★民意を止めるな!「浜岡原発県民投票」の県議会審議 | ジャーナリスト 石川秀樹

ジャーナリスト 石川秀樹

ちょっと辛口、時どきホロリ……。理性と感情満載、世の常識をうのみにせず、これはと思えばズバッと持論で直球勝負。
3本のブログとFacebook、ツイッターを駆使して情報発信するジャーナリスト。
相続に強い行政書士、「ミーツ出版」社長としても活動中。

中電浜岡原発の再稼働「県民投票」の条例案審議が静岡県議会で始まった9月20日、facebookのノートに書いたブログをこちらにも再掲載する。


◆     ◆
静岡県の県議会9月定例会で、中部電力浜岡原発の再稼働の是非を県民投票で決めようという「県民投票条例案」の審議が始まった。
川勝平太知事は「原発で事故が起きたら、その結果は住民が受け入れざるを得ない。だから、再稼働させるかどうかの最終判断は住民がすべきだ」と、県民投票に賛意を示した。


ついこの間まで、県民投票に消極的だった知事がここへ来て変身したことは、一見、大きな前進のように見える。しかし、知事の変心によっても、県議会が条例案に賛成するかどうかは分からない。いや、十中八、九、否決されるだろうと僕は見ている。


つくづく「地方政治家たちは県民の何を聴いているのだろう」と思うが、福島第一原発(フクイチ)の破局的事故を見聞した今でも、原発が必要だと思っている。
さすがに「安全」とは言わなくなったが、日本経済のため、日本の雇用のため、原発は必要だ、などと錯覚している。


フクイチの事故とはどのようなものであったか。
定期検査中の5号機と6号機を除く全機、つまり1号機から4号機まで破局的な事故を起こしたのだった。燃料プールが上層階にある4号機は、1年半たったこの今も、「次の大地震が起きれば、世界の破局さえ招くかもしれない」と懸念されている。


政治家に必要なのは先見性と、事実を正確に見抜く目だ。
先見性は、われわれ国民を含めほぼ全員が「かけら」も持ち合わせていなかった。
しかし、事実を見抜く目はどうだ。
国民は、大多数が冷厳な事実を、事実通りに受け入れた。
起きたことは仕方ない(日本人らしい潔さだが…)、しかし、2度とあってはならない。
そのためには何が必要か。
第1に当事者、矢面に立つ政府や行政、官僚たちはウソをつかないこと。
第2に事故原因の徹底的な検証。
第3に、人間は必ず緩む、油断する、理想を描いても誰かが手を抜く、カネが絡めば悪魔にだって魂を売るものが現れる、自然に対する予測は必ず甘い、タカをくくる、費用がかさむものに対しては根拠のない甘い観測を是とする-人間とはそのようなものだ。だから人間の悪を許さないために、完全なる監視の仕組みを作らなければならない。
国民はいち早く、以上3点について気づいた。


しかし、肝心の政治家たちはどうだっただろう。(ここで言っているのは主に国会議員のことだ)
ここでもまた、すべての項目について国民を裏切っている!
「国民の水準に合った政治しか持てないのだ」としたり顔して言う者がいる。
ばかも休み休み言ってくれ。
今、僕らが見ている政治は、国民の水準に到底及ばない政治だ!!


中央はこうである。
地方の政治はどうか。
僕らにいっそう近い政治家たちだ。友達もいる、知己のレベルならもっといる。
そういう君らに言いたくはないが、君たちは『県民とは別人種』と思っていないか?
それとも、想像力が全く欠けているのだろうか。
浜岡がフクイチになれば、県域の7割までが放射能の影響を受ける。


僕は今、「フクイチになれば」と言ったが、福島第一原発の事故と同程度の災厄で済むという保証がどこにあるというのか。
いつの間にか君たちは忘れている。
浜岡原発がなぜこの地に立地できたか、を。
その前提は「原発の事故は100%起きない」、いや「起こしません」という約束だったはずだ。
ところが今や、君たちの頭の中は確率論で「ハマオカ」を評価しようとしている。
未来永劫、100%、浜岡で事故は起きないか。
東海・東南海・南海3連動大地震でも、原発は配管1つ壊れないか?
自信があるなら、県民が自主的に、自分でリスクを負えるか否か決めるという県民投票に反対するがいい。


県民投票は代表民主主義の否定だ、と言う者がいる。
君の支持者の前でそれを言うがいい。
代表民主主義はオールマイティーではない。
国民は、県民は、すべて君らに白紙委任をしているわけではない。
君ら議員が誤った道に進もうとしている時、それを止める仕組みを憲法は用意している。


第十五条  公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。
○2  すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない。
○3  公務員の選挙については、成年者による普通選挙を保障する。


「公務員」には、各種議会の議員も当然に含んでいる。
地方議員に対しては、住民による「リコール」制度も定められている。
言うまでもなく、議員は人間だ、そして人間は間違える。
だから暴走を抑える仕組みを民主主義国家は憲法と法律で定めているのだ。


