎次回は、秀吉が、既存の東アジアの国際秩序(中国を中心とした)に対して、どう考えていたのかについて紹介させていただきます。