351 真庭、湯原から蒜山高原へ中国山地の奥深く ⑬ 島根県大田市五十猛町大浦の新羅神社 | ひぼろぎ逍遥

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351 真庭、湯原から蒜山高原へ中国山地の奥深く ⑬ 島根県大田市五十猛町大浦の新羅神社

20160509

                    太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


タイトルには“中国山地の奥深く”とありますが、今回は島根県太田市の海岸部の神社の話です。

以前から見たいと思っていたのですが、何度も通過しながらなかなか機会がなく、ようやく立ち寄ることができました。

勿論、蒜山高原(岡山県真庭市)や鳥取県でも数社からも採題させて頂くつもりですが、考えが纏まった順に書いていることから話が前後することはお許し頂きたいと思います。

 島根県に大田市がありますが、これもまた大田田根子命、意富多々泥古命の「大田」であることは言うまでもないでしょう。

 さらに言えば、太田市五十猛町も五十猛命=ニギハヤヒ=山幸彦を投影した地名であろうことも疑い得ないのです。

 さて、自ら新羅神社と幟を揚げた神社はそれほど多くはないことからとの一点だけで取り上げる事にしました。


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祭神 須佐之男命 配祀神 大屋津姫 抓津姫命


由緒

 半島から帰国した須佐之男命はここに留まり祀られた。さらに神別れ坂で別れた大屋津姫命、抓津姫命が後にあわせ祀られた。『谷川健一著作集Ⅰ』の「海を照らす神しき光」の中で、「毎年陰暦十月になると二匹の竜蛇が上がる。階蛇は韓国からやってきた神の使いであると信じられている。」との報告が地元から奉行所にあったと記載されている。

このように、古代から半島とのつながりの深い土地であり、 この神社を訪れた作家の金達寿氏は『日本の中の朝鮮文化 講談社文庫』の中で我が意を得たような表現をしているのが印象的であった。半島は廊下であり、大陸経由の文物の大半はしばらく留まり、通過してきたのは間違いのないところであろう。 しかしそれらは朝鮮文化といえるのだろうか。半島で発展しまた発明されたものがあれば、それは朝鮮文化であるが、伝達の役割だけなら、さらに源流にまでさかのぼって表現する必要があろう。

 大田市の西ブロックの協議会の発行になる『ふるさと読本』の中に、「石見風土記」によれば、五十猛神社と韓神新羅神社とは共に延長三年(925)に創建されたとある。社殿が造られた意味であろう。かっては神籬磐境のかたちで祭っていたものと思われる。また、『神なる王/巫女/神話』(高橋統一著)によれば、島根県宗教連盟発行の『宗教法人名簿』によると、当社の創立は享保二十年(1735)と言う。これは大浦神社から韓神新羅神社と改称した時期の意味と思われる。

敬愛するHP「神奈備」による


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同社縁起


この神社の祭神は武進雄尊(天照大神の弟君)とあるのは、勿論、スサノウ=タケハヤスサノウですね。

その後、五十猛命と大屋津姫命、抓津姫命が祀られています。


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由緒書には日本でこの神社だけが「韓神」と称し続けている…とありますが、筑豊の香春町の韓国息長大神大目命(=豊受大神)は言うまでもなく、私が参拝した神社としては、他にも姫路市四郷町明田字下道居706 の新羅神社を含め、京都、青森まで数例あることは申し上げておきます。

 社殿は港の直ぐそばにあります。国道からも直ぐ入れますので一度参拝されてはいかがでしょうか?

 なお、百嶋神社考古学ではスサノウは天照の弟ではありませんので確認しておきましょう。


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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


最低でも、スサノウ、五十猛ともに新羅系の方であった事は見当が付きますね…

 神代に於いて、と言っても高々3世紀ですが、新羅から九州東岸に入る時は中国山地を山越えする必要があったはずです。

 対馬海流を直接横断することは難しく、どうしても島根県(石見…)、鳥取県(伯耆…)、兵庫県(但馬)辺りにならざるを得ないのです。

 勿論、一旦釜山から西航し、百済の領域から反転流を利用し山東半島の先端から五島列島に向け南下し九州北岸に入ることは可能だったはずです。

351-5  勿論、政情が安定しており百済の領域を中継地として経由できればの話ですが。

 ただ、ここがスサノウ、山幸彦だけの神社であるかと言うとそうではありません。

 この背後の支配者が見えるのです。

それは社殿の神紋が亀甲紋章であることから、博多の櫛田神社の大幡主が想定できるのです。

スサノウのお妃である(であった)アカルヒメは大幡主の娘なのです。

そして、このアカルヒメこそイワナガヒメであり、福岡県糸島市の細石神社の御祭神でもあるのです。

 亀甲紋章のルーツを大国主と説明される方がおられますが、それは誤りで、石見、出雲は大幡主の支配領域であり、その傘下で大国主命は活動されていたから大国主も亀甲紋章を使っていたのです。

 だからこそ、天御中主、大幡主、大国主と「主」と言う尊称が使われているのです。


351-6 大国主の神紋と櫛田神社の三つ盛り二重亀甲五七桐紋   

スサノウも五十猛も大幡主の