さて、原発県民条例は法律に違反して手続きが進められたのだろうか。
何の苦もなく、議会の俎上にかけられたのだろうか。
全然、違う!!
釈迦に説法だが、耳をかっぽじいてよく聴いてほしい。
この案がここまで来るまでには、一部の人たちのとてつもない努力とエネルギーと献身があったのだ。

静岡県有権者の50分の1の署名とは、6万2000人の署名を意味する。
実際に集まった署名は16万5000人。
必要数を10万人も上回る勢いを見せた。
この間、東京では野田首相の狂ったごとくの大飯原発再稼働決定に端を発し、毎週末の夜、首相官邸を囲むデモが起きた。
ネット投票による「原発再稼働に反対」の声は優に9割を超えた。
うねりのごとく「脱原発」空気が広がった──
と言いたいのだが、ここ静岡県のリアルな現実はどうであったか。
署名活動は苦もなく目標を達したのだろうか。
違う!!
悪戦苦闘の連続だったはずだ。


原発を再稼働させるかどうかは、当事者である県民が決めようではないか。
至極まっとうな主張が、「原発がテーマだ」という1点をもって、多くの人の腰が引けてしまう。
「原発」=「タブー」みたいな空気。
今なおこんな低次元な発想が根強いことに、心底あきれるが、現実はそのようだ。
核実験反対、核廃絶の運動、これらは被爆者と、心ある人たちと、一部左翼政党が中心を担ってきた。一般の人々はなぜか遠巻き。
いつの間にか「核」と言えば、特殊な主義主張のように思わせる奇妙な空気が醸成された。
こういうものを歴代政権が積み重ね、国民に刷り込んできた。
それと「原発ゼロ」の願いが同視されている。
これは感情であろう。
異質なものを認めない、「今まで(生活や考え方、価値観)を変えるもの」には恐怖と嫌悪を抱く。
これも人間の性質だ。
日本人的、静岡的などと言う気はない。
人間とはそのようなものである。


だから県民投票のための署名活動は、決して楽勝であったはずがない。
富士山を世界遺産にする、という署名活動とは訳が違うのだ。
署名の常とう手段である「企業ぐるみ」が使えない。
社員にノルマを課して集める、などという方法が使えない。
署名活動に手を挙げた受任者たちが1人ひとりに声を掛け、説明し納得してもらう。
とてもめんどくさい、苦労の多い作業だ。
人間として、理性ある者として当然と思える行為に賛成してもらうために、どれくらい頭を下げ続けなければならなかったか。
100人中95人が素通りする中、「希望」実現のために街頭に立ち続けた。


「少数ではないか」と侮るなかれ。
議員の中には、毎朝辻立ちして主張を訴える人がいる。
立派だと思う。志がなければできない努力だ。
それと同じくらいの「思い」が、条例制定のために動いた人々、そして希望を託して署名した人たちにはあった、ということを理解してほしい。


一方、県職員の一部は市民グループが掲げた条例案を、まるで「欠陥商品」であるかのように広報にこれ努めた。
大局的に見れば、賢(さか)しい顔をした上げ足取りである。


僕と同じことを考える人はいるものだ。
浜岡原発の隣接市、牧之原市の西原茂樹市長である。
県当局が条例案に難癖をつけた直後、自身の「ひとことコラム」(9/8付)で以下の文章をつづっておられた。長くなるが引用しよう。


<住民投票条例が県議会に上程される。
浜岡原発について県民の意見を反映させようと、多くの方が署名して意思を表した。
今、その直接民主主義の動きがおかしくなっている。
一つは「条例の内容が不備だ!」と、原発再稼働推進でもない県当局が言うのだ。
ちょっと考えられないことだ。
全国で同じようなものが提案されてきたと思うし、専門家が入っているはずだ。
更に、県議会での議論に入っていない段階で「事務方が」異議ありと宣戦布告してきた。
確かに、静岡空港をやるかやらないかという時は、当事者は県だから「反論」があってもおかしくない。(もっとも、一番反対していた団体の中に県職員組合があったが)
それが、あまりにもつれない反論を二度もやってきた。
先週月曜日に市長会があった。
頼んでもいないのに「条例の不備を説明したい!」と県の局長が説明した。
余りの唐突さに開いた口がふさがらないで、だれも質問しなかった。
本当は「あえてこの席で説明する意図は何か?」と質問しようと考えたが、担当へのいじめに映ると思い止まった>


長文になったのでもうやめるが、県議会議員諸氏よ、止め役になることはあるまい。
それは民意とは違う。
せっかくの機会だ、ひとつ県民の意思を聴いてみようじゃないか。


(君らは知っているはずだ。この原発県民投票に法的な拘束力は何もない。だから「民意」がもし君ら大半の思惑と違っていたって、痛くもかゆくもない。その時はその時で考えればいい。もっとも、君子は民意が明らかになれば豹変するものだがね)



